揺れる湖/港町へ
『…クラジ様は、わたくしの事を……どう思っていらっしゃるのですか…?』
頭の中で数日前の質問が反響している。彼女にしては歯切れの悪い、消え入りそうな声だったのがよけいに印象に残る。
空中移動要塞が街に迫ったあの日。ミティアの捕縛命令が彼女の兄ガルダノによって下された。クラジは、それに従おうとするミティアを引き留めた。
たったそれだけの出来事だ。
だが、あのやり取りを通じて、クラジの中の何かが決定的に変わった。あるいは浮き彫りになったように、今になって思える。
ミティアの問いに対して、クラジは本心であるはずの言葉を、慎重に語った。細かい言い回しはもう覚えていない。
クラジはミティアの眼差しが好きだ。澄んだ青の瞳は揺るぎない意思を湛えている。静かな、気持ちのいい凪いだ湖畔を思わせる綺麗な目だ。
そしてミティアに見つめられると、その見返す瞳に、水面に映りこむような自分の姿があるのを否応なく意識される。あの透明の眼差しに、その場しのぎのウソや、聞こえが良いだけの尤もらしい言葉であるとかの、不誠実で不純なものを並べたてて汚すのは、なんというか、自分に対しても、ミティアに対しても、ひどく侮辱的な裏切りであるようにクラジには思われるのだ。
慎重に、慎重に。言葉を選んだ覚えがある。裏切らないように。
出逢った時から、クラジにとって、彼女は好ましい存在だった。
ただしそれはあくまで……妹に抱く類の好意だ。年が離れているせいだろうか、はたまた種族の違いか。異性として意識したことはなかった。
馬鹿正直に、概ねそのようなことを言ったと思う。ミティアは黙ってクラジの返事を聞いていた。その目はおずおずとこちらを見るものではなかった。
まっすぐで自然な、しっかりと見開かれた眼差し。
やがて湖面にさざ波が立った。
潤んだ瞳に映る自分の像もまた、滲んでぼやけた。
溢れた感情はしかし、決壊して流れ去りはしなかった。
彼女は微笑むと、お辞儀をした。
そして、顔を上げるとひと言だけ呟いた。
先程の質問よりいくらかしっかりとした声音で、ただ「ありがとうございます」と。
―――それが数日前の事だ。
ミティアはわざわざ公務の合間を縫ってクラジに会いに来た。街に出ようと誘われ、了承した。散策しながらたわいもない話をした。屋台で菓子を買って、談笑しながら、並んで長椅子に腰掛けて食べた。代金は少しのすったもんだの末、折半した。ゆっくり歩いて、十字路に差し掛かる。どちらに向かうか、意見がきれいに左右に割れ、また笑った。間をとって直進する。少し歩いて、並木道の木陰に入るころ、会話が途切れ、それから、質問が発された。
帰り道もたわいもない話をした。ただ、行きの時ほどには会話は弾まなかった。
それからミティアとあまり顔を合わせていない。意図して接触を避けていたのではなく、単にミティアは多忙な身だった。
いや、公務は建前で、避けられているのかもしれないが。
クラジは質問を思い返していた。
自分のあの返事は果たして本心だったのか。
嘘を言ったわけではもちろんない。
だが恐らく、思いの丈すべてを伝えられていない。
無責任に、伝えていいのかどうか、わからなかったからだ。
ミティアには立場がある。
そう、所詮は違う世界の住人。種族、身分、隔たりはあまりに大きい。
自分もまた、勇者を先導する役として同行する立場だ。
義務以上の信念からそうしたいと思っているし、そのことを誇りに思う。
一方で、クラジはミティアを守りたいとも思ったのだ。傍らで、目を離さず。
淡い感情に根差しているが、紛れもないクラジの本心だった。
そんなこと―――、言えるわけなかった。
クラジは頭を切り替えようとした。
街で購入した『魔述』に関する指南書を開く。初心者向けの呪符もいくらか買ってある。
急いで使い方を覚えなくてはならない。モノになるまでは相当かかるだろう。もたもたしている暇はない。
クラジは「魔述士」としてギジッツ達に協力する道を選んだ。
非力な身で、耳の良さしか取り柄のない自分。村への仕送りのため、金のため。長所を活かす道として斥候になった。適材適所。ギルドに身を置き、身の丈に合った依頼を請け、求められた能力を発揮する。これまではそれでよかった。
しかし、”勇者”に同行して貢献するとなると、それだけでは不十分だった。
ギジッツはクラジに戦力を求めているわけではないし、当然、魔述を覚えろと強要されてもいない。クラジが自分で、勝手にやろうと決めただけだ。
高価な指南書のページをめくりながら、しかし目は文字の上を滑っていく。
内容が頭に入ってこない。なまなかな事では魔述を修得など、とてもできない。
集中しなくては。
部屋には今、クラジひとりだけだ。邪魔するものなど何もないというのに―――
控えめに、部屋の扉を叩く音がした。
クラジは息を吐き出した。
「どうぞ」
*
エニシダと交わした、買い物にいく約束は守られた。クラジが欲しているもの――魔述の道具類――について話を聞いたが、それらは結局買わなかった。
かわりに、意見を交換し合いながら、服を見て回った。あまり過ごしたことのない貴重な時間だった。
いい買い物ができたように思う。
いわゆる、勝負服…?男性にアタックをかける時の、とっておきの一張羅、というわけではないが、ミティアは今、その時に選んだ服を着ていた。
意を決して、クラジの居る部屋の戸を叩く。
少しして返事があった。
扉越しに声をかけた。
「クラジ様、わたくしです。ミティアです。…少々、お時間を頂いても宜しいですか?」
また少しの間が空いた。扉の向こうの彼は、どんな顔と、耳をしているのだろう。
「ええ、もちろん」
クラジの方から迎え入れてくれた。
目の下の隈が相変わらず濃い。
机の上には閉じられた魔述指南書。たぶん、いや。間違いなく邪魔してしまったのだろう。
彼は優しい。ミティアの我侭を、たいてい聞いてくれる。
クラジの耳は、ぴんと立っていた。緊張。
ミティアがここを訪れたのは、あることを告げるためだ。
もう一つ、あるものを贈るためでもある。用意していた言葉を心の中で、また繰り返す。
ここまで来てしまった。あとはもう、口にするだけ――――
「いま、魔述の勉強してたんですけど、丁度行き詰っちゃって」
ミティアさんが会いに来てくれるなんて。クラジが朗らかに言った。
ミティアの、そして自身の緊張をほぐそうとするかのように、ミティアに笑いかけてくれる。
表情以上に、耳が少し緩んだのが微笑ましい。
「――クラジ様。きょうはまず、あるものをお贈りしたくて、参りました」
ミティアはリボンを巻いた笛を取り出す。
それは、『楽士』に類する魔述士の使う魔述道具。
「エニシダ様から、クラジ様が魔述士を志していると伺いました。わたくしはそのことを、心から応援しています。どうか、受け取ってもらえませんか?―――これは現状、世界にただ一つだけの、魔族の血を用いた魔述笛です」
目を丸くするクラジに説明を続けた。ピレネーデンの協力を得て完成したこの笛を使えば、簡単な「魔述」であっても高い効果を得るだろうと。「魔述」初心者でも強力な魔述を扱える、まさに魔法の笛だ。笛は無論、使い手の技量に応じて、高度な魔述にも対応する。
ミティアは笛とともに、楽譜もいくつか用意していた。クラジにそれを手渡す。
「それって、あの、ええと……職権濫用では!?」
まったくその通りだった。魔人の血の研究は、凍結されている。表向きは。
「ふふ。ですが、クラジ様に必要なものでしょう?」
ミティアは悪戯っぽく笑った。クラジはもう笛と楽譜を受け取っていた。
「どうかお役立てください。わたくしには、こんな事でしかお力になれません。そして、もう一つ。お伝えしたいことがあります。ちゃんと言葉で伝えていなかったことを」
ミティアはとうに決心を固めている。こうと決めたら、一直線だ。
「わたくしは、クラジ様をお慕いしております」
クラジは目を逸らさずにまっすぐミティアの眼を見ていた。ミティアも視線を逸らせない。耳の表情が、わからない。
「……先日は、卑怯な問い掛けをしてしまって、すみませんでした。あの、わたくし―――」
「オレからも一つ、いいですか?」
クラジが言葉を遮った。珍しいことだ。ミティアは思わず息を呑んだ。
「ギジッツさんについて行って、全部終わったら。オレ、必ずミティアさんに会いに来ますよ。そこで、あのう、勝手なんですけど」
クラジがはにかんだ。
「もし、もしも。その時、ミティアさんがオレと会ってくれて、それでもし、許してくれたら。オレを、ミティアさんの屋敷の、執事見習いとして雇ってほしいんです」
ミティアは目を瞬かせた。まったく予想外の言葉だ。
「オレ、あなたの事を放っておけないみたいなんです。傍で守りたい――いや、オレにできることなんて、たかが知れてるんですけど。守るだなんておこがましいですね。それでも。あなたの事を、支えたいなって―――」
ミティアは守られている。執事エドモンドに。いまはより多くの身辺警護に。
かつて、守られていた。父ダーレンドに。そして、兄ガルダノに。
身の安全、それ以上に、世間知らずの少女には、庇護が与えられていた。
ミティアはいつも守られていた。
そしてこれからは、守られるだけの少女ではいられない。
彼女が背負って立つものは大きい。
獅子族全体の未来。途方もないものが、その双肩にかかっている。
支える。彼はそういってくれた。
よろこびが、ほどけて、溢れ出すのを感じる。
「――執事は、却下です!」
「ああ。やっぱり…すいません、なんかオレ…」
今度はミティアが言葉を遮る番だった。
こほんと大げさに咳払いして、強引に言葉を紡いだ。
「わたくしも、いずれは嫁ぎます。女主人として、執事を召し抱えていられる期間がどれくらいか、想像もつきません―――なので、旦那様では、いかがですか?」
「はい?」
「冗談ではありませんよ。本気です!」
ミティアはすでに決心した。こうと決めたら、ただ突っ走る。
「新しい政治体制を整えて、権力は、然るべきところへ。そうすれば、わたくしはもう酋長補佐でも、臨時代行でもなくなります!兄がどういうかは知りません。わたくしが嫁ぐ先はわたくしが決めます!」
「あの、ちょっと」
「だ、だめでしょうか!?」
クラジはあからさまに困惑していた。だが、眉を八の字にしながらも、笑い顔ではあった。耳の仕草は、どんな感情をあらわしているのだろう。初めて見る動きだが、楽しげなリズムだ。
クラジがほう、と息を吐き出した。
「じゃあ、こうしましょう。オレもこれから先、女の子にうつつを抜かしてられません。だから、…ええと。オレが戻るまで、もし、ミティアさんの気持ちが変わってなければ、その時に、あらため…」
「―――はい!!」
言葉は途切れた。ミティアが、実に数日ぶりに、クラジを抱きしめたからだった。
*
“勇者”の旅立ちは、大勢の市民に見送られることはなかった。こっそり出立したためだ。
ミティアと、執事エドモンド、それに数人の供回りとだけ顔を合わせての門出。しっぽりと名残惜しい別れになるかと思っていたが、別にそんなこともなかった。クラジとミティアの仲は、いつの間にか元通り…それ以上に、進展していたようだった。
「なあ、何があったの?」
面と向かってクラジに訊ねてみた。
「ギジッツ……様は、あり得ないほど野暮ですね」
「そ、そうか。すまん、クラジ」
「いえ… でも、あんまり話すようなことじゃないんで…」
馬車は道行きの初っ端から、若干気まずい雰囲気に包まれた。その後、ワギがより空気を読まない発言をしたが、それでかえって吹っ切れた。
潮風の吹く港町ニ・ビシニナ。
街を発ってから六日。
二日に一度、近くの宿場町に泊まった。途中、悪天候に見舞われ、四日から五日ほどで着くと思われたのが、一日余計に消費していた。
とはいえトラブルらしいトラブルはなかった。今度の道のりは、ワニニールからフォファガ・ロアンまでに、数倍する距離だ。最高速度で飛ばしたわけではないとはいえ、エニシダの魔法による馬車を以てして、この日数なのだ。通常の交通機関ならば三倍から五倍の時間がかかっただろう。
ギジッツは、ミティアの紹介状を手に、大陸の玄関とも称される街の門を叩いた。
“勇者”の名声を高め、地盤作りに勤しむのならば、通り過ぎていったいくつかの街に逗留して、そこで「流れの魔獣退治」でもする必要があったかもしれない。
しかし―――
「おおっ、あなたが、かの”勇者”どのですか!お噂はかねがね聞き及んでおります。さ、こちらへ!」
蛇鱗族は警戒心が強いと聞いていたが、勇者のネームバリューは想像以上に効果があるようだ。ギジッツもしだいに、勇者扱いに慣れ始めていた。
「ども」
だが、それよりも。
ひと目でわかった。
いや、視界には映っていないが、もし目に見えていればよりはっきりしただろう。
ニ・ビシニナには、かつてのフォファガ・ロアンよりも遥かに強く、瘴気が渦を巻いている。
ボーイミーツガール成分はおおかた消化しました。たぶん。
次回から二章に入ります!




