822≠ワギ
………(よどんだ)…(鉄の臭い)…
……(まっくらやみだ。ここは)……
しかしこの闇の中は、不思議と安心する。
たとえば、母親の胎内、羊水の中。
自分の心音となにかべつの鼓動が時おり重なる。
彼は母親をしらないが、本能的にそのように感じた。
深く暖かい闇に包まれている。
…………(どこだろう?)……
……(覚えていない)……
「…んだ!…れは、下拵えで…ていな…じゃ…いか…!…」
……(地面の向きも…わからない)……
(?)
…(耳ざわりな…声、罵声。…男…)…
「も…いい。822……廃棄…た…え!」
浮遊する意識はそこで途切れた。
鉄の臭いは…血だ。そう思ったのが最後。
*
ワギは思っていた。夢をみているのだ。
自分の意思では体が動かず、そのくせ変に生々しい。
わけもなくいらいらする。
これが夢でなくて何だというのだろう。
誰も彼もが激しい敵意を向けてくる。
おれが何をしたっていうんだ。上等だ。
片っ端からぶっ殺してやった。
血霧、爪が肉を裂く手応え。苛立ちはいっこうに治まらない。
背骨が痛む。じくじくと彼を苛むなにかが居た。
本能の命じるままあてもなくうろつく。
足を進めるのは、帰巣本能?
食欲は湧かない。ひたすら渇きを覚えるが、なぜか腹は空かない。
夢だからな、そんなこともある。
ああ、だとしても…あまりにもひどい夢だ。
ふいに、霞のかかったようだった意識がクリアになった。
正常な思考を圧迫していた何かが取り払われた。
背骨の痛みとともに。
先程までイライラしていたのが嘘のようだった。
次第に自分の体の状態、置かれている状況がわかってくる。
ワギは、平べったい板の上に、仰向けになっていた。
全身がだるい。板はがたがたと揺れている。
荷車のようなものに乗せられているのだと思った。
日差しと、草の匂い、そよぐ風を感じる。
泥の臭いはしなかった。ワギは目を開けた。
「ん。お目覚めだな」
野外、眩しい青空が目に飛び込んでくる。
知らない臭いをしたやつに声をかけられた。
「…ここは…」
喉が痛む。ひどいがらがら声が出た。
「今、フォファガ・ロアンに向かってる。お前、名前は?」
声が訊いてきた。質問したのは荷車を引く男のようだ。
「…狼尾人の、ワギ」
名前。他者と自分を識別するタグ。
ワギという名前にはほかになんの意味もない。
「ほーん。ワギね。自分が誰かはわかる、っと」
荷車が止まった。
「お前をどうするか正直迷ってる。どうしたい?」
よければ事情を聞かせてくれよ。男はそういった。
ギジッツと名乗った男の左目が仄かに光った。
*
ワギは右足首の輪っか以外は何も身につけていなかった。
輪には数字が刻まれているだけ。822。
他に素性のわかるものも、荷物も、一切持っていない。
ありていに言えばすっぽんぽんだったので、下に穿くものをエニシダが出してやった。
寝ている間に穿かせたのはギジッツだ。
どこから来たかもよく覚えていないとワギはいった。
フォファガ・ロアンで傭兵になったあと、訓練のためといって同僚と馬車に詰め込まれ、どこかに連れていかれた。そこはどうやら森のようだったが確証はない。
あとは長い夢を見ていた、そう締めくくった。
ワギがありのままを語っていると、なんとなく思った。嘘にしては大雑把すぎたからだ。
ギジッツも知っていることを包み隠さず伝えた。
きょう街で魔族が出たと騒ぎになったこと、それを報せた冒険者のパーティは魔族に半壊させられたこと。
ギジッツが出向いてその魔族を無力化したこと。
そして、魔族が――ワギだったこと。
ワギは口を挟まず、じっと黙って聞いていた。
「ただ。なんかヘンなんだよな」
ギジッツの知る限り人が魔族になるきっかけは二つある。
一つは魔族の血を飲むこと。
もう一つは、―――自らの意志によって。そのような魔法に目覚めることだ。
後者はごく稀なケースで、そうそう起こることではない。
一度魔族となったものは人に戻れない。
そして、ワギはどちらにも当てはまらないように思われた。
「どっちかって言うと、暴れてたお前は魔獣に近かった」
「魔獣…?」
ワギが初めて反応した。
「そ。さっきも言ったけど、お前、背中の変なのをぶっ潰したら戻ったんだが」
ギジッツは、真っ二つになり自然に剥がれたそれを持ち上げた。
「これな。こんなん見たことないが、瘴気の出っぷりが魔獣っぽい」
ワギはピンと来ていないようだったので、理解を助けるつもりで補足した。
「魔人はふつう瘴気を出さないんだよ。俺にはコイツから瘴気がプンプンしてるのが分かった」
無表情だったワギが、怪訝そうな顔をみせた。
そこで、失言に気付いた。
(いけね。人間は瘴気を感じ取れないんだった、そういや)
まだ挽回できる。ウヤムヤにしてしまえ。
「…あんた一体……魔人…?」ワギが呟いた。
エニシダが顔を押さえて俯いた。
ギジッツは、自分がアホだったと思い出した。
*
まだ夢の中にいるのかと思ったが、どうやら違うらしい。
自分は――魔獣のようなものになり、わけもわからぬまま殺人を犯した。
爪が覚えている感触と、自分の感情かわからない濁った喜悦―――
いくらでも殺したろう。いつか殺されるまで。
だが、そうはならなかった。
ワギは救われた、「勇者」に。それも魔族の。
「すいません。面倒ごとになるの嫌なんで、黙ってて下さい」
金目の勇者ギジッツに頭を下げられ懇願された。
自分と相手のどちらも狂っていないのなら、本物の魔人であるらしい。
ワギは毒気が抜かれる思いだった。
「…おれの口を封じれば、知っている奴もいなくなるんじゃないか?」
なんの意図もなく思ったままを口にした。
ギジッツは少しの間固まったあと二回ほど頷いた。
そういえばそうか、と一言呟いたが、それを実行には移さなかった。
「死にたいのか?」
かわりに、脅し…のニュアンスを感じ取れない。
純粋な疑問らしいものをぶつけられた。
わざわざワギの身を救ったのだ、目の前の魔族はさぞ親切なのだろう。
はいと答えればたやすく命を奪ってくれそうだ。
「いや」
一度たりとも死を望んだことなどない。
「おれは一人で、だれにも頼らず、野垂れ死ぬまで生きるつもりだった」
泥の中以外の場所で死ぬ。それだけが望み。
ワギは一つ、溜息をついた。
「こんなはずじゃ…誰かの手を借りて生き延びるつもりはなかった」
ボロ雑巾とかわらない、助ける価値などない命だ。
だが、自分だけが自由にできることに価値を見出せると信じた。
―――わけもわからぬまま死を選ぶのも癪だ。
「あんたたちは、おれをどうする気だったんだ?」
街に、フォフォガ・ロアンに向かっているといった。彼の故郷に。
「そう、そこなんだよな。俺達もそれで悩んでた」
黒衣の勇者ギジッツと、その従者、エニシダという女の二人連れ。
彼らは魔族と人間らしい。
どちらもこの国の者ではなく、この国の法に明るくない。
ワギが罪を犯したというなら、裁きを受ける必要がきっと、あるのだろう。
しかし、半ば魔人と化して人を襲った者などに適当な罪業があるだろうか。
ワギは恐らく街に着けば、殺されておしまいだ。
「で、エニシダとちょっと相談したんだけど」
ギジッツが言う。
女が一歩進み出て…魔法を…使ったようだった。
それはゆっくりと形を成した。
どこかからか煙が集まり、骨、筋線維、血管、皮フ、毛……
しだいに人のようなものになっていく。
三分ほどかかって、ワギを醜く歪めたような魔人、その横たわる屍体のようなものが「生まれた」。
やはり、ワギは夢を見ているのだろうか。
「あんたは魔人に襲われてた被害者って事にしようかと」
荷車にワギから剥がれ落ちた血に塗れた爪と、抜け落ちた剛毛を乗せてあった。
ギジッツは最後に、それらをダミーの死骸の周辺にばら撒いた。
ワギはあんぐりと口を開けて事の推移を見守っていた。
「な」
「まあ、バッチリだろ。生き残った冒険者のおっさんが死骸を検めるだろうけど」
「再現率は低くないと自負しています」
エニシダが腕を組んで胸を張った。
「というわけで、街に着いたら口裏を合わせてくれよ」
あと魔族だって黙っててくれればいいから。勇者が言った。
ワギは、自分本位な男だ。
「た、頼みがある。聞いてくれ」
喉の痛みも気にならない。堰を切ったように、言葉が奔流となって溢れ出した。
「おれは知りたい。なぜ…何がおれを変えたのか知りたい。何がおれの身にあったのか。知らないままでいられない。知ったところで償いにはならないだろう、おれが殺めた命への。それでも知りたい。なあ、他人に頼み事なんて初めてするんだ。どうか頼む。引き受けてくれないか。おれを、真相へ。あんたの言うことはなんでも聞く。おれにすべてを知る手がかりをくれ。あんたたちについて行かせてくれ」
ワギが話し始めると、ギジッツはまず少し驚き、次いで表情を複雑に歪め、最後には諦めたような顔になった。ワギは返事がどうであれ、ついていく気だった。
*
ひどい嗄れ声。だが切実な響きだった。
「なんか前もこんなことあったな」
アケイロンに押し切られて同行を許した夜を、ギジッツは思い出していた。
「”半魔人化”したのが彼だけとは限りません」
エニシダが冷静な声で告げた。
「真相の究明は、彼のためのみならず、多くの人を助けることになるかもしれませんよ」
「別に人助けしたいわけじゃないんだよ、俺は」
「またまた、ご冗談を」
本心だった。人助けなんてキリがないし、できることもたかが知れている。
ギジッツはきっと”勇者”失格なのだろう。
そうして、ワギを連れ帰ることがなし崩しに決まった。




