ダウン
時刻は昼下がり。
厚い雲からわずかに太陽が覗いている。
濡れた鮮やかな葉や草の水滴。降り続いていた雨のなごりが日差しを受けてきらめいた。濃い土の匂いのする空気は熱を帯びて蒸し暑い。時折吹く風が、空気をかきまわした。
ギジッツ一行に”語り部”のルオビゴと翅族の女王候補プリマを加えた六人は、荒地を越えて、大断崖まで到達した。
霧けぶる、はるか先の切り立った絶壁が、翅族の支配圏である高地だ。その手前の、大陸に走る巨大な亀裂の、対岸が霞んでみえるほどの幅と、視界に収まりきらない台地の大きさのために距離感が狂う。
谷底には川が流れているはずだが、地上にはそのせせらぎの音はおろか陽光の反射すらも届かない。下方、深い深い谷間の底なしの暗闇からはかすかに冷たく湿った風が流れて、冥府に通じているかのような印象を見る者に与えた。大断崖こそは、まさしく人類の領域の終端なのだった。
左方に目をやれば、竜骨大橋と呼ばれる、人の手でかけられたものではない橋がかかっているのが見えた。
なるほど離れて見る分には、その形状は首長竜の頸骨を思わせなくもなかった。ただし本当に生物――竜――の化石だとすれば、大断崖を横断する長さをもつ骨格は、その主の生前の姿が山ひとつに匹敵する巨体を誇っていたであろうことを示す。化け物、などという単語では片づけられない、人知の及ばない巨竜だ。
「はー。でっけえ」
気の利いた言い回しが思い浮かばなかったギジッツの口から率直な感想がこぼれた。
「確かに」
ワギが腕組みして頷いた。
「一目瞭然ですね。五歳児でももう少しましなことが言えるのでは…」
「確かに」
従者が心無いことを言い、ワギが腕組みして頷いた。
「ううう」
「漫才やってないで、行きましょうよ」
クラジは呆れた声を出した。
六人のうち、ルオビゴの背に隠れている翅族プリマを除いた五人は、そこで互いの顔を見合わせた。
「準備はいいか?」
「あんまり良くないがな!肚は決まった!」
ルオビゴは顔を叩くと、ギジッツの問い掛けに不敵に笑って答えた。プリマは顔を半分ほど見せて、答える代わりに弱々しく首肯した。しゃらんと装身具が鳴った。今は顔合わせの夜のように、震えてはいない。
これから大断崖を下り、翅族の支配圏へ入る。
*
時間は今から二日前にさかのぼる。
「つまり、話を総合するとだ」
ルオビゴたちの今後の身の振り方についての話し合いは、詰めの段階に入っていた。
「あんたらとしては、レビーテが去ったあと、新しい女王を立てなきゃならない。そのために、前女王の叡智を受け継いだ女王候補たちを探し出して、身柄の安全を確保する。でいいんだよな」
「うむ!」
「本当に、私達の手助けは必要ないのですか?」
エニシダの方を見たルオビゴは頭を掻いた。
「もう十分助けてもらった。それに翅族の問題だからな。まあ、気長にやるさ!」
シャリリンと、プリマの装身具が鈴のような音色を響かせた。ギジッツは音に意識を向けた。焚火の照り返しを受けて光沢を放つ装身具は、無口なプリマの一挙一動ごとに、その感情を音に乗せて奏でる。
「あんたの仕事でもない気もするけど」
「そうでもないぞ!”語り部”は、翅族とは持ちつ持たれつだ。そういうならわしだ!」
「ふーん」
「当てはあるのか」
ワギが口を挟んだ。こういった場ではワギはあまり発言しない。
「…正直いうと、少し厳しいな…!」
魔族レビーテに牛耳られている翅族の支配圏の現在の様子がわからないうえに、女王候補たちのうち、プリマ・ノーヴェを除く8人の安否、および所在も不明だった。ルオビゴはまず、プリマを”語り部”の移動集落に匿ってから女王候補の捜索にあたるつもりでいたらしい。
「ひとつ、提案がある。俺達の仲間の、アケイロンという男のことで」
ギジッツは切り出した。
「魔族に捕らわれてるっていう」
「そう。ソイツの鼻ならもしかすると、『女王候補探し』もすんなり運ぶかもしれない。ただ、新月の夜になって魔界への門が開くと、アケイロンもそのまま魔界に攫われる」
レビーテは次の新月の夜に、ほぼ間違いなく地上を去るだろう。ルオビゴからすれば新月を待って、その脅威がなくなってから行動に移るのが、自らの身の安全という面ではリスクを低く抑えられる。一方、時間が経つほど、状況は悪くなっていく。
「俺達の目的はアケイロンの奪還だ。翅族の支配圏までの案内役がほしい。アケイロンがいれば、あんたらの役にも立つ。利害が一致しない?」
値踏みするように、ルオビゴがギジッツを見た。
「悪くない!だが……、聞いていいか。魔族と対決して倒す自信があるのか!?」
「うん。それがちょっとビミョーだな」
「ええーっ!?」
耳をぴんっと立てて叫んだのはクラジだ。ルオビゴはぽかんと口を開けた。その背に隠れているプリマが、クラジの声に反応して体をこわばらせた。
「まあ、何とかする」
「多分なんとかなります」
ギジッツの言葉にエニシダが追随した。
アケイロンを取り戻しに行けば戦闘は避けられない。本気の大魔公に対して確実な勝算はなかったが、今、地上にいるレビーテは仮の体だ。本調子でないのは明らかで、その一点だけはこちらに有利といえた。ルオビゴは暫く小声で唸っていたが、やがて意を決したように、ぽんっと膝を叩いた。
「賭けてみるか!”精霊憑き”に!」
「決まりだな。よろしく頼む」
*
―――侵入経路は、ルオビゴ達が渡ってきた竜骨大橋ではなく、地下が選ばれた。
平時であれば竜骨大橋のまわりには翅族の眼が光っている。魔族の息のかかった監視がいるとするなら、竜骨大橋の周囲を見張るだろう。
ほかに可能性のありそうなのが大断崖を下るルートだった。翅族の支配圏の地下、つまり高山の内部には天然のほら穴と、翅族の掘った穴が合わさった立体迷路が広がっている。大断崖の底に流れる川が迷路とつながる。案内無しでは選択できない道だ。
エニシダの魔法で、丈夫な長い縄が創造された。これが命綱になる。ワギが縄を体に巻き付ける傍らで、ギジッツがこれも魔法の杭に縄を括り付けて固定した。”暗視くん”で光の差さない谷の内部を除いて、敵の目がないことを確かめた。
「じゃあワギ、頼む」
「任された」
ギジッツが命綱を保持する。ワギが先行して、足場となる楔を打ち込みながら下っていった。”暗視くん”で中継地点になりそうな岩棚を見つけていたので、まずはそこまで降りる。
「どうですかー!?………」
「………問題ない」
ぽつんと暗闇の中に灯るオレンジの光が、ワギだ。谷間から身を乗り出して覗き込むクラジがかけた声が反響し、返事がこだました。
「…ひまだな」
「ちゃんと持ってて下さい」
縄はするすると、一定のペースを保って下降していく。順調なようだ。
ふと、縄の動きがぴたりと止まった。




