第22話 手の行き場
紙屋の暗い書庫から帰って、四日が過ぎた。
その四日間のあいだ、私の名前の就労枠は、一日たりとも台帳に入ってこなかった。
月曜の早朝、帳場の窓口に行くと、関口さんは何も言わずに配置台帳を開き、くるりと百八十度回転させて私の目の前へ差し出した。
永田さんの名前がある。
黄詩文の名前がある。
砂川さんの名前もある。
月曜から土曜までのどの日の行を見渡しても、物部昊という四文字は、どこにも存在しなかった。
「……先週、来週は週に二日残ると聞きました」
「ああ、言ったな」
「その二日が、どこにもありません」
私は上の行から順に、震える人差し指で一行ずつ辿っていった。
木曜日の途中で、指先がピタリと止まった。
その先に、辿るべき私の名前が何ひとつない。
私は右手を開き、そして固く握りしめた。
親指の腹で、中指の第一関節の横にある硬いペンだこの位置を、確かめるようにそっとなぞった。
これまでの人生で、誰の目にも見せたことのない、私だけの孤独な癖だ。
「……消えたんじゃないぞ」
関口さんが低く言った。
「最初から、一行も入ってこんのだ。中央の計算アルゴリズムが、おまえさんを完全にゴミとして弾き出しておる」
関口さんは台帳のページを捲り、あの【立替】の欄を開いてみせた。
四日前に鉛筆で書き込まれた「八万四千円」という数字が、冷酷にそこに居座っている。
「この借金の欄は、おまえさんが現場で働いた日当からしか相殺できん」
「……はい」
「おまえさんに日当が出んなら、この数字は一円も動かん」
それだけだった。
返済を待ってやるとも、帳場が損を被って帳消しにしてやるとも、老人は一切言わなかった。
関口さんは引き出しから金庫の真鍮の鍵を取り出し、いつものように布で溝を磨き始めた。
「二十年前の混乱期にもな、国家から名前を消されたやつが港におった」
布が、鍵の細い溝を規則正しく往復している。
「あいつは、社会から名前が完全に消え去ってから、死に場所を求めてここへ流れ着いた。だがおまえさんは、名前が消されるその瞬間に、いま、ここに立っておる」
「……そこに、何か違いがありますか」
「あるさ。——その消えていく無惨な過程を、この目で見届けている生身の人間がここにいる、というだけの違いだがな」
老人は最後まで、私から視線を背けたまま顔を上げなかった。
◆◆◆
丘の上の明石の家へ行くと、玄関の三和土に、白い公的な封筒が三通、無造作に重ねて放置されていた。
郵便受けから落ちたまま、拾い上げられずに転がっている。
奥の作業場へ入ると、明石はいつもの端末の前には座っていなかった。
部屋を埋め尽くす紙の山と山のあいだのわずかな隙間に、あぐらをかいて一人で座り込んでいた。
「……玄関の封筒は」
「読んだよ。三通とも隅々までな」
明石は右手の指を三本、立ててみせた。
「除名。強制立入。そして、借地契約の解除」
一本ずつ、指を冷酷に折っていった。
「学会の名簿から、俺の名前が完全に永久抹消される。国家機関によるこの家への強制立入検査は、来週の火曜だ。そしてこの土地の借地契約は、今月末で一方的に打ち切られる」
「三通すべて、同じ日に届いたんですか」
「同じ日の朝だ。差出人の省庁も組織も三つともバラバラだ。——それなのに、完璧に同じ日の同じ時刻に着弾する」
明石は足元の封筒を拾い上げ、右上の公印の刷り込みを親指でギシギシとこすった。
「正規の認証銘が刻印されている。三通ともにな」
そして、封筒を紙の山の上へ無造作に放り投げた。
この異様な廃屋の中で、国家の認証銘を持つ紙は、いま届いたその三枚の死刑宣告だけだった。
「……外部からの統計鑑定の依頼は、どうなっていますか」
「一件も来ん」
明石は暗いモニタの画面を見つめた。
「先月までは月に二、三件の闇依頼があった。だが今月は完全にゼロだ。裏の鑑定ビジネスというのは、依頼主の側が身元を割られない保証があって初めて成立する」
「明石さん自身が、国家から目をつけられた危険人物になったから……依頼人が逃げ出した、ということですか」
「俺はそうとは言っていない。——だが、状況証拠はそう語っているな」
私は息を吸い込み、昨日の成果を報告した。
「……紙屋の七枚目の廃棄指示書に、名前がありました」
明石の目が、カッと見開かれた。
「読めたのか」
「日向澪です。件名の入力欄が真っ白な空白のまま印刷されていて、そこに当時の担当者が鉛筆で書き足していました」
明石が弾かれたように立ち上がった。
足元の紙の山を、片足で激しく蹴り飛ばした。
崩れ落ちた書類の束から一枚の白紙が宙にフワリと舞い上がったが、明石はその紙を拾おうともしなかった。
「澪。……日向、澪……!」
二度、その名を反芻した。
二度目の声は、地を這うように低く、苦渋に満ちていた。
「明石さんが索引から掘り出したあの保安令状と、まったく同じ年の、同じ保安省の案件です」
「同じ年、同じ省庁、そして同じ事案の被疑者だ。……間違いない。——で、その紙の現物は買い取れたのか」
「……買えませんでした」
「いくら要求された」
「探索料と寸分違わぬ、現金で十五万円です」
明石は力なくパイプ椅子に座り直した。
金の話は、それ以上出なかった。
いまのこの家に、そんな大金を工面できる余力などどこにもないことは、痛いほど分かっていたからだ。
明石は端末のキーを叩き、「日向澪」のフルネームでデータベースを走らせた。
該当件数——ゼロ。
だが、日向という苗字だけで検索したときとまったく同じ、五ミリ秒の不自然な応答遅延が記録された。
「完全にフィルタリングで塞がれている。だが、塞がれているという事実そのものが、彼女の実在を証明している」
明石は画面をパタンと閉じた。
「紙の原本は国家によって灰にされ、電子の索引は厳重に塞がれる。——だが、あの七枚目を肉眼で見た君の頭脳の記憶だけは、国家のどんな権力を使っても絶対に消去できない」
明石は板張りの天井の特殊遮蔽材をじっと見上げた。
「来週の火曜の強制立入までに、この家の紙をすべて別の場所へ疎開させる。絶対に公的な台帳に載っていない、安全な隠し場所が要る」
私の頭に、旧市街の自分のアパートが浮かんだ。
家賃は毎月現金手渡しで、大家の老婦人に直接払っている。
公的な賃貸契約書など最初から存在しない、制度のエアポケットだ。
「……私の部屋に置けます」
明石が振り返り、私をじっと見つめた。
「四畳半の安アパートですが、部屋の半分は完全に空いています」
明石は何も言わず、部屋を埋め尽くす紙の山の高さを、静かに目で測っていた。
◆◆◆
日が西へ傾いてから、私は埠頭へ向かった。
現場へ行く実質的な理由は、何ひとつなかった。
だが明石の家を出たあと、私の足は、六年間通い慣れたいつもの港への道を無意識に選んでいた。
港の守衛所の門の脇に、売店の小さな注文窓口がある。
構内の入場許可証を持たない人間でも、この外側の窓口だけは現金で利用できる。
ガラスケースの中の、前日の半額シールが貼られる棚を見つめた。
何も残っていなかった。
前日の売れ残りの煮物が並ぶのは正午の十二時過ぎで、その時刻に現場で働いている人間たちによって、とっくに買い尽くされているのだ。
今日の私は、その時間に現場に立つ権利すら奪われていた。
売店の棚に、定価のおにぎりが並んでいた。
塩おにぎりが九十円。梅おにぎりが百円。
私は十秒ほど迷った末に、一度手を伸ばした百円の梅を棚に戻し、九十円の塩おにぎりを買った。
わずか十円の差額だったが、いまの私にはその十円の重みが、喉を締め上げるほどに痛切だった。
おにぎりを作業着のポケットに突っ込み、袋から出さずに埠頭のフェンス沿いを歩いた。
金網の向こう側に、夕日に照らされた巨大なコンテナの群れが整然と並んでいる。
本来なら私がその数を数え、封印を確かめるはずだった鉄の箱が、検数する人間のいないまま、そこに黙って鎮座していた。
フェンスの鉄柱に背中を預け、冷たいアスファルトの上に腰を下ろした。
私の作業着の膝の上には、何も乗っていない。
検数伝票も、鉛筆も、数字を書き留める藁半紙も、何ひとつない。
埠頭の奥から、日番の労働の終了を告げる重いサイレンの音が鳴り響いた。
しばらくして、守衛所の門から黄詩文が出てきた。
油の染みた作業着に、背中に垂らした一本の長い三つ編み。
両手に、冷えた紙パックの緑茶を二つ提げている。
「……今日、朝番に来ていなかったわね」
詩文が私の正面に立ち止まった。
「はい」
「帳場の台帳、見たわ」
感情を交えない、ただの冷徹な事実だけを置くような声だった。
この人はいつも、余計な感傷を削ぎ落とした生身の言葉遣いをする。
「……そっちのフェンスの隅、海風が遮られて寒くないわね」
詩文は私の右隣のわずかなスペースを指差した。
「隣、座ってもいい?」
私が頷く間もなく、彼女は作業着の裾を引いて、私のすぐ隣に腰を下ろしていた。
肩と肩が触れ合うほどの、ゼロ距離の近さだった。
詩文は手慣れた手つきでストローを指先でプチリと刺し、私の膝の上にコトリと置いた。
冷たい結露が、作業着の布地を通して太ももに伝わってくる。
詩文は自分の三つ編みの毛先を指先で挟み、手持ち無沙汰そうに丹念に揃えていた。
夕暮れの埠頭の奥で、クレーンが最後の荷を船倉へ降ろす鈍い金属音が響いている。
「……物部さん」
「はい」
「手、見せて」
「……今日は一日中、何も文字を書いていませんよ」
「いいから、早く見せて」
詩文は私の右手を強引に引き寄せ、自らの両手で包み込んだ。
驚くほど冷たい指先だった。
だが、その冷たさの奥から、清潔な石鹸の香りと、彼女の微かな体温の甘い匂いが立ち上ってくる。
詩文は私の手のひらを上に向けて広げ、自らの細い指先で、私の皮膚の凹凸を丹念になぞり始めた。
文字の書かれていない、私の生身の手のひらを、彼女の指が読んでいる。
「……紙に書いていなくても、触れば全部分かるわ」
詩文の声が、フッと半音低く沈んだ。
「中指のペンだこの周りの皮膚が、前よりもずっと硬くなっている。あなた、仕事がなくなっても、毎晩部屋で帳面を書き続けているでしょう」
詩文の指先がピタリと止まった場所は、今朝、帳場で私が自分自身の親指で確かめたのと、まったく同じ場所だった。
「……はい。書いています」
「港の仕事が全部なくなって、誰にも読まれなくなっても……書くのをやめないでしょう」
「やめないです」
詩文は私の手をしっかりと握りしめたまま、夕暮れの海を見つめて長い沈黙に沈んだ。
言いたい言葉をあらかじめ心の中で選び抜き、その順番を慎重に推敲しているような、深い沈黙だった。
文芸誌の原稿を査読しているときの彼女の沈黙よりも、ずっと長く、重い間だった。
「……あのね」
詩文の口調から、いつもの語尾の跳ねるような軽快さが完全に消えていた。
感情を押し殺した、低く、平らな声だった。
「国家の台帳からあなたの名前が完全に消え去っても……あなたという人間は、絶対に消えないわ。——わたしが、あなたの言葉を、誰よりもちゃんと読んでいるから」
そう言い放つと同時に、詩文は私の右手をぐっと強く引き寄せた。
自らの胸元へ向けて。
引き寄せられた私の手のひらが押し当てられたのは、彼女の鎖骨よりも、ずっと下の位置だった。
作業着の胸元は、遠目にはいつも平坦に見えていた。
だが、私の手のひらの下に直接触れた感触は、決して平たくなどなかった。
掌に触れる布地は、二枚。
作業着の厚い生地と、その内側に身につけている、薄い一枚の布。
港で何万個もの荷の数を数え続けてきた私の指先が、その構造を瞬時に無意識に数え上げていた。
物体の重さや質量というものは、本来、目で見て測るものだ。
私はこれまでの人生で、視覚による計測の作法しか知らなかった。
その私の手が、視覚を一切使わずに、彼女の生々しい肉体の質量を直接受け止めていた。
私の指の付け根が、柔らかく、豊かな胸元の弾力の中へと深く沈み込んだ。
そして沈み込んだ深さのぶんだけ、内側の生身の肉が、確かな弾力をもって私の掌を押し返してきた。
二枚の布をくぐり抜けて、彼女の熱い体温が、ワンテンポ遅れて私の掌の皮膚をジリジリと焦がすように伝わってきた。
詩文の呼吸が一度だけ小さく浅く乱れ、そして再び深く戻っていく振動が、私の掌の神経を通して生々しく伝わってくる。
彼女の胸の奥で、ドクンドクンと激しく打ち鳴らされる心臓の脈拍が、私の指先に直接響いていた。
一秒。あるいは、二秒。
永遠のように引き延ばされた沈黙のあと、詩文はハッと我に返ったように私の手首を掴み、乱暴に自らの胸から引き離した。
「……っ」
彼女の唇から、滑らかな広東語の短い一言が漏れた。
意味を日本語に訳すことはしなかった。
「——ご、ごめんなさい……!」
詩文は勢いよく立ち上がり、作業着の胸元を両手でギュッと掴んだ。
前合わせのボタンを強く引き、服の下の膨らみを必死に押さえつけるようにして身なりを直した。
毎朝、彼女が人前で見せている、冷静な編集者の手つきだった。
「……そ、そこじゃないのよ!」
詩文は自らの鎖骨のすぐ上の、硬い骨のあたりを指先で二度軽く叩いてみせた。
「わたし、ここにあなたの手を当てて、心臓の音を聞かせようとしただけなんだから……!」
その訂正の言葉は、あまりにも早口だった。
あらかじめ用意されていた言い訳のように、滑らかで、そして動揺に震えていた。
「……す、すみません」
「あなたが謝ることじゃないわよ……!」
詩文は真っ赤に染まった顔を上げ、私を睨みつけるように見つめた。
そして、私が彼女の胸元を凝視していたことに気づくと、恥辱と混乱でさらに耳の裏まで真っ赤に火照らせた。
「……見ないで」
「すみません」
「……知られたくなかったのよ」
詩文の声が、消え入りそうに小さくなった。
「誰にも。……あなたにだけは、絶対に知られたくなかったの」
(——私が、自分の帳面を誰の目にも見せられないのと、まったく同じだ)
他人に触れられれば一瞬で暴かれてしまう生々しい真実を、決して他人に触れさせないことで、彼女は必死に自分を守り続けてきたのだ。
それが何のための防壁なのか、私は深く問い質さなかった。
いま訊いてしまえば、この人はすべての秘密を私に打ち明けてしまいそうだったからだ。
冷たい海風が、巨大なコンテナの隙間をヒュウと吹き抜けた。
詩文は飲み干した緑茶の紙パックを指先で丁寧に押し潰し、小さく、几帳面な四角形に畳んだ。
いつもなら、それをそのまま自分の作業着のポケットに突っ込むはずだった。
だが今夜、彼女はその四角い紙パックを、私の開かれた右の手のひらの真ん中に、そっと乗せた。
「……わたし、仕事に戻るわ。続けて夕方の残業に入るから」
詩文は踵を返し、五歩ほど早足で歩き出してから、決して振り返らずに背中で言い捨てた。
「——いまのこと、全部忘れて」
彼女の長い三つ編みが、夕暮れの風の中で一度だけ激しく跳ねた。
私の首の付け根の動脈で、トクン、トクンと激しい脈拍が数えられた。
普段なら、自分の脈の音など数えることのない私の肉体が、熱狂したように脈打っていた。
◆◆◆
その夜、アパートの四畳半に戻り、軋む机の前で帳面を開いた。
帳場の台帳から私の名前が完全に消滅したこと。
明石の家に届いた三通の公的通告と、来週の強制立入のこと。
売店で迷った末に買った、九十円の塩おにぎりのことも淡々と書き記した。
そして——。
私はそこで、一行の空白をあけた。
言葉を書き連ねることのできない、完全な空白の一行。
その空白の一行をあけたまま、私は静かに帳面を閉じた。
机の片隅に、詩文が指先で几帳面に四角く畳んだ、あのお茶の紙パックが置かれていた。
私はそれを手に取り、一度だけ、元の形に開いてみた。
だが、彼女が折ったのとまったく同じ美しさで、再び四角く畳み直すことは、どうしてもできなかった。
今夜、私のこの手が確かに握りしめたものは、この歪に開かれた紙切れ一枚の重みだけだった。




