バウムクーヘン
高速道路も使わずに、漫然と国道だけを車で走って三時間。周りの風景は見覚えのあるものになっていた。高校の頃ずっと使っていたバスターミナルを通り過ぎる。昔よりも錆の浮いた気がする歩道橋の下をくぐった先には母校が見えた。もう少し走れば目的の場所だ。
赤信号につかまった私は、助手席に置いてある封筒を少し眺めてまた前に視線を戻した。わざわざ休日を潰してまで地元に帰るきっかけとなった一枚の手紙だ。
学生時代までは実家暮らしをしていたのだが、社会人となってからは就職先が地元ではなかったこともあり、アパートを自分で借りて一人暮らしをしている。残業をこなしたり、飲み会に誘われたりしてつつがない社会人生活を送り、気がつけばもう四年も経っていた。
一人暮らしで仕事をしていると、どうしても家事は溜まってしまい、部屋はだいぶ荒れてしまうものだ。さすがにそのままではまずいと思い、定期的に大掃除をすることにしている。
その日、一通り片づけを終えて本が横積みになった本棚に向き合った頃には夕方だった。学生の頃、よく部屋の片づけをしては、古い雑誌や昔読んだ本につかまって進まないことがあったのをぼんやりと思い出しながら、いらない雑誌をまとめ、紐でくくっていた。
西日に照らされた片付いた本棚を眺めると、しばらく手を触れていない本が多く目に付いた。西洋画の画集や、好きだった小説など、どれも学生時代に買ったものだ。一人暮らしを始めるときに実家から持ってきたもので、その当時は時々開いていた気がする。私は画集を手に取った。
スリーブケースに入った少し大きい画集。学生には結構高い買い物だが、どうしても欲しくて思い切って買ったものだ。表紙には青一色の背景に、鳥の飛ぶ形で青空が切り取られている。いつ見ても不思議な絵だった。山高帽をかぶった同じ顔の男が窓の外にずらっと並んでいる絵に、海の上に浮く石の城、魚の上半身で人の下半身の生き物が浜辺に横たわっている絵。パラパラとページをめくっていると、意外とあっさり画集は終わってしまった。こんなに絵が少なかっただろうかと思いながら、最初から丁寧にページをめくりなおす。
表紙から数ページ、不自然な林の中で馬に乗る女性の絵のページに、一枚の封筒が挟まっていた。最初は飛ばしてしまって気がつかなかったのだろう。いたって標準的な白い封筒だった。
封筒を手に取ると、なんとなくそれがなんだったのか思い出された。中身までは何か思い出せないが、自分で書いて入れたものだったはずだ。
封を切って中を確認すると、一枚のルーズリーフに短い文が書いてあるだけだった。
『見晴らし公園 入り口から5本目の木の根元 王様の耳はロバの耳』
これを人は黒歴史とでも呼ぶのだろうか。私はあまり中二病だとか黒歴史だとかいう言葉は、人を侮って揶揄する言葉のように感じるので好きではないのだが、やっぱり昔の自分にこんなことをされては恥ずかしい。
一体これがなんなのかを思い出した。たしか、自分の日記をこの場所に埋めたというメモだ。王様の秘密を言いたくて仕方が無い床屋が、自分で掘った穴に秘密を言うというイソップ童話になぞらえて、自分の思いを好きなようにつづった日記を埋めたのだ。
封筒の中身が分かってから、私は少し考えた。もうだいぶ前の話なので、もしかしたら水が染みて読めないかもしれなく、そのまま日記を放置していてもいいが、やはりそこに自分の恥ずかしい過去があるかと思うと回収してしまいたい。そうして私は次の休みに車を出すことにしたのだ。
目的の公園に着いたときは昼だった。コンビニで適当にサンドイッチを買って、公園でぼんやりと町を眺めながら食べる。学生時代もこうしてこの公園でぼんやり過ごしていたことがあったことを思い出す。見晴らし公園という名前は伊達ではなく、一応この田舎町の風景が一望できる。民家ばかりがずらりと並ぶ景色を見たところで、別になんの感慨も湧かないのだが。
休日であるにもかかわらず、曇天の公園はひっそりとしている。私はそれを確認するように眺めてから、園芸用のシャベルを車から取ってきて、手紙にあった場所を掘り返すことにした。昔の自分がこの場所を選んだのもこういう理由なのだろう。遊具がブランコしかなく、かといってサッカーや野球が出来るほどのスペースがあるわけでもない。猫の額ほどの土地だ。私は植えられている木の根元にしゃがみこみ、固い地面にシャベルをつきたてた。
少し掘って見たが、一向に何も出てこない。タイムカプセルとはなかなか個人で埋めるのが難しいと聞くが、こういうことなのだろう。目印を堂々と立てられなくて、見つからなくなってしまうか、箱に水が染みて中身がだめになってしまうかのどちらかだ。少しずつ位置をずらしながら掘って見たが、それでも見つからなかった。
いい加減に疲れてきたので諦めて私はベンチに座り、コンビニで買ってきていた缶コーヒーを開けた。少し前までは微糖のコーヒーを飲んでいたが、糖分を気にして、最近はブラックを買うようにしている。昔はコーヒーが飲めなかったが、働いている事務所にコーヒーと煎茶しか飲むものがなかったので、気がついたら飲めるようになっていた。
実家を出て四年。数字でみれば長いが、体感としては短い。毎日が同じように繰り返して、早く次の休みにならないかと思いながら一日を乗り越えていく。たぶんこれからも、今とあまり変わらない日々が重なっていくのだろう。気がつけば五年、十年と経っているのだろう。子供の頃に想像していた大人と違うじゃないかと、時々思う。自分が考えていたより、大人の中身は子供と変わらない。
空になった缶を捨てる場所があるだろうかと顔を上げて周りを見渡してみたが、いまどき、こんな小さな公園にゴミ箱があるはずもなく、代わりに、公園に入ってくる一組の親子が目に入っただけだった。
近所の子だろうか、三輪車に乗っていた小さな子が飛び降りるようにしてブランコのほうに駆けてゆく。母親が把手のついた三輪車を押しながら子供についてきていて、顔を上げている私と目が合った。
私はすぐに目をそらそうと思ったが、なんとなく見覚えのある顔であったため、お互いに目を見合わせてしまった。
「……多田野さん?」
先に声を出したの向こうだった。私はうなずくと逡巡して名前を出した。
「えーと、佐藤さんだったよね?」
「そうそう。今は久保っていうんだけどね」
笑いながらこちらのベンチに歩み寄ってきた彼女に、私もうなずいた。子供がいるのだ、シングルマザーで無い限り苗字は変わっているだろう。それにしても、同い年でもう一人でブランコに乗れる子供がいるとは驚きだ。
「高校以来だね。地元で就職したの?」
「ううん。違うんだけど、今日はたまたま」
「そっか」
佐藤さん、もとい久保さんとはそんなに親しかったわけではない。むしろ私とは毛色の違う派手なタイプの女子だった。今でもそれはあまり変わっていないらしく、髪形や服装は流行の雑誌に載っていて若い女性モデルの着ていそうなものだった。それでも育児をして、ちゃんと子供の公園に付き合って、ちゃんと母親を務めているようだった。
「すごいね、子供いるんだ」
「うん、結局高校卒業してすぐ働いたんだけど、子供できちゃってすぐやめちゃった」
「そっか。私にはまだまだ子育てとか、想像できないな」
そうしみじみ言うと、久保さんはカラカラと笑って言った。
「やってみたら意外とふつーだよ。子供めっちゃかわいいし」
笑いながら彼女が子供に手を振ると、子供も元気に手を振り返す。正直なところ、意外だった。成績で人が決まるわけではないが、どちらかといえば彼女は成績がよくなかった。チャラチャラしているという周りからの認識だってあった。それでも、たぶん私よりもしっかりと生活を送っているような気がする。
「で、多田野さんは、何していたの?」
私は息を詰まらせた。考えをめぐらせていたからでもあったが、なにより、自分の過去を掘り返しに来たと言うのは恥ずかしいにもほどがある。
「いや……えーと」
「あ、もしかしてタイムカプセルとか?」
口ごもっている私に、彼女はずばり的を射てくる。落ち着いて考えれば、横に置いてあったシャベルを見ての推測だろうが、私は動揺した。
「私もね、友達とやったことあるんだけど、みつからなくてさー」
屈託の無い笑顔で彼女は続けた。
「で、見つかった?」
とりあえず、タイムカプセルといえば聞こえはいいし、あながち間違いでもないので特に訂正もせず、私は首を横に振った。
「やっぱりー。見つからないものだよね」
「そういうものだよね」
「どこに埋めたの?」
私は彼女の質問に少し答えるか迷いつつ、ゆっくり答えた。
「ここの入り口から五本目の木の根元だったみたいだけど……」
「あ、たぶん今は四本目だよ。前に木が折れて、一番入り口側の木を一本切っちゃったんだよね」
その言葉に、跳ねるように顔を上げて木の生えている方を見た。確かに、入り口側に少し間があいているが、まったく気がつかなかった。私は彼女にお礼を言うと、シャベルを手に取り、もう一度挑戦してみることにした。
「みつかるといいね」
高校の頃よりも沢山話したかもしれない彼女は、笑って手を振ってくれた。
再び固い地面にシャベルを立て、土を掘り出す。それを何度か繰り返しているうちに、ついに固いものがシャベルの先に触れ、私の胸はドキドキと高鳴った。土を全部退け、ビニール袋に覆われた缶を浅い穴から取り出した。ビニール袋はしっかりとガムテープで口がふさがれており、この様子だと、中身は無事かもしれない。
顔を上げると、久保さんは子供と一緒に地面にしゃがみこんで何かを見ていた。私が見ていることに気づいた彼女は手を振る。
「あったよ。ありがとう」
「よかったねー」
私は彼女に心の中でもう一度お礼を言うと、公園から出て、停めてあった車に乗り込んだ。さすがに公園で中を確認するのは恥ずかしかったためだ。
車を発進させて、適当な場所にまた停めると、掘り起こした缶のビニール袋をはずし、手に取った。缶の口もビニールテープでグルグル巻きにしてある。それをゆっくりあけてから、中に入っていたノートを取り出してみたが、中を見るのには勇気がいる。気持ちが固まるまでノートを眺めていた。開いた手のひらよりも少し大きなノートで、表紙はシンプルなものだった。私は一呼吸置いてから表紙をめくった。
全部読み終わり、私は目をふせてそっとノートを閉じた。しばらくしてから呼吸を思い出したように一つため息をつく。
中身は他愛の無いものだった。日常の不満。友達と遊びに行った思い出。成績や普段の生活に口うるさい親への不満。学校の同級生に対する不満。眠れなかった夜に一人で見た朝焼けの美しさ。教師への不満。学校生活が退屈だという不満。いつかみんなを見返してやりたいという気持ち。
私はもう一度ため息をついた。昔の日記を読んだことで過去の自分が私の中にダウンロードされた気がする。不満ばかりで、周りには敵ばかりいるように思っていた。嫌味だって簡単に吐いていた。それでも、時々見える景色は結構鮮やかだったらしい。
一滴だけ涙が閉じたノートの表紙に落ちた。
私はノートを助手席に置いて車を発進させた。
ドアのチャイムを押そうかと思って手を伸ばしたが、少し迷っていた。それから息を吸い込むと、ドアの把手に手を掛けた。
「……ただいま」
その言葉がこんなに弱々しいことも無いだろう。私は不安になりながら声を出した。何しろ私が実家に帰るのは正月くらいなもので、遠いからという理由でお盆にも帰っていない。別に家族仲が悪いわけではない。それでも私は母親が少し苦手だった。
「あら、ひとみ! どうしたの、突然」
出迎えた母が目を丸くして声を上げた。私は決まりが悪そうにはにかんだ。
「ちょっとね、こっちに来る用事があったから」
久しぶりの慣れ親しんだ我が家の廊下を歩く。なんだか毎年正月には見ているはずだが、冬ではない家はなんだかいつもと違うような気がした。
母は驚いた以外、いつもどおりの母だった。連絡をくれればよかったのにといいながらお茶を淹れてくれて、仏壇からお菓子を集めてきてくれた。特になにか訊いてくるでもなく、母は私と一緒にぼんやりとワイドショーを見る。時々、仕事はどうかとか世間話程度の会話がある程度だった。
バウムクーヘンを一切れ食べ、お茶がなくなるころ、私は少しドキドキしている胸をおさえつつ口を開いた。
「あのね、今日、高校の頃の同級生に会ったんだ。結婚して子供がいたよ」
「そう。私もあんたぐらいの歳には結婚していたっけ」
「……歳取ってるんだよね、私も。……今になって、昔お母さんが色々言ってくれたことが少し分かるよ」
「そう」
私は母をじっと見たが、母はそれ以上なにも言わずに静かにお茶をすすっている。本当はもっと色々といいたい。成績を我が事のように憂いていてくれた母。片付けの苦手な私を叱咤してくれた母。人づきあいが苦手な私を諭してくれた母。それらはみんな学生の頃の私には、憂鬱で口うるさく嫌味な存在にしか映らなかった。成績がよければ世間体がいいからそんなことを言うのだろうと罵ったこともあった。散らかった部屋でも、自分で過ごすのには最適なのだと詭弁でかえしたこともあった。放っておいてくれと怒鳴ったこともあった。沢山喧嘩をしてきた。その全部ではないが、今はそれが私のためだったのだと理解できる。私のことをこんなに考えて、心配してくれる人がとても大切な存在だということが、今なら理解できる。
「ごめんね」
私は母を見ずに、からになった湯のみの底を眺めた。
「なんもさ」
一言だけだったので私は伺うように母を見たが、母はいたって涼しい顔をしている。私の言いたいことを理解した上で、母親なんだから当然だとでも言っているように思えた。私は少しだけ微笑んで、お茶を淹れに台所へ行った。
それからは、また世間話を少しして帰路に就いた。母はご飯くらい食べていけばと言ってくれて後ろ髪を引かれたが、あまり遅くなると明日の仕事で疲れてしまうからと言って断った。
赤信号で停車しているときに助手席を見ると、街灯の光が差し込んで私の日記を照らしていた。
確かにあの時は世界のほとんどは敵に見えたし、たまに見える景色はとても美しく見えた。今は私もその敵の一人になってしまったのか、敵はほとんど見当たらないし景色もそんなに驚くものでもない。それでも、と私は前に視線を戻した。
信号が青に切り替わる。
たぶん、私はまだまだ色々なことに気づいていないのだろう。日々の不満も、もしかしたら何十年後には別のものになっているのかもしれない。かつて侮っていたものは、実はみにくいアヒルの子だったのかもしれない。
大人になると、大人の中身は意外と子供と変わらないとよく、色々な人が言うが、きっとそれは気がついてないだけなのだろう。木のゆっくりすぎる日々の成長に気がつかないように。それでも確かに、本当に一年ごとに年輪を増やしているのだ。そしていつの間にか人の背丈を抜く大樹になっているのだ。
そんなことを考えているうちに、私はいつのまにか微笑んでいた。
〔了〕