砂漠行
出立の時間が迫る。
どんよりとした空模様。まだ日の高い時刻のはずだが、薄暗かった。
「ひと雨きそうか?」誰に言うでもなくギジッツが独りごちると、ワギがすんすんと鼻を鳴らした。
「いや……、雨のにおいは薄い。この辺りはまだだ。行く手はどうか知らんが」
これから向かう先、東には黒雲がわだかまっていた。
目指すは人の寄り付かない翅族の勢力圏。
ボルドー大陸東部には不毛の砂漠が広がる。砂に覆われ、無数の岩や石が転がり、一年を通して降雨量のきわめて少ない荒涼たる大地は、農耕に適さない。また、数は少ないながらも辰砂鮫のような凶悪な魔獣の棲息する危険地帯でもある。
ごくわずかな変人を除いて、そんな土地に魅力を感じる者はいなかった。そのため、現時点でこの砂漠は人間の国家のいずれにも属していない。
ひたすら東進し、砂漠を突っ切った先には大断崖と呼ばれる、切り立った長く深い谷がある。
そのさらに先、原生林の生い茂るそびえ立つ高地が、『翅族の勢力圏』だ。
便宜的にそう呼ばれる。そのような国はない。
すなわち翅族は国家として独立し、領土権を主張・保有しているわけではなかった。ただ大断崖の先を彼らの縄張りとする、竜虎連合が成立する遥か以前の古い取り決めがあるだけだ。
黒雲ははるか先まで続いている。砂漠一帯にもかかっているだろうか。
「砂漠に雨とはね」
ギジッツは覚えたての言葉を発した。あり得ない、もしくは大変に珍しい事象をエスノ語でそのように言い習わすらしい。これから、人が足を踏み入れることのない、翅族のテリトリーへと侵入するのだ。状況に即していると言えなくもないシチュエーションだった。
「今はちょうど雨季に入るようなので、雨もそこまで珍しくないそうです」
「あ、そう」
半端に知識をひけらかすと、エニシダはその上を行く知識を開陳した。
ニ・ビシニナ郊外。
風が巻き、その中心で密度を上げる綿雲が次第に見慣れた形を作る。エニシダが魔法の馬車を生み出した。
途中から荒地、道なき道をいく事になるだろう。整地された街道を進めなくなれば移動速度も落ちるし、街道沿いに点在した宿場のような、補給できる中継地点も無くなる。今回は余分に水や食料を用意する必要がある。馬車に物資を積み込んでいく。旅らしくなってきた。
ひょこひょこ往復しながら物資を運ぶクラジが口を開いた。
「そうそう、雨季といえば、辰砂鮫ですよ」
「それは旨いのか?」
荷台に物資を下ろしながら、ワギがすかさず質問した。
「さ、さあ…」
「食えんのか……」
「なんで雨季といえば辰砂鮫なんだ?」
縞瑪瑙鱓に味をしめたらしいワギを無視して話を続ける。
「ふだん砂地に潜んでる辰砂鮫のオスとメスが、交尾のために出てくるって話です」
「交尾」
ギジッツがなんとなくその単語に反応すると従者は呆れた声を出した。
「思春期の少年ですか。……水場で産卵するんですね」
魔獣の中には雌雄の区別のあるものがいて、動物と同じような繁殖形態をとる。
そうした生物寄りの魔獣は、喰う量も多い。逆に魔族に近付くほど喰う量は減っていく。
「学者の見立てではそうらしいですね。気が立ってて特に危ないらしいとも聞きます。まあ、だだっ広い砂漠地帯で出くわす確率はそう高くないでしょうし、通り抜けるだけなら大丈夫でしょう」
ギジッツはクラジの話を聞いて、そんなものか、とは思えなかった。
*
「まあね。事前に聞いてた分、心の準備は出来てたんだけど」
降りしきる雨の中、四人を乗せた魔法の馬車が駆ける。足場が悪くあまり速度が出ていない。そのやや後方を、ザザザザ、という音とともに、人の背丈ほどもある三角形が砂地から突き出て、砂と雨を切り裂きながら追いすがってくる。
「なんか…オレのせいですかね」
クラジが耳をしょげさせた。
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」
かれこれ一時間、辰砂鮫と鬼ごっこしていた。
向こうも遊びでやっているのではない。捕まれば美味しく頂かれてしまう。
「食えるなら、相手になるが…」
「ワギはああいうのと相性悪いでしょ」
「……返す言葉もない」
ワギは対人戦ならばお手の物だ。
だが、攻撃範囲がそのまま手足の届く範囲に限られる、体術の使い手。おまけに、砂に潜り、岩に鍛えられる辰砂鮫のサメ肌には、鉄の武器程度では歯が立たないときている。「魔人化」時の身体能力と爪ならばいざ知らず、今のワギにはこういった大型魔獣に対して有効な攻め手がない。
クラジの暗譜している魔述は現状、『沸騰』のみ。
初等魔述『沸騰』は通常は攻撃手段としては使えないという事なのだが、クラジの笛の及ぼす力ならば生物の体内の水分を直に沸騰させることができ、十分な攻撃力を持つ。ただし動き回る相手に対しては使えなかった。高速で駆ける馬車の揺れの中ではほかの楽譜も読めないため、お手上げ状態だ。
逃げ回れば飽きるかと思い追いかけっこを始めて、すでに一時間。このまま鮫が諦めるまで続けるというのは、精神的に疲れる。となれば倒すしかない。
現状を打破し得る、残る手札は、囮として食料をばら撒くか、エニシダの創造魔法か、ギジッツが戦うか。
「ちょうどいい。試し斬りとシャレ込むか」
ギジッツは勇士の墓守りを手に立ち上がり馬車の後方の背びれを睨む。砂の中の辰砂鮫の体は、どれくらいの大きさか見当もつかない。
一息に太刀を抜き放つ。叩きつける雨音の中、シャン、と涼やかな音色が鳴った。
「十分に気をつけろ」
「すいません。お願いします!」
「おうえんしてます」
最後の一名だけ心がこもっていないように感じた。
「行ってくる!あんま遠くに行くなよ」
扉を開け、そのまま、ギジッツは馬車を飛び出した。
*
右手に太刀を持ち、ギジッツは空中に躍り出た。
さあ餌だぞ。食らいついてこい。
鼻先に人影があれば、顔を出すだろう。
ギジッツの着地際、背びれが横を通り過ぎていく。馬車はそれなりの速度で駆けており、それを追う辰砂鮫の速度も緩まない。
辰砂鮫はギジッツを無視して馬車を追った。
魔族は餌と看做されなかったのだろうか。
「うおおおい!!」
ギジッツは踵を返して走り出した。背びれを追うが、なかなか距離が縮まらない。
頭にアンダーテイカーさんの思念が響いてくる。
(((……あるじよ。自分ひとりだけ助かろうと思って、仲間を売ったのか)))
「ンなわけねえだろ!どういう事だよこれ!」
(((興奮した辰砂鮫は動くものを標的と定める。あるじ殿のとった行動は、あの状況下、辰砂鮫から逃れる唯一の方法という事よ)))
「あー、あーなるほどね。早く言ってくれよ…って、そうか。俺が握ってないと話せないんだった」
(((その通りだな。ふむ、問答をしている場合ではないと見える。魔獣を屠るのならば、某も力を貸そう)))
次第に背びれが大きくなってきた。顔に叩きつける雨粒が鬱陶しい。
「力を貸すって…、斬る以外に何ができんの?」
(((戦いにおける助言であるとか)))
アンダーテイカーさんは得意げにきらりと光った。
「要らん!」
辰砂鮫まであと少しのところまで来ている。だが、砂に足を取られそうになりながら、走って戦うのは少々厳しい。魔法で敵の動きを止めようにもギジッツの使えるのは『拒絶』の魔法だけだ。働きを『否定』する対象を選ぶことで、様々な効果が期待できるが、どうすれば辰砂鮫が止まってくれるか、考えても浮かばなかった。
(((だーかーら。某が力を貸してやる!といっておろうに!)))
「何とかできるのか」
あまり期待せず、一応訊ね返してみる。
(((念のため申し渡しておくが、あるじが期待していないのが、言葉にせずとも思念で伝わっておるからな…… 某も、人並みに傷ついたりとか、するのだぞ…… まあいい)))
アンダーテイカーさんの思念が、きりりと硬質な響きを帯びた。
(((本当ならば、質問を経て、某が認めた者にだけ見せるのだが……ただの意思持つ剣ではない、某に備わる"力"を今こそ、解放しよう)))




