満月の下で貴方と
月に一回だけ、貴方と逢える日。
私はずっと、この日を待っている。
今夜は満月。
窓を開けると、森の向こうから白い月がゆっくりと昇り始めていた。
「……遅いな」
誰もいない部屋で呟いてみる。
もちろん、返事はない。
私は窓辺に頬杖をつき、月を見上げた。
彼がやって来るのは、いつも満月の夜だった。
最初に会ったのも満月。
二度目も満月。
三度目も。
そして気がつけば、私は月の満ち欠けを数えながら暮らすようになっていた。
あと十日。
あと五日。
明日。
そして、今夜。
月が満ちれば、彼が来る。
月が欠ければ、彼はいなくなる。
それが、私たちの恋だった。
◇
彼の名は、レイ。
それ以外のことを、私はほとんど知らない。
どこに住んでいるのか。
何をしているのか。
家族はいるのか。
どうして満月の夜にしか会えないのか。
何度尋ねても、彼は答えなかった。
「ねえ」
以前、私が聞いたことがある。
「もしかして、奥さんがいる?」
レイは飲んでいた葡萄酒を危うく吹き出しかけた。
「……なぜ、そうなる」
「だって月に一度しか会えないんだもの」
「妻などいない」
「恋人は?」
「いない」
「本当に?」
「いるとすれば、お前だ」
「そういうことをさらっと言うの、ずるいと思う」
彼は笑った。
笑うと、少しだけ目尻が下がる。
普段の彼はあまり笑わない。
背が高く、黒に近い銀色の髪をしている。
そして何より印象的なのが、金色の瞳だった。
初めて会った時は、その瞳が少し怖かった。
人の目ではないような気がしたから。
それなのに今では、その瞳を見ると安心する。
「では、お前はどうなのだ」
「何が?」
「私がいない間に、他の男に心を移してはいないだろうな」
「一か月も放っておく人が言う?」
「放っているわけではない」
「じゃあ来ればいいでしょう」
そう言った途端。
レイは黙った。
私は、その沈黙が嫌いだった。
彼はいつもそうだ。
満月以外の日の話になると、急に口を閉ざす。
「……すまない」
結局、謝るのはいつも私だった。
彼は何も悪くない。
そう思おうとしていた。
月に一度でも会えるのだから、それでいい。
でも本当は。
もっと会いたい。
晴れた昼にも。
雨の日にも。
月のない夜にも。
特別ではない普通の日に、彼と一緒にいたかった。
私がこんなにも貴方のことを好きだなんて。
貴方はきっと、知らないんだろうな。
◇
ところが、その満月の夜。
レイは来なかった。
月はもう、森の上まで昇っている。
こんなことは初めてだった。
「……レイ?」
窓を開ける。
冷たい風が部屋へ入ってきた。
何も聞こえない。
いつもなら、そろそろ扉を叩く音がする。
私は待った。
一時間。
二時間。
月が空の一番高いところへ来ても、彼は現れなかった。
腹が立った。
「何なのよ……」
一か月待ったのに。
せめて来られないなら、知らせる方法くらい考えてくれたっていい。
でも。
怒りは、すぐに不安へ変わった。
――何かあった?
あの人は約束を破るような人ではない。
それだけは分かる。
私は外套を羽織った。
行く場所など知らない。
それでも、じっと待っていることができなかった。
◇
村の外れには、大きな森がある。
子どもの頃から、決して入ってはいけないと言われてきた森。
そのさらに奥には、人間ではないものが棲んでいる。
昔から、そんな話があった。
竜。
山よりも大きな翼を持ち、炎を吐く怪物。
何百年も生きるとも、人の言葉を理解するとも言われている。
もちろん私は、おとぎ話だと思っていた。
その夜までは。
森へ入って、どれくらい歩いただろう。
突然、地面が揺れた。
「……何?」
木々の向こうから、低いうなり声が聞こえた。
獣とは違う。
もっと大きい。
身体の奥まで震えるような音。
逃げなければ。
本能がそう言っている。
それなのに、私は音のする方へ歩いていた。
木々が途切れた。
満月の光が差し込む。
そして私は、それを見た。
「…………」
息が止まった。
巨大な生き物が横たわっている。
銀色の鱗。
折り畳まれた翼。
鋭い爪。
私など一口で飲み込めそうなほど大きな口。
竜。
本当に、いた。
逃げなければ。
足が震えた。
一歩、後ろへ下がる。
その時。
竜が目を開けた。
金色。
「……え?」
心臓が、大きく鳴った。
見たことがある。
その瞳を。
「まさか……」
竜が低く唸った。
怖い。
怖いはずなのに。
私は一歩、近づいた。
「レイ?」
竜の身体が、わずかに動いた。
「……あなたなの?」
金色の瞳が揺れた。
その瞬間。
分かった。
理由なんてない。
姿も違う。
声も違う。
人間ですらない。
それでも。
「レイ……」
私は竜へ駆け寄った。
巨大な身体の横に、黒いものが見えた。
血だった。
「怪我してるの?」
触れようとすると、竜が低く唸る。
「怒らないでよ」
また唸る。
「怪我してるくせに」
金色の目が私を睨む。
私はなぜか笑ってしまった。
「そんな顔しても分かるから」
震える手を伸ばした。
銀色の鱗に触れる。
冷たい。
「あなたでしょう?」
竜はもう、唸らなかった。
ゆっくりと目を閉じる。
私はその大きな顔へ額を寄せた。
「やっと会えた」
涙がこぼれた。
「ずっと待ってたんだから」
◇
雲が流れた。
満月の光が、再び森を照らした。
突然、竜の身体が淡い光に包まれた。
「え……?」
私は後ずさった。
巨大な輪郭が光の中で揺らいでいく。
翼が消える。
鱗が消える。
大きな身体が小さくなっていく。
やがて光の中から、一人の男が現れた。
「……レイ」
彼だった。
傷つき、地面に膝をついている。
私は慌てて駆け寄った。
「大丈夫?」
「来るなと言ったはずだ」
「言われてない」
「……そうだったな」
「それより、その傷!」
肩から脇腹にかけて血が滲んでいる。
私が布を当てようとすると、レイが手首を掴んだ。
「怖くないのか」
「何が?」
「私だ」
私は彼を見る。
「竜だった」
「見れば分かる」
「人ではない」
「それも分かった」
「ならば、なぜ逃げない」
「……どうして逃げるの?」
レイが言葉を失った。
「だって、あなたでしょう?」
その顔を見て、私はようやく気づいた。
この人は。
私に嫌われると思っていたのだ。
だから何も言わなかった。
「馬鹿ね」
「……何?」
「ずっと隠してたの?」
レイは目を逸らした。
「人は、竜を恐れる」
「そりゃ怖かったよ」
彼が私を見る。
「ものすごく怖かった」
「……。」
「でも目を見たら分かった」
私は笑った。
「レイだったから」
彼の表情が崩れた。
初めて見る顔だった。
強くて。
何でも知っているように見えて。
いつも私より余裕があった男が。
泣きそうな顔をしていた。
◇
「一つだけ、違う」
傷の手当てをしながら、レイが言った。
「何が?」
「私は、満月だから人になるのではない」
「え?」
レイはしばらく黙っていた。
「竜は本来、人の姿にはなれぬ」
私は手を止めた。
「じゃあ、どうして?」
「古い言い伝えがある」
彼は満月を見上げた。
「竜が人を心から愛した時、満月の夜だけ、その者と同じ姿を与えられると」
「…………」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「それって……」
「ああ」
レイは私を見た。
「お前だ」
胸がいっぱいになった。
「私?」
「ずっと前から知っていた」
「いつから?」
「お前が私を知るより、ずっと前だ」
レイは静かに話し始めた。
まだ私が彼を知らなかった頃。
森の近くで、傷ついた鳥を抱き上げる私を見たこと。
雨の日。
誰も見ていないところで、泥だらけになりながら小さな命を助けようとしていたこと。
「そんなことで?」
「そんなことではない」
レイは少し笑った。
「竜は長く生きる」
「うん」
「長く生きると、多くのものがどうでもよくなる」
私は黙って聞いた。
「人の一生など、我らには一瞬だ」
その言葉が胸に刺さった。
「だが、お前を見て初めて思った」
レイの指が、私の頬に触れる。
「その一瞬の中へ行ってみたい、と」
満月の光が彼の横顔を照らしていた。
「そして次の満月、私は初めて人になった」
「……それが、私たちが初めて会った夜?」
「ああ」
知らなかった。
私にとって始まりだった夜は。
彼にとっては、ずっと待ち続けた末の夜だった。
「だったら言ってよ」
「何を」
「好きだって」
「言った」
「いつ?」
「先ほど」
「遅い!」
レイが笑った。
私も笑った。
泣きながら笑った。
◇
月が傾き始めていた。
もうすぐ夜が明ける。
彼の指先に、銀色の鱗が浮かび始める。
私はその手を握った。
「離れろ」
「嫌」
「間もなく竜へ戻る」
「知ってる」
「お前を傷つけるかもしれない」
「傷つけないでしょう?」
「なぜそう言い切れる」
私は彼の金色の瞳を見た。
「分かるから」
「何が」
「あなたのこと」
彼は困ったように笑った。
「月に一度しか、そなたを抱くことができぬ」
私は首を横に振った。
「違うよ」
「何が」
「月に一度も、会えるんでしょう?」
レイが黙った。
「二十九日会えないことを数えるより、一日会えることを楽しみにした方がいい」
「人の一生は短い」
「知ってる」
「私は、お前より遥かに長く生きる」
「それも仕方ない」
「いつか私は、お前を失う」
初めて聞く、弱い声だった。
私は彼の手を両手で包んだ。
「だから会わない?」
「……。」
「失うのが怖いから、最初から好きにならなければよかった?」
レイは答えない。
「私は嫌だな」
月が少しずつ白んでいく。
「いつか終わるとしても、私はあなたに会えてよかった」
銀色の鱗が腕まで広がっている。
それでも私は手を離さなかった。
「私がこんなにも貴方を愛しているなんて、貴方はきっと信じないんだろうな」
レイが私を見る。
「それでもいい」
私は笑った。
「貴方が私のために生きてくれるなら、私も貴方のために生きる」
「……。」
「支えるだけじゃないよ」
彼の手を強く握る。
「私も支えてもらうから」
レイが、小さく笑った。
「欲深い女だ」
「今頃気づいた?」
「ああ」
その声が少しずつ、人のものではなくなっていく。
身体が光に包まれる。
それでも。
怖くなかった。
たとえ貴方が姿を変えても。
私はきっと分かるから。
◇
それから私は、満月を待って生きるようになった。
春の満月。
夏の満月。
秋。
冬。
彼は毎月、月が満ちると私のもとへ来た。
たまに遅刻する。
そのたびに私は怒る。
「月に一度しかないんだから、遅刻しないで!」
「竜に時刻を求めるな」
「人になってる時くらい守って」
「面倒な女だ」
「帰っていいよ?」
「それは困る」
そんなくだらないことで喧嘩をして。
笑って。
時には、何も話さず月を眺めた。
満月の下でしか逢うことを許されない。
誰かが聞けば、悲しい恋だと言うのかもしれない。
私も以前は、そう思っていた。
でも今は違う。
会えない時間があるからこそ、分かることもある。
待つことは、寂しい。
でも。
誰かが来ると信じて待てる夜は、決して孤独ではない。
「レイ」
「何だ」
「来月も来る?」
彼は呆れたように私を見る。
「毎月聞くつもりか」
「だって聞きたいから」
レイはため息をついた。
そして私の手を取る。
「来る」
「本当に?」
「ああ」
金色の瞳が、満月の光を映した。
「月が満ちる限り」
私は彼の肩へ頭を預けた。
あと少しすれば、夜が明ける。
彼はまた竜へ戻り、森の向こうへ帰っていく。
そして私は、また次の満月を待つ。
それでいい。
月に一度、貴方に逢うだけで。
私はこんなにも、強くなれるのだから。
そして今では知っている。
きっと貴方も。
同じ月を見上げながら、私に逢える夜を待っている。
だから私は、もう寂しくない。
次の満月も。
その次の満月も。
私はここで、貴方を待っている。
満月の下で。
貴方と逢うために。




