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満月の下で貴方と

作者: EMo
掲載日:2015/10/26


 月に一回だけ、貴方と逢える日。


 私はずっと、この日を待っている。


 今夜は満月。


 窓を開けると、森の向こうから白い月がゆっくりと昇り始めていた。


「……遅いな」


 誰もいない部屋で呟いてみる。


 もちろん、返事はない。


 私は窓辺に頬杖をつき、月を見上げた。


 彼がやって来るのは、いつも満月の夜だった。


 最初に会ったのも満月。


 二度目も満月。


 三度目も。


 そして気がつけば、私は月の満ち欠けを数えながら暮らすようになっていた。


 あと十日。


 あと五日。


 明日。


 そして、今夜。


 月が満ちれば、彼が来る。


 月が欠ければ、彼はいなくなる。


 それが、私たちの恋だった。


     ◇


 彼の名は、レイ。


 それ以外のことを、私はほとんど知らない。


 どこに住んでいるのか。


 何をしているのか。


 家族はいるのか。


 どうして満月の夜にしか会えないのか。


 何度尋ねても、彼は答えなかった。


「ねえ」


 以前、私が聞いたことがある。


「もしかして、奥さんがいる?」


 レイは飲んでいた葡萄酒を危うく吹き出しかけた。


「……なぜ、そうなる」


「だって月に一度しか会えないんだもの」


「妻などいない」


「恋人は?」


「いない」


「本当に?」


「いるとすれば、お前だ」


「そういうことをさらっと言うの、ずるいと思う」


 彼は笑った。


 笑うと、少しだけ目尻が下がる。


 普段の彼はあまり笑わない。


 背が高く、黒に近い銀色の髪をしている。


 そして何より印象的なのが、金色の瞳だった。


 初めて会った時は、その瞳が少し怖かった。


 人の目ではないような気がしたから。


 それなのに今では、その瞳を見ると安心する。


「では、お前はどうなのだ」


「何が?」


「私がいない間に、他の男に心を移してはいないだろうな」


「一か月も放っておく人が言う?」


「放っているわけではない」


「じゃあ来ればいいでしょう」


 そう言った途端。


 レイは黙った。


 私は、その沈黙が嫌いだった。


 彼はいつもそうだ。


 満月以外の日の話になると、急に口を閉ざす。


「……すまない」


 結局、謝るのはいつも私だった。


 彼は何も悪くない。


 そう思おうとしていた。


 月に一度でも会えるのだから、それでいい。


 でも本当は。


 もっと会いたい。


 晴れた昼にも。


 雨の日にも。


 月のない夜にも。


 特別ではない普通の日に、彼と一緒にいたかった。


 私がこんなにも貴方のことを好きだなんて。


 貴方はきっと、知らないんだろうな。


     ◇


 ところが、その満月の夜。


 レイは来なかった。


 月はもう、森の上まで昇っている。


 こんなことは初めてだった。


「……レイ?」


 窓を開ける。


 冷たい風が部屋へ入ってきた。


 何も聞こえない。


 いつもなら、そろそろ扉を叩く音がする。


 私は待った。


 一時間。


 二時間。


 月が空の一番高いところへ来ても、彼は現れなかった。


 腹が立った。


「何なのよ……」


 一か月待ったのに。


 せめて来られないなら、知らせる方法くらい考えてくれたっていい。


 でも。


 怒りは、すぐに不安へ変わった。


 ――何かあった?


 あの人は約束を破るような人ではない。


 それだけは分かる。


 私は外套を羽織った。


 行く場所など知らない。


 それでも、じっと待っていることができなかった。


     ◇


 村の外れには、大きな森がある。


 子どもの頃から、決して入ってはいけないと言われてきた森。


 そのさらに奥には、人間ではないものが棲んでいる。


 昔から、そんな話があった。


 竜。


 山よりも大きな翼を持ち、炎を吐く怪物。


 何百年も生きるとも、人の言葉を理解するとも言われている。


 もちろん私は、おとぎ話だと思っていた。


 その夜までは。


 森へ入って、どれくらい歩いただろう。


 突然、地面が揺れた。


「……何?」


 木々の向こうから、低いうなり声が聞こえた。


 獣とは違う。


 もっと大きい。


 身体の奥まで震えるような音。


 逃げなければ。


 本能がそう言っている。


 それなのに、私は音のする方へ歩いていた。


 木々が途切れた。


 満月の光が差し込む。


 そして私は、それを見た。


「…………」


 息が止まった。


 巨大な生き物が横たわっている。


 銀色の鱗。


 折り畳まれた翼。


 鋭い爪。


 私など一口で飲み込めそうなほど大きな口。


 竜。


 本当に、いた。


 逃げなければ。


 足が震えた。


 一歩、後ろへ下がる。


 その時。


 竜が目を開けた。


 金色。


「……え?」


 心臓が、大きく鳴った。


 見たことがある。


 その瞳を。


「まさか……」


 竜が低く唸った。


 怖い。


 怖いはずなのに。


 私は一歩、近づいた。


「レイ?」


 竜の身体が、わずかに動いた。


「……あなたなの?」


 金色の瞳が揺れた。


 その瞬間。


 分かった。


 理由なんてない。


 姿も違う。


 声も違う。


 人間ですらない。


 それでも。


「レイ……」


 私は竜へ駆け寄った。


 巨大な身体の横に、黒いものが見えた。


 血だった。


「怪我してるの?」


 触れようとすると、竜が低く唸る。


「怒らないでよ」


 また唸る。


「怪我してるくせに」


 金色の目が私を睨む。


 私はなぜか笑ってしまった。


「そんな顔しても分かるから」


 震える手を伸ばした。


 銀色の鱗に触れる。


 冷たい。


「あなたでしょう?」


 竜はもう、唸らなかった。


 ゆっくりと目を閉じる。


 私はその大きな顔へ額を寄せた。


「やっと会えた」


 涙がこぼれた。


「ずっと待ってたんだから」


     ◇


 雲が流れた。


 満月の光が、再び森を照らした。


 突然、竜の身体が淡い光に包まれた。


「え……?」


 私は後ずさった。


 巨大な輪郭が光の中で揺らいでいく。


 翼が消える。


 鱗が消える。


 大きな身体が小さくなっていく。


 やがて光の中から、一人の男が現れた。


「……レイ」


 彼だった。


 傷つき、地面に膝をついている。


 私は慌てて駆け寄った。


「大丈夫?」


「来るなと言ったはずだ」


「言われてない」


「……そうだったな」


「それより、その傷!」


 肩から脇腹にかけて血が滲んでいる。


 私が布を当てようとすると、レイが手首を掴んだ。


「怖くないのか」


「何が?」


「私だ」


 私は彼を見る。


「竜だった」


「見れば分かる」


「人ではない」


「それも分かった」


「ならば、なぜ逃げない」


「……どうして逃げるの?」


 レイが言葉を失った。


「だって、あなたでしょう?」


 その顔を見て、私はようやく気づいた。


 この人は。


 私に嫌われると思っていたのだ。


 だから何も言わなかった。


「馬鹿ね」


「……何?」


「ずっと隠してたの?」


 レイは目を逸らした。


「人は、竜を恐れる」


「そりゃ怖かったよ」


 彼が私を見る。


「ものすごく怖かった」


「……。」


「でも目を見たら分かった」


 私は笑った。


「レイだったから」


 彼の表情が崩れた。


 初めて見る顔だった。


 強くて。


 何でも知っているように見えて。


 いつも私より余裕があった男が。


 泣きそうな顔をしていた。


     ◇


「一つだけ、違う」


 傷の手当てをしながら、レイが言った。


「何が?」


「私は、満月だから人になるのではない」


「え?」


 レイはしばらく黙っていた。


「竜は本来、人の姿にはなれぬ」


 私は手を止めた。


「じゃあ、どうして?」


「古い言い伝えがある」


 彼は満月を見上げた。


「竜が人を心から愛した時、満月の夜だけ、その者と同じ姿を与えられると」


「…………」


 意味を理解するまで、少し時間がかかった。


「それって……」


「ああ」


 レイは私を見た。


「お前だ」


 胸がいっぱいになった。


「私?」


「ずっと前から知っていた」


「いつから?」


「お前が私を知るより、ずっと前だ」


 レイは静かに話し始めた。


 まだ私が彼を知らなかった頃。


 森の近くで、傷ついた鳥を抱き上げる私を見たこと。


 雨の日。


 誰も見ていないところで、泥だらけになりながら小さな命を助けようとしていたこと。


「そんなことで?」


「そんなことではない」


 レイは少し笑った。


「竜は長く生きる」


「うん」


「長く生きると、多くのものがどうでもよくなる」


 私は黙って聞いた。


「人の一生など、我らには一瞬だ」


 その言葉が胸に刺さった。


「だが、お前を見て初めて思った」


 レイの指が、私の頬に触れる。


「その一瞬の中へ行ってみたい、と」


 満月の光が彼の横顔を照らしていた。


「そして次の満月、私は初めて人になった」


「……それが、私たちが初めて会った夜?」


「ああ」


 知らなかった。


 私にとって始まりだった夜は。


 彼にとっては、ずっと待ち続けた末の夜だった。


「だったら言ってよ」


「何を」


「好きだって」


「言った」


「いつ?」


「先ほど」


「遅い!」


 レイが笑った。


 私も笑った。


 泣きながら笑った。


     ◇


 月が傾き始めていた。


 もうすぐ夜が明ける。


 彼の指先に、銀色の鱗が浮かび始める。


 私はその手を握った。


「離れろ」


「嫌」


「間もなく竜へ戻る」


「知ってる」


「お前を傷つけるかもしれない」


「傷つけないでしょう?」


「なぜそう言い切れる」


 私は彼の金色の瞳を見た。


「分かるから」


「何が」


「あなたのこと」


 彼は困ったように笑った。


「月に一度しか、そなたを抱くことができぬ」


 私は首を横に振った。


「違うよ」


「何が」


「月に一度も、会えるんでしょう?」


 レイが黙った。


「二十九日会えないことを数えるより、一日会えることを楽しみにした方がいい」


「人の一生は短い」


「知ってる」


「私は、お前より遥かに長く生きる」


「それも仕方ない」


「いつか私は、お前を失う」


 初めて聞く、弱い声だった。


 私は彼の手を両手で包んだ。


「だから会わない?」


「……。」


「失うのが怖いから、最初から好きにならなければよかった?」


 レイは答えない。


「私は嫌だな」


 月が少しずつ白んでいく。


「いつか終わるとしても、私はあなたに会えてよかった」


 銀色の鱗が腕まで広がっている。


 それでも私は手を離さなかった。


「私がこんなにも貴方を愛しているなんて、貴方はきっと信じないんだろうな」


 レイが私を見る。


「それでもいい」


 私は笑った。


「貴方が私のために生きてくれるなら、私も貴方のために生きる」


「……。」


「支えるだけじゃないよ」


 彼の手を強く握る。


「私も支えてもらうから」


 レイが、小さく笑った。


「欲深い女だ」


「今頃気づいた?」


「ああ」


 その声が少しずつ、人のものではなくなっていく。


 身体が光に包まれる。


 それでも。


 怖くなかった。


 たとえ貴方が姿を変えても。


 私はきっと分かるから。


     ◇


 それから私は、満月を待って生きるようになった。


 春の満月。


 夏の満月。


 秋。


 冬。


 彼は毎月、月が満ちると私のもとへ来た。


 たまに遅刻する。


 そのたびに私は怒る。


「月に一度しかないんだから、遅刻しないで!」


「竜に時刻を求めるな」


「人になってる時くらい守って」


「面倒な女だ」


「帰っていいよ?」


「それは困る」


 そんなくだらないことで喧嘩をして。


 笑って。


 時には、何も話さず月を眺めた。


 満月の下でしか逢うことを許されない。


 誰かが聞けば、悲しい恋だと言うのかもしれない。


 私も以前は、そう思っていた。


 でも今は違う。


 会えない時間があるからこそ、分かることもある。


 待つことは、寂しい。


 でも。


 誰かが来ると信じて待てる夜は、決して孤独ではない。


「レイ」


「何だ」


「来月も来る?」


 彼は呆れたように私を見る。


「毎月聞くつもりか」


「だって聞きたいから」


 レイはため息をついた。


 そして私の手を取る。


「来る」


「本当に?」


「ああ」


 金色の瞳が、満月の光を映した。


「月が満ちる限り」


 私は彼の肩へ頭を預けた。


 あと少しすれば、夜が明ける。


 彼はまた竜へ戻り、森の向こうへ帰っていく。


 そして私は、また次の満月を待つ。


 それでいい。


 月に一度、貴方に逢うだけで。


 私はこんなにも、強くなれるのだから。


 そして今では知っている。


 きっと貴方も。


 同じ月を見上げながら、私に逢える夜を待っている。


 だから私は、もう寂しくない。


 次の満月も。


 その次の満月も。


 私はここで、貴方を待っている。


 満月の下で。


 貴方と逢うために。

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