ミコトヤ
逃げ込んだ先は、奇妙な空間だった。
部屋の中央には応接用のテーブルとソファー。そして部屋の隅に、小鳥の入った鳥篭が一つ吊るされていた。
その部屋にはそれだけしかない。人が生活するには物が少な過ぎる。雑居ビルの地下という立地を考えると何かの店なのかもしれないが、それにしては商品らしい物も置いてはいない。
何もない部屋の中を眺め回していると、部屋の奥にあるもう一つの扉が開かれた。
「あら…お客様?いらっしゃいませ」
やはり何かの店なのだろうか。家主らしき女性は突然の訪問者に驚いた様子もなく、そう挨拶をした。
ここは何なのか尋ねようと口を開こうとした瞬間、階段を駆け降りてくる足音が耳に入った。
慌てて身を隠そうとするが、この部屋には隠れられる場所がない。家主の了承も得ずに奥の部屋に逃げ込むと、扉を閉めた。
「おい、ここに男が来なかったか?!」
隣の部屋から、男の声が響いた。そこでようやく、大きな失敗をしたことに気付く。
隣の部屋に、先程の女性を残してきてしまった。
彼女に闖入者を庇う理由はない。むしろ余計なトラブルを避けるために、迷わず自分を差し出すだろう。
―――もう駄目だ。
他の逃げ道を探そうにもドアノブを掴んだまま固まって動くことが出来ず、ぎゅう、と目を瞑った。
そして隣の部屋にいる女性は、信じられない言葉を発した。
「いいえ、誰も来ていませんわ」
「そうか、邪魔をしたな」
そう言い残し、遠ざかっていく足音。
「…もう、出てきても大丈夫ですよ」
しばらくして、そう声を掛けられた。
恐る恐る扉を開き部屋を覗き込むと、そこには女性の姿しかなかった。
「なんで…俺を庇ってくれたんだ…?」
そっと部屋に足を踏み入れ、訝しげに尋ねる。
「貴方は、私のお客様になってくれそうだったから」
訳が分からない。
更に尋ねると女性は、ここは貴方のような人にこそ相応しい店なのだと言った。
「ここは、命屋…命を売るお店です」
「命…?人身売買か何かか?」
そうだとすると俺には別に用事はない。この店主の目には、俺がどのように映ったというのだろうか。
店主はゆるゆると首を振り、俺の言葉を否定した。
「そのようなものではありませんわ。貴方は命を狙われているようでしたね――もし、命をもう一つ手に入れることが出来るとしたら…貴方はどうされますか?」
それは――欲しいと思うだろう。この場は彼女のお陰でなんとか凌ぎきったが、次に見付かれば確実に殺される。俺が死なない限り、追撃は終わらない。もし、もう一つ命があれば―――…
「貴方が命を落としても、命がもう一つあれば――貴方は生き返ることが出来る。保険のようなものですわ」
それは今の俺にとって、とても魅力的な商品だ。しかし、そんな非常識なこと、にわかには信じられない。
「口で説明するよりも、実際に見てもらった方がいいかもしれませんわね」
そう言うと店主は部屋の隅の鳥篭に近付き、その入り口を開けた。慣れた様子で小鳥はその女性の腕に飛び乗る。
店主は自身の手の上で落ち着きなく首を動かす小鳥の胸の辺りに、軽く口付けをした。
そして―――…
「な…ッ!?」
店主は小鳥をその手で握り潰した。
甲高い鳴き声を発し、小鳥は数度痙攣を起こした後、動かなくなった。
血に濡れた羽毛が、床に落ちる。
突然の行為に呆然としている俺の鼻先に、店主は小鳥の死体を突き出した。
「見ていてください」
正直、直視したいものではなかった。だらしなく開かれた嘴、折れ曲がった翼、赤く染まった羽毛――二度と動くはずのないそれ。
しかし、すぐに変化は起こった。
時間が巻き戻るように折れた翼は元の形に戻り、やがてピイピイと鳴きながら、小鳥は再び主人の腕を跳ね回り始めたのだ。
「信じて頂けました?」
店主は小鳥を鳥篭に戻すと、血で汚れた手を拭きながら尋ねた。
こんなのは手品に決まっている――しかし…
「もちろん、それなりの代金は頂くことになりますけれど…貴方の命の危険はすぐそこにある。ここで命を買わなければ、貴方は殺されて、それでお終い。もし私が貴方を騙しているのだとしたら、高いお金を払ってから、やっぱり殺されてそれでお終い。でも、もし私の言うことが本当なのだとしたら―――」
どうせ近いうちに殺されるのなら、ここで騙されたと思って高い代金を払っておいた方がまだ可能性が残るという訳か。
「ちなみに、代金ってどれくらいなんだ」
「このくらい――ですわね」
…無理だ。死んだ気になったとしても、とても今すぐ払える金額ではない。
「こういうのもございますけれど」
金が無いという俺に、店主は提案をした。
それは死んだ後の肉体を売る、というものだった。もちろん一度生き返って、その後にまた命を落としてからの話だ。彼女曰く、死んだ後の肉体にも色々と利用価値があり、専門の業者が高く買い取ってくれるとのことだ。
それならば提案を呑んでもいいと思った。今すぐ死んでしまうのは困るが、第二の人生を謳歌したその後であれば、死後の自分の肉体がどう扱われようと構わない。幸い俺には死体を弄ばれて悲しむような家族もいないし、死後の世界どうこうといった宗教にも関心がない。
「商談成立ですわね」
騙されたと思って――というのは、こういうことを言うのだろう。
俺は契約書にサインをし、店主は俺の胸にその唇を押し付けた。
事の真偽は、思っていたよりも早く分かることになった。
俺は細い路地の真ん中で仰向けに倒れ、雨に打たれていた。
身体が冷たい。けれどそれは雨が冷たいからだ。
刺された腹を撫でる。傷はない。
そのまま指を滑らせ、胸に手を置く。心臓が、脈打っているのを感じる。
ゆっくりと身を起こす。赤い血が、雨に流され周囲に拡散している。
俺は、死んだ。
そしてまた、こうして生きている。
翌日、俺は再び命屋を訪ねた。
地下へと向かう幅の狭い階段を下りていると、下から上って来る男とすれ違った。壁に張り付き、道を譲る。
「どーも」
軽く礼を言い、男は階段を駆け上る。
命屋の客だろうか。命屋の客層は金持ちの親父が多いのだと店主は言っていたが、今の男がそうであるようには見えなかった。どちらかと言えば自分に近い、非合法な商売を生業にしているような雰囲気の男であった。
何気なく店主に尋ねてみると、
「ああ、あの人はお肉屋さんよ」
と言った。
肉の買い付けでもしたのだろうか。この女性が青空の下でバーベキューをしている姿など、とても想像がつかない。
さらに尋ねてみると、どうやら肉屋というのは死体処理業者の通称であることが分かった。死体の利用価値など臓器を取り出すくらいしか思いつかなかったが、それ以外にも余すところなく利用価値はあるのだと言う。自分もそうなるのだからあまり詳しく聞かないほうがいいわよ、と言われたので、それ以上のことは訊かないでおくことにした。
「それで、今日は何のご用?」
「ああ、礼を言いに来たんだ」
俺は本当に、店主に感謝していた。
この店主と出会えたから、俺は今ここでこうして生きていられる。
そしてそのお陰で、俺を殺した相手に復讐することができたのだから。
あいつはとても驚いていた。
それはそうだ。殺したはずの相手が生き返って、自分を殺しに来たのだから。
俺を殺して安心しきっていたあいつを殺すのは、実に簡単なことだった。
「本当に感謝している――ありがとう」
「満足してもらえて嬉しいわ」
「次に会う時は、俺が死んだ時か」
「そうね。それまで後悔のない――良い生を」
奇妙な挨拶を交わし、俺はその店を後にした。
それからは平穏な日々が続いた。
そして新たな命を得てから一週間が経ったその日、平穏な日々は唐突に終わりを告げた。
「畜生、畜生、畜生―――!」
俺は走る。死に物狂いでひた走る。
服が裂け、皮膚が裂け、血が噴き出す。それでも俺は脚を止めない。
止まれば俺はそこで死ぬ。
そう、まだ追撃は終わっていなかったのだ。
あの男が死に、俺がまだ生きていることがその仲間に知られてしまったのだ。
今度俺を殺しに来た相手は、この前の男よりも性質が悪い。俺が逃げ回り苦しむ姿を楽しんで、じわじわと追い詰めてくる。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ―――!」
もう死ぬのは嫌だ!あんな想いをするのは嫌だ!あれ以上の痛みと恐怖を与えられて殺されるのは嫌だ!!
俺は走った。
走って、走って、あの店へと飛び込んだ。
「あら、いらっしゃい。丁度良かったわ、今、お肉屋さんを呼ぼうと思っていたの」
店主は傷だらけで転がり込んだ俺の姿を見ても驚いた素振りを見せず、よく意味の分からないことを言った。
「頼む――もう一度俺に、命を売ってくれ!このままじゃ俺は殺される!俺はまだ死にたくない!死にたくないんだ!!」
恥も外聞もかなぐり捨て、懇願する。
店主はそんな俺の情けない姿を見て微笑むと、
「無理よ」
一言そう言った。
「なん…でだ…?一度生き返ったら、もう生き返ることはできないのか…?」
「そうじゃないわ。貴方…もう支払えるものがないのでしょう?」
要は金の問題なのだと、店主は冷たく言い放つ。
「必ず…どうにかして金は工面する…!だから、頼む…お願いだ…!」
「私だって商売人です。代価を支払える見込みのない人に、商品をお売りすることは出来ませんわ」
絶望という単語が、頭の中を支配する。
「じゃ…じゃあ、せめて、匿ってくれ…!ほとぼりが冷めるまででいいんだ!頼む、頼む、死にたくないんだ…」
すでに顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。それを拭うこともせず、店主に縋り付く。
店主はその情けない姿を見下ろし、ため息を吐いた。
「困りましたわね…そんなことをしても、意味がないのに…」
「意味が…ないって、どういう…ことだ…?」
嗚咽交じりに尋ねると、店主は耳を疑うような言葉を口にした。
「だって――…貴方、もうすぐ死ぬんだもの」
「は―――?」
何を言っているんだ、この女は?
この女が助けてさえくれれば、俺はすぐに死ぬことはない。
それを拒まれたとしても――死んでたまるか。
俺は逃げてやる、あの男から逃げ切ってやる!
「俺は…まだ、死なない…!」
「いいえ、死ぬわ。もうすぐ命が尽きるもの」
命が、尽きる?
「蛍の寿命は7日間」
何を、言っている?
「貴方に与えた命は、蛍の命」
この女の言うことは、いつも意味が分からない。
―――次に会う時は、俺が死んだ時か
―――そうね。それまで後悔のない
―――良い生を。
「うわああああああああああああああ!!!嫌だ!嫌だ!嫌だ!死にたくない死にたくない死にたくない!!!」
崩れ落ちる俺を店主が見下ろす。俺は泣き叫ぶ。店主は俺を残し、隣の部屋に消えていった。傷が痛む。話し声が聴こえる。嫌だ。肉屋に連絡を取っているのだろう。死にたくない。
嫌だ。嫌だ。
意識が薄れていく。
声が、
音が、
痛みが、
熱が、
色が、
光が、
臭いが
思考が、
そして、命が―――
すべてがそこで、ぷつりと途切れた。