囚われの魔王
今夜勇者がこの城にやってくる。
側近のアルファスはそのことを魔王に告げると部屋を出て行った。
窓から見える空は日が落ちたばかりでまだ仄明るく、壁の蝋燭が作る影は形を滲ませている。
最上階の部屋に一人残された魔王は、座り心地の良い椅子に腰掛けたまま物思いに耽っていた。
――今度こそ勇者はこの部屋まで辿り着くだろうか。
しかし彼女はすぐにその考えを打ち消した。
今まで何人もの勇者が魔王を殺そうとこの城を目指したが、誰一人として彼女の姿を見ることは無かった。
彼女の部下達は有能だ。
たとえ運良くこの城まで辿り着いたとしても、この部屋へ上って来るまでにはベルクもムールクスもいるのだ。そして、側近であるアルファスも。
今までやって来た勇者の多くは下層階で命を落とした。過去に最も彼女に近付いた者でも、一つ下の階にいるアルファスの前では無力だった。
――つまらない。どうせ、今回も私が勇者の顔を見ることは無いのだろう。
彼女は小さく溜息をついた。
肘掛けに凭れて頬杖をつくと、蝋燭の光を反射して腕輪が光った。繊細な細工が美しい銀の腕輪だ。昔彼女がまだ小さい頃にアルファスがくれたお気に入りの品で、いつも肌身離さず身に着けていた。
アルファスは彼女の教育係だった。
生まれた時から魔王になると運命付けられていた彼女は、物心つくと魔王としての教育を施された。
魔族のこと、人間のこと、魔王の務め、……。彼は魔王に必要な様々な知識を彼女に教えてくれた。
彼女が長じてからは彼女の片腕として、影のように常に寄り添っている。
時を重ね、小さく幼かった彼女は美しく成長したが、彼は昔も今も変わらず人間で言う青年くらいの姿だった。
上に立つ者は無闇に動いてはいけない。魔王は全ての魔族を統べる者なのだから、動くのは部下に任せておけば良い。アルファスがそう言うので、彼女はずっと城にいる。
城での生活に不都合はなかった。欲しい物があればアルファスが持ってきてくれる。ただ退屈しのぎに困らせようと無理難題を押し付けても、彼はあっさりその要求に応えてしまうので、彼女には少し面白くない。
以前は身の回りのことは侍女や従者達がしていたが、次第にアルファスがその役目を担うことが多くなり、最近では彼以外と会話を交わすことも殆ど無くなった。
――勇者がここまで来たら面白いのに。
ぼんやりと考えていると、下の方から何かがぶつかる低い音と微かな振動が伝わってきた。勇者が到着したようだ。おそらく1階のベルクと戦っているのだろう。
いつの間にか外はすっかり暗くなり、蝋燭の明かりが床に落とされた黒い影を揺らしている。
――ちょっと下に見に行ってみようか。
ベルク達に任せて安心して部屋にいるようにと、アルファスは言っていた。いつもは彼の言う通りに部屋で大人しくしていたが、ふと勇者を一目見てみようという好奇心が湧いてきた。そもそもこの城の主は自分なのだから、彼に指図される謂れは無い。そう自分を納得させて彼女は椅子から立ち上がった。
彼女は部屋を出ると、誰にも気付かれないよう足音を殺して階段を下りた。
遠くに聞こえていた音と振動が徐々に近づいてくる。
――ここだ。
彼女は一つの扉の前に立ち止まった。この部屋にはムールクスがいるはずだ。勇者がここにいるということは、ベルクは倒されてしまったのだろう。
この向こうにベルクを倒した勇者がいる。そう思うと彼女の鼓動は少し早くなった。
音を立てずにそっと扉を薄く開いて中を覗くと、広い部屋の中央付近では激しい戦いが繰り広げられていた。
彼女からはムールクスの巨躯に隠れてよく見えないが、勇者の振るう大剣とムールクスの鋭い爪がぶつかる度に火花が散っている。
部屋には二人しかいないようだった。勇者一人で乗り込んで来たのか、あるいは仲間は途中で力尽きたのかもしれない。
何度か衝突を繰り返した後、二人は少し離れて間合いを取った。張り詰めた静寂が部屋を覆っている。
二人が距離を取ったことでようやく彼女は勇者の姿を見ることが出来た。
初めて見る勇者は、鎧を纏った精悍な顔つきの若者だった。ベルクやムールクスのような角や翼は無く、姿形も背格好もアルファスや彼女に似ている。
――自分の倍ほどもある背丈のムールクスに、たった一人で挑むなんて。
彼女はアルファスに、人間は彼女達魔族よりもずっと短命で弱く、小さな虫と同じような取るに足らない生き物だと教えられていた。しかし、今ムールクスと対峙している青年の瞳は強い意志を宿し、その圧倒されるような気迫に彼女は驚いた。
想像とは違う勇者に興味を引かれ、彼女は彼から目が離せなくなった。
静寂を打ち破ったのは勇者だった。
彼は叫び声を上げながら剣を構え、再びムールクスに向かって踏み込んだ。ムールクスは巨躯に似合わぬ身軽さでそれを躱し勇者の横に回り込む。勢いでバランスを崩した勇者の頭上に、ムールクスの爪が振り下ろされようとしている。
――危ない。
彼女は咄嗟にそう思った自分に困惑したが、気付いた時には既に魔力を使ってムールクスを弾き飛ばしていた。
倒れているムールクスは気を失ったが、死んではいないようだ。
勇者は闖入者に気付き部屋の入口に目を向けた。
扉は完全に開き切って、彼女の姿を隠す物は何も無い。
「何者だ。魔族が何故俺を助けた?」
問われたが、何故勇者ではなくムールクスを攻撃してしまったのか、彼女にも分からなかった。
「……お前が勇者か?」
「そうだ。お前が俺の敵ならば容赦はしない」
そう言うと勇者は剣を握る手に力を込めた。
「待て、話を――」
「こんな所で何をしていらっしゃるのですか、魔王様?」
いつの間にやって来たのか、彼女の背後にアルファスが立っていた。
「このような下賤の輩、魔王様がお相手する必要はありません。どうぞお部屋にお戻りください」
いつもと変わらない穏やかな口調で話しながら、アルファスは彼女の前に移動した。
勇者は新たに出現した敵に警戒して様子を窺っている。
「魔王として、一度くらい勇者を見ておこうと思っただけだ」
「さすが魔王様。ご立派な御心掛けです」
彼女はつい言い訳めいたことを述べたが、予想に反して彼は咎めなかった。
アルファスは彼女に微笑むと、すっと左手を上げ勇者に向けた。
「しかし、魔王様のその美しい瞳に汚らわしいゴミが映るなどあってはならないこと」
その言葉と共に、勇者の身体が黒い炎に包まれた。
一瞬の出来事だった。何も出来ないまま、呻き声を上げながら勇者が倒れた。
あっけないものだ。ムールクスと互角に戦っていた勇者でも、やはりアルファスにかかれば赤子の手を捻るようなものだ。
「さて」
勇者を始末したアルファスは、今度は倒れたままのムールクスに炎を放った。
「な、何をするアルファス……!」
「ゴミの一つもさっさと片付けられない者がこの城にいる必要はありません。愚図愚図しているから、ゴミが魔王様の御目に触れ、あまつさえ言葉を交わすなどという事態になったのです」
ムールクスを気絶させたのは自分だったが、眉一つ動かさず仲間を殺したアルファスが、彼女には知らない人物のように思えた。
「何を考えている……」
「私はいつも貴女のことを考えていますよ、リリア様」
柔らかな声音で囁かれたのは、もう彼一人しか呼ぶことのない彼女の本当の名だった。
魔王になってからは、誰もが彼女を魔王と呼んだ。だがアルファスだけは、二人きりの時にその名で彼女を呼ぶ。
「どうなさいました? 勇者を助けるなど、魔王様のなさることではありませんよ。まさかあのゴミに興味がおありになるわけではありませんよね?」
――見透かされている。
彼の口は微笑みを形作っているが、目は真っ直ぐに探るような視線を彼女に送っている。彼女はその視線から逃げるように部屋を後にした。
魔王は自室の窓辺に置かれた椅子に腰掛け夜空を眺めていた。灯りの消された部屋を、月明かりが仄かに照らしている。
彼女は初めて見た勇者のことを考えていた。
彼は、彼女が話に聞いて想像していた人間とは違うように思えた。彼女が思うよりずっと力強く、生命の輝きを放っていた。
――わたしはこの世界のことを何も知らないのかもしれない。
彼女が知る世界は、アルファスから教えられた物だ。勇者と話をすれば、彼女の世界はもっと広がっただろう。しかし魔族の王であるはずの彼女にはそんな自由さえ無い。
「こちらにいらっしゃったのですね。」
扉の開く気配もなくアルファスが部屋に入ってきた。
彼女はこの有能な、いつも彼女の行動も何もかも見透かしたような側近が腹立たしくなった。
「ここへ」
促され、アルファスは神妙に彼女の前に跪いた。
「お前はわたしの何?」
「私はリリア様の僕です」
俯いたアルファスが言う。
「そうだ。そしてわたしが魔王だ。そうだな? わたしが勇者と接触しようとお前がどうこう言うことではない。……お前は、本当はわたしより自分の方が魔王に相応しいと思っているのだろう。魔力だってお前の方が上なのだからな」
「……魔王に相応しいのは貴女だけです、リリア様」
吐き出すような彼女の言葉に対して、彼の声はいつもと変わらず落ち着いていた。
「そんなことを言って、伏せたその顔でわたしを嘲笑っているんじゃないのか?」
彼女は苛立って片足で彼の顎を持ち上げ上を向かせた。
彼は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐにうっとりと目を細め彼女の足を手に取ると、内踝に口づけた。
「……っ、放せ!」
彼女は慌てて立ち上がると、足早に部屋を出て行った。
「困ったものだな」
魔王が足早に部屋を立ち去った後、アルファスは窓辺に立って一人呟いた。雲が月光を遮り彼の表情を隠している。
彼女が勇者と会って言葉を交わすのも、彼の彼女への忠誠心に疑いを向けるのも初めてのことだった。いったいどんな心境の変化か気まぐれか分からないが、いずれにせよあまり好ましいことではない。
今までずっと、ゆっくりと時間をかけてこの「檻」を作り上げてきたのだ。
彼女が幼いうちに腕輪で魔力の一部を封印し、魔王のあり方と称してこの城から出ないように教育した。念のため彼女だけが城の外に出られないような結界も施してあるが、幸いこれまでその出番は無かった。
――もっと堅固な檻にしなくては。彼女が外の世界になど興味を持つことのないような、完璧な檻を作らなくては。
「この城は貴女のためのものなのですから、リリア様」




