魔族たちの憂鬱
風が雲を切り裂き、吹き流した。一面の夜空を覆っていた藍色とにびいろの入り混じった雲に切れ目が入り、奥の院内、玉室に月明かりが差し込んで、部屋の主人の横顔を照らした。
ここからは空が近い。
翅族の支配圏は台地にあって、玉室を擁する奥の院はさらに、その主の地位を象徴するように、もっとも標高の高い座標に位置する。
玉室は元々、翅族を統べる女王の居室だった。
統一女王亡きいま、君臨するのは翅族ではなかった。大魔公が一柱、妖艶なるレビーテとよばれる魔族だ。
レビーテは顔をあげて、高い天井に嵌め込まれた窓に気だるげな視線を向けた。
雲の間からのぞく月は、真円にはほど遠く、弓なりの曲線をえがいている。暗黒に侵され、大きく削られた地上の月はそれでもなお明るかった。室内を飾る、建築の様式と一体になった独特のインテリアも、月光の照り返しを受けている。この装飾にかぎっては、部屋の主が交代しても、そのままだ。
玉室には大きな寝台があった。レビーテはそのうえに体をゆったりと投げ出していた。寝台の四隅の、室内と調和する豪奢な彫刻を施された支柱が、何重にも重ねられた上質な布を垂らす天蓋を持ち上げていた。天蓋が月光を遮り、レビーテの顔の半分に影を落としていた。
尊厳と威光を湛えていたかつての女王の居室は、いまや、この新たな女王の閨となっていた。
玉室では昼夜を問わず主を満たすための退廃の宴が催されていたが、この夜は、レビーテただ一人が物憂げな表情で寝台に横たわっていた。
――やっぱり、わたしをたぎらせてくれるものは、ここにもなかった。
あさっての晩には、魔界への門が開くだろう。降りた時期が少々悪く、地上から魔界へ戻るために、およそひと月近くも新月の夜を待たねばならなかった。この煩わしい制約がなければ、もっと気楽に行き来できるのだが。
もっとも、レビーテは今、配下の分身体に意識を移しているだけだ。彼女の本体はいまだ魔界の領内にあり、その気になりさえすればいつでも戻ることはできた。アケイロンの事がなければ、そうしても構わなかった。
その昔、愚かにも――いとおしい愚かしさだ――、身の程も弁えず彼女に刃向かった魔族アケイロンは、レビーテの特にお気に入りのペットになった。
なにがいいのかというと、かれは、心底レビーテを嫌っているのだ。
堪らない。
いかなる調教を施しても、彼女の魔法を以てしてさえ、アケイロンの全てを支配するには至らない。こんな存在は稀だった。彼女自身と同格か、それ以上の力を持つ存在を除いて、彼女が『掌握』できないものはいないはずだった。例外がアケイロンというわけだ。その身に宿る魔法の、何らかの特性が原因しているのだろうが、レビーテは口を割らせようとはしない。そんな無粋な真似は、とうてい出来なかった。
ただ一つだけ残念でならないのは、結局、アケイロンの力はレビーテよりも下なのだった。
第一位魔公爵の位は伊達ではなく、彼女を力で押さえつけ、捻じ伏せることができるのは、最大最古の竜族を除いて、現魔王くらいのものだった。魔族と竜族との間の不可侵協定がため、竜と争うことは許されていない。そして魔王は、女の身である自分に興味がない。
レビーテは敗北を知らなかった。
レビーテは、自らを絶対支配者と規定し、そのように振る舞う。誰もがそれを疑わない。だが存在の核に刻まれている、彼女自身さえはっきりとは自覚できていない、ある衝動からくる不満を、疼きとして覚えていた。止めてくれるのは、なんなのだろう。この世のありとあらゆるものを掌中に収めれば、堪え難い疼きもおさまるのだろうか。
それとも―――
まあ、いいわ。きっと、それを見つけたとき、わたしは心から満たされ、消滅できる。残酷な長い生の締め括りは、派手にいきたい。簡単にみつかっては甲斐がないもの。
いつになるかわからないけれど、今はただそのときを待てばいい。夜が更けるのを楽しむように。
自然なまどろみの中に落ちることはない魔族の身にとって、昼も夜も区別はなく、ただ長い。
*
この晩、アケイロンはまだ玉室――レビーテの寝床に呼ばれていなかった。
上手くすればこのままやり過ごせる。「可愛がられ」慣れているとはいえ、彼女の下を脱走したせいで、このひと月というもの、心の休まる夜は無かった。放置されているのは、ようやく飽きてくれたのか。だとしたら僥倖だ。
アケイロンの軟禁されている地下からは月が見えないが、恐らく明晩、遅くとも三日のうちには魔界との門が開くころだった。救けはついに来なかった。当然か。
彼らに、自分を救出する義理などひとつもない。それに、そもそも自分にもよくわかっていないのだし、居場所もわかるはずがないだろう。「所有物」が本来の主のもとに戻っただけだ。そうと知って大魔公レビーテと事を構えるなど(過去の自分の愚行を思い出して、アケイロンは塞いだ)、誰だって御免だ。
最初から当てにしてはいなかった。
アケイロンは今も昔も、なにものも信頼しない。
忠誠を誓ったフリは、レビーテの下にいた期間で上手くこなせるようになったと思っている。利用できるのなら何だって利用する。彼ら……大魔公ギジッツとその連れに対しては、レビーテに対する牽制か、あわよくば隠れ蓑にでもなればいいと考えていたが、その役には立たなかった。
また、雌伏の時期か。アケイロンは暗澹たる思いを抱いた。
考えを切り替えようとするが、うまくいかない。それというのもこの場所のせいだろう。
臭いの篭る地下は気が滅入る。ただでさえ瘴気が薄いうえに、鼻が莫迦になりそうな、どこまでも同じ臭いの群れ―――嫌っていたヒトのにおいすら、今は恋しい。翅族の王朝に住まうもののほとんどが、巨大なひとつの家族の一員だった。統一女王の臣民たち、彼女らすべてが、文字通り血を分けた姉妹だ。個体名をもたない翅族たちは、臭いも差異がなかった。
においは、記憶と直結する。これまで嗅いできた、かぐわしい匂いをアケイロンは記憶から掘り起こそうとした。それに連なる明るいイメージを。
そうしていると不思議と、彼ら、ギジッツ達との短い旅路のやり取りが思い出された。
あれは、そう、少なくとも、不快ではなかったな。
*
もしアケイロンが外界の空気に触れられていたなら、風が運んできた、侵入者たちの匂いに気付いたかもしれなかった。ただ気づいたところで、彼がそのことをレビーテに報告したかどうかは、また別の話であった。
「玉室」という熟語はありません。ありませんが、作者の謎のこだわりで、玉座と表記するのは、なんかチガウよね?っていう感じのアレで玉室です。




