ドキッ!湯気だらけの温泉回 ~ ココルピに這い寄る瘴気と影!
「お、温泉!?」
クラジの集落、ココルピ村の話を聞いていたエニシダが目の色を変えた。
「はい、山のふもとにあります。なかなか広いですよ」
「温泉…!」
「へえ、温泉ねえ」
ギジッツの知っている温泉はボコボコと泡立つ溶岩溜まりだ。人体に有害なほど濃い瘴気が渦巻く、魔族にとっての憩いのスポットではあるが、あんなもの別に珍しくもない。一度だけエニシダを湯治に連れて行ったこともあるが、まあ当然、人間は入れない。たしかずいぶん落ち込まれた。その後暫く口をきいてくれなかったのも覚えている。
「温泉…」エニシダは恍惚としている。
「さっきからそれしか言えてないぞ。大体魔界にもあったじゃん」
「あれは温泉ではありません。本物の温泉をご覧に入れましょう」
「お前のじゃないだろ」
「あはは。よくわかりませんが、ココルピの湯は村自慢の名物です。きっとお気に召していただけますよ」
村の命運のかかった戦いが待っているとは思えない呑気な会話だった。遊びに行くような気軽さだ。クラジですらそうだった。ギジッツの戦いを目の当たりにしていては、流れの魔獣など恐れるに足りないのだろう。
ココルピ村は、ボルドー大陸の北、弧竜峰と呼ばれる山の麓に位置している。主に兎人たちが暮らす。これといった特産品はなく、温泉の噂を聞いた物見客が年に数回訪れるだけの辺鄙なところらしい。
そして弧竜峰こそは、食物連鎖の頂点たる”竜”の棲み処の一つであるという。
「竜を恐れてか、これまで流れの魔獣なんかが寄り付いたことは一回だってなかったんです」
「その竜ってどんなやつかわかるか?」
流れの魔獣が近づいたのは、竜が弱ったためかもしれなかった。
竜は個体数が少なく、その寿命は地上のどの動物よりも長い。中にはギジッツの顔見知りもいる。まずないだろうが、顔見知りの住む山なら様子見がてら挨拶に行ってもいいかもしれない。
「村の大じいはそのまたじいさんから、”曲がり牙”ってへんくつな竜が住んでるって聞かされたそうです」
ギジッツは吹き出した。
「あ、アイツ…か」
「あいつ?」
「こっちの話だ。いや、なんでもない」
「その竜が村に危害を加えるおそれは?」エニシダが問うた。答えはわかりきっている。
「多分ないでしょう。山頂付近から降りてくることも滅多にありませんし。長く生きた知性のある竜だそうで、ご先祖が交渉して村を開く許可をもらったと伝わってます。山の恵みを分けてもらっているくらいです。山の中腹に社があって、収穫期ごとに畑で採れたものを捧げています」
「”曲がり牙”に魔獣追い払ってもらうって手もあったんじゃねーの」
「竜との交流じたいはもう何十年もありません。勇者様に助けていただく手前でなんですが、守ってもらおうなんて虫が良すぎる話ですよ」
舗装されていない道ともいえない道を魔法の馬車が駆ける。外に目をやれば、単調な風景が後ろにすっ飛んでいった。頭上には灰色の曇天が広がっていた。
「あ、むこうに一本杉が見えますね。もうこんなとこまで…。あれを越えて少し行けば、ココルピ村です」
*
馬車が減速し足を止めると、クラジは真っ先に飛び出していった。村はふだん通りのようだ。その顔が安堵にほころんだ。
「みんな!ただいま」
畑仕事をしていた村人が振り向いた。
「クラジか? 帰ったか!」
「クラジが戻ったぞ!」
「お客を連れてきたんだ。流れの魔獣のことはもう心配ない!」
クラジはあっと言う間に村人に囲まれた。寄ってくる村人に事情を説明しているらしい。ギジッツ達三人は遠巻きにそれを眺めた。
「聞いて驚くなよ、この方たちは…『精霊憑き』なんだ!」精霊が憑いているのはギジッツだけだが。
村人の視線がギジッツ達に集中した。次いでざわめきが起こった。
「ほ、ホントけ」「精霊?」「たいへんじゃあ!おもてなしの用意を…」「バカ!まず村おさに」
ギジッツが大げさに咳ばらいをすると、ざわめきのトーンが落ちた。
「えーと、村を魔獣から救いに来た。っていうとすごい奴みたいだが、別に大したことない。まあ、まずは状況を教えてもらえるとありがたい」
「それから温泉に入りたいです」エニシダの頭には、今はそれしかないようだ。
クラジが話を引き継いだ。
「村おさのところへ案内します。誰か、村おさに話を伝えて」
村人の一人が村の中央に走っていく。残った村人たちは興味津々といった様子で三人をかわるがわる見ていた。一番注目を集めていたのはエニシダのようだった。亜人種の美醜の基準はわからないが、やはりエニシダの整った外見は目を引くのだろうか。それとも単に紅一点だから目立ったのかもしれない。
「じゃあ皆さん、こちらへ!」
念のためアケイロンに鼻で警戒しておくよう言い含めておいた。
クラジの後について、村の中心にある家に入った。
*
「お話はわかりました」
緊張した面持ちの村長の語った大筋は、事前にクラジから聞いていた通りだった。山の木々や岩肌に魔獣の爪痕が見つかったこと。村の者数名が、魔獣の大きな影を見たこと。たまたまこの辺りを通りがかったという旅人が流れの魔獣の噂を村に伝えたこと。近隣の村に連絡を取ったところ、概ね似たような回答が得られたこと。
「今はどこかに潜伏しているようで、魔獣はみつかっておりません」
「居場所はわからないんですね」ギジッツは出された漬物をかじりながら思案する。話に少し疑問点があった。
「エニシダ、”暗視くん”で哨戒できないか?」
「難しいですね。暗視くんは有線で操るので、温泉でリラックスしながら周囲にも目を配るというのは」
「うおぉーい」
「おや…ココルピの湯に興味がおありなのですか」
ギジッツ達の余裕が伝わったのか、村長の緊張も幾分か和らいだようだ。
「流れの襲撃があるとして、まだしばらく先でしょう。いかがですか、温泉にご案内しますよ」
「是非!」
ものすごい食いつきだ。ギジッツは従者の知らない側面をみた気がした。エニシダがここまで我侭をいうことはあまりなかった。
「じゃあ、お願いします。アケイロンは引き続き村に近づく臭いを監視」
「御意に」
地上の温泉とはどんなものだろう。エニシダの嬉しそうな横顔を見ていると、ギジッツも少し興味が湧いた。
クラジは家族に会ってくるといって、その場でいったん別れた。
*
「ああ…生き返ります」
湯煙の向こうから蕩けるような声が聞こえた。ギジッツは膝を抱えて岩陰に座っていた。
てっきり一緒に入るものだとばかり思っていたら、すげなく拒否されたためだ。
「そりゃあ、良かったな」思っていたより暗い声が出た。
「…なに拗ねてるんですか?」エニシダの声は弾んでいる。今にも歌いだしそうだった。
「いやだって」
先ほどのやりとりを思い出してまた少し落ち込む。いや落ち込む理由はない。
「そんなに私の裸を見たかったんですか?スケベ大魔公」ぱしゃりと水しぶきの音。
「ちっが!何だそれ!?」
断じて違う。それは断じて違う。いや長い付き合いの割にほとんど見たことなかったしできれば見てみたいような気がしないでもないような。けど違う。成り立ちにもよるが、魔族に性欲はない。人型魔族でも人とは繁殖形態が違うからだ。そのはずだ。
「ギジッツ……様は人間くさいなと常々思ってましたけど、まさか私の事をそんな目で」
「違うんだよ!ただ」
言葉が喉でつかえてその先が続かない。魔界でやっていたように服を着たまま湯につかろうとしたところ、エニシダにものすごい剣幕で怒られ、温泉とは裸で入るものだと告げられた。裸で入る。それを想像した時、なぜか嬉し恥ずかしいような奇妙な気分に囚われた。
そうしていると先に自分が入る旨を告げられ、失意のまま待ちぼうけをくっているというわけだ。
「…魔界の温泉と違って、瘴気が薄いからな!ここは」
地上に出てから純度の高い瘴気を浴びていない。地上に出て戦ったあの魔獣が発していたのも、魔界に棲む生物の基準で言えば中の中程度の濃さだった。
そして、魔獣が近づいているというこの村周辺の瘴気も、薄い。
「ふうん」
ざあっと、湯から上がる音が聞こえた。
「さっぱりしました。ぜひまた来ましょう」
エニシダが姿を見せた。魔法で創造したのだろう大きな厚手の布を、鎖骨から下に巻きつけるように身体を覆っている。主張しすぎない胸のふくらみ。くびれた腰から下半身にかけての優美な曲線がくっきり浮かび上がっていた。口許には自然な笑みがあり、頬は上気して艶っぽい。
「…じろじろ見ないでください」
ぼけっと見惚れていた。その言葉で我に返った。
「うへぇ!すすすまん」
慌てて顔を背けた。俺に性欲はない。なんたって魔族だし。うむ。
「じゃあ、はっ、入ってくる!」
なぜか声が裏返ってしまった。
地上の温泉はぬるかった。人間からすればこれくらいが適温なのだろう。一人で入っても特に何の感動もなかった。エニシダが入った直後の湯だという一点を除いては。
*
「兄ちゃん!おかえり!!」
「おかえりクラジ」
「ただいま、ナナハ、母ちゃん」
クラジはおよそ三か月ぶりに家族と対面した。年の離れた妹は背もそのままだが、変わりなく元気なようだ。母は心なしか痩せたような気がする。
「畑、今年はどう?」
「いい日和が続いてね。期待できそうよ」
「あのね兄ちゃん!聞いてよ!おとなりのバンジがね…」
クラジは家族の暮らしを、村を守るためなら何でもできると思っていた。その気持ちを新たにする。
「ナナハは字を習ってるんだっけ?」
「うん!あたしもいつか町に行くの」
「町は危ないからな、大きくなってからよく考えろ。お土産があるよ」
「おみやげ!?」ナナハの顔が輝く。クラジはギジッツに渡された子供向けの本を取り出した。
「町の子供たちに人気の本だって」
ナナハが表紙とタイトルを眺める。あまりピンと来ていないようだったが、本を受け取って笑顔を見せた。
「ありがと兄ちゃん!」
クラジと、母親にも笑顔が浮かんだ。
*
温泉から戻ったギジッツ達を、挙手するアケイロンが迎えた。
「なんかあったか?」
「はっ。我々の来た方角より、村に向かうかすかな瘴気と、人間、馬の臭いがいたします」
「エニシダ」
ひとつ頷くと、心得た様子で”暗視くん”がエニシダの掌から生まれた。
「かなり距離があります…よくこれを見つけましたね」
動く豆粒が拡大される。冒険者らしき出で立ちの三人が馬に跨っていた。
「実のところ、我らがワニニールを出てから感知していた臭いなのです。確証が持てませんでしたが、彼の者たちもこの村を目指しているようですね」
明後日、早ければ明日には村に着くペースだ。
“流れの魔獣”の噂を聞いてきた冒険者たち? それは考えにくい。命がけの魔獣退治を、慈善事業でやる者はない。依頼は取り下げてきた。
そしてアケイロンの瘴気に対する感能はギジッツのそれよりも上のようだ。
「瘴気を発する人間…ね」
瘴気は、害意や悪意、負の感情が凝ったもの。
ギジッツが引っかかりを覚えていた部分が、はまったような気がした。
主に更新情報をつぶやくだけのツイッターを始めようかと思いましたが、
アカウントを管理する甲斐性がなさそうなので断念しました。
アケイロンの鼻、便利すぎてワンパターンですね。近いうちどうにかしよう。




