魔法展開補助
辰砂鮫に追われる馬車。何事か独り言を叫びながらそれを追う勇者。
足を止めれば嬲り殺しだ。全体の状況は最悪とは言えないまでも、かなり近い。足場だけを見れば最悪と言えた。水を含んだ砂が有利に働くのは、この砂漠をホームとする辰砂鮫のみだ。
雨が馬車を叩き続ける。
クラジが斥候稼業に就いていた頃も、不運にもというべきか、魔獣に追われることはあった。不幸中の幸い、それでもクラジは今も生きている。その理由は単なる幸運によるところも大きいが、なにより即席罠や擬装といった身を隠す術を駆使し、魔獣を煙に巻いて来た手管があったからに他ならない。
この殺風景な砂漠は視界を遮るものが極端に少ない。敵の接近にも気づきやすいが、一度敵の接近を許せば隠れる場所がないとも言える。だが、そもそも、辰砂鮫は砂中から顔を出していない。おそらく地面の振動か何かを感知して獲物を探し当てているのだろう。
それは取りも直さず、クラジが、状況を好転させる手立てを一切持っていないことを意味していた。
ミティアがどんな想いで笛を託してくれたのか。クラジは魔述笛を握りしめ、ほんの少しだけ自嘲した。
自分の非力さは、いやというほど身に染みていたはずだ。そうさ。何もできないなんて慣れっこだ。
だからこそ変わろうと思った。自分ではなく誰かのために。
そして“力”を得たはずなのに、結局、また”誰か”に頼りきりだ。その、頼っている誰かは――負けるところなど微塵も想像できない『勇者』なのだが。
「何か、難しいことを考えているような顔ですね」
クラジは馬車の中をうろうろする足を止め、声の主を振り返る。
エニシダがクラジの顔に両手をやりながら声をかけてきた。この人は、いまいちよくわからない。抵抗せずにいると、勇者の従者は、いつの間にかクラジの眉間に寄っていた皺を伸ばして、微笑みかけた。
「飛び出していったアホを心配しているのなら、大丈夫ですよ。アホは死んでも治らないと言いますが、あのアホはそれこそ殺しても死なない筋金入りのアホです」
「阿呆…」
ひと言で4回、アホと言った。クラジはポカンとした。従者だというが、この二人の間柄もいまだに謎が多かった。
エニシダが柔らかい無表情を作って続ける。
「忠告しても耳を貸しませんし、同じ失敗を何度となく繰り返します。要するに、ほんとに、アホなんです、あの人。でも」
言葉の端から平坦な苛立ちをにじませていた声が途切れて、一瞬の間が空いた。雨音も少し弱まったかのような、そのほんのひとときの空白、エニシダの顔が緩んだのをクラジは見て取った。
「――心配は、するだけ無駄なんですよ」
*
「もっぺん頼む。精霊が…何?」
(((平たくいうと某に”精霊”の力を預けて欲しい。精霊と同期して精神質量を借り受けるために、某に繋がる仮想神経系を構築する。あるじには結節点となって頂く)))
「ごめん。言い直してもらってなんだけど、何一つ判らんかったぜ」
(((某の言い方にも難があるのだろうが、ううむ。さてはあるじ殿…)))
「その先は言われ慣れてる」
アンダーテイカーさんは溜息をつく代わりに、「落胆」を思念でこちらに送ってよこした。なるほど念話というのは、顔を突き合わせての会話ではないが、言葉以上に雄弁に語る伝達方法でもあるのだ。ウソつきたい時ってどうするんだろう、この思念会話。
(((致し方ない。簡易版の機能を開放するとしよう。”魔法展開補助”を)))
「おお!何だそれ?」
(((”魔法”の行使にイメージが必要なのは存じておろう?某がそのイメージを助けることで、更なる魔法の力を引き出せる。某が精霊と同期状態ならば…)))
「よくわからんが、早速やろう」
(((どれ……何だこの偏向は。あるじ殿は”魔法の素養”持ちか)))
「ああ、うん、そんなようなもんだ」
(((力の根幹は「否定」か。ううむ、では選択肢はこんなところだな)))
ギジッツの脳裏に像が浮かび上がってきた。
頭の中にもう一人の自分がいた。ギジッツの意識はそれを第三者の、俯瞰する視点から見下ろしている。周囲は暗黒。「自分」の眼前、空中に勇士の墓守りがぷかりと浮かんでいた。刀身が光を放つと長方形が三つ、剣と自分の間に現れた。
長方形のそれぞれの平面に映っているのが『否定』を行使した結果の幻像だとわかった。自分ひとりでは考えつきもしない『魔法』の使い方が提案された。
平面のひとつ、辰砂鮫を凍り付かせているイメージを指さしながら「自分」が問いかける。
「これ、どうなってんの?」
氷結能力は持っていない。そういう系統の魔法はあるが、本当に『拒絶』の応用でこんな芸当ができるものなのだろうか。
(((それなりに精神力を使うが、分子の運動を否定することで温度を奪う。湿った砂はたちどころに凍りつき魔獣の動きを止めるだろう)))
「何だかわからんがそれでいくか」
予想していたがやはり聞いても解らなかった。
アンダーテイカーさんが若干、無い肩を落とした感じが伝わる。
(((準備は良いな。往くぞ、魔法展開補助!)))
「っしゃあ!」
現実と重なって視えていた頭の中の光景が霧消した。
なんとなく左手を前に出し、力を行使する。範囲指定、辰砂鮫周辺。
ギジッツが決めたのはそれ位だった。頭のどこかで、何か――おそらくアンダーテイカーさんの「機能」――が身じろぎしながら、粛々と計算を代行している。自分のものではないイメージで”魔法”を使うのは初めての事だった。そして先ほどの幻像がほとんどそのまま、現実となった。
冷気が空間を包んだ。雨を浴びる背びれが、砂が、パキパキと音を立てながら凍っていく。やがて雨はみぞれの混じる雹となった。バギキキキ、と氷の砕ける音が響く。
辰砂鮫はしだいに速度を落としていき、やがて完全に止まった。
魔法の発動に合わせてギジッツも走る速度を緩めている。魔獣が進行を停止すると同時に、足を止めようとして、凍った地面で滑って盛大にすっ転んだ。
辰砂鮫はいまや馬車を追っていない。バキ、バキと氷を割りながら方向転換し、背びれの三角形の斜辺が背後、鮫を追ってきたギジッツの方を向いた。
「食事の邪魔して悪かったな」
立ち上がったギジッツが太刀を構える。降り注ぐのは雨ではなく、いまや氷の粒だ。
(((来るぞ)))
「わかってる」
周囲を凍らせたことでサメを止められたのは良かったが、足場はさらに悪くなった。駆け出そうとすればまた転倒しそうだった。ギジッツは氷に突き立てるようにして、足を大地に縫い止める。
凍った砂を吹き飛ばして辰砂鮫が顔を出した。ギジッツを砂ごと飲み込まんと、鋭い牙が二重に並んだ顎が迫る。
身体がほとんど鮫の口の中に入ったところで――下から上へ斜めに剣を振り抜いた。
太刀はするりと抵抗なく肉に食い込み、骨をも断ち、辰砂鮫を輪切りにした。
一拍遅れて血が溢れ出す。ギジッツは慌てて鮫の口からまろび出た。
しかし魔獣の血は空気に露出する傍から凍りついていき、返り血を浴びることはなかった。
ギジッツは刀身を見た。刃は付着した血脂を啜り、透明な輝きを取り戻していた。
魔人の腕力があるとはいえ、剣の素人が拍子抜けするほどあっけなく、魔獣を切って捨てた。恐ろしいまでの斬れ味。さすがに歴代勇者と共にあっただけはある。人間の造った武器でも、このレベルになると、恐らく上級魔人の肉体すらたやすく切り裂けるだろう。
「味方でよかった…」ぼそりと呟いた。
(((なんのことだ?)))
ギジッツは馬車に追いつくために凍った砂の中を歩き出した。かなり遠く離れているが、辰砂鮫の追跡が止まった地点から動いていないようだ。
みぞれは雨に戻っている。吐く息はまだ白くなるが、この局地的な異常気象も、じきに元に戻るだろう。




