Ⅰ.忘却と偽りの都
1.
転送陣を越えた瞬間、空気が変わった。
湿った冷気と、かすかなインクと羊皮紙の匂い。視界のすべてが、柔らかな白い霧に包まれている。
「……ここが、ルナエール……」
アクシオンが静かに呟いた。
足元には、薄く青白い光をたたえた転送陣が残滓のように浮かんでいる。その外側には、円環状に連なる高層のアーケードと、幾重にも重なる書架の群れが見えた。
都市そのものが、巨大な図書館なのだ。
高くそびえる塔は、星のように鋭角な意匠を頂き、淡い月光を反射していた。その頂上には、まるで都市の守護者であるかのように、半透明の幻影蝶がひらりひらりと漂っている。
「夢の中にいるみたいだね……」
オルディナが息を呑む。
だが、その美しさの裏側に、冷たく張りつめた違和感があった。
通りを歩く住民たちの顔に、笑みはあった。
でも、その目はどこか虚ろだった。
「妙ね……」
ロゴスが、《オラクル・アイ》で周囲を見渡しながら呟く。
「ルミナの流れが不自然。都市全体が……“記憶の靄”に包まれている」
「みんな表情は明るいのに、内に秘めるルミナはどこか冷たい……」
オルディナが紅蓮のルミナで住民の気配を探る。
アクシオンも《ルミナ・レクイエム》を発動し、瞳を細めた。
「記憶そのものを封じ、情報をねじ曲げている……そういうことかしら?」
都市の至る所に掲げられた王国の紋章。そして、女王アマリリスの肖像画。 掲げられたスローガンが、冷たい声で語りかけてくる。
──“正しき知識と忠誠を。リユニエ女王に栄光あれ”──
三姉妹の胸に、わずかな緊張が走った。
「気をつけて。ここは見た目と違って、決して“自由な知識の都”じゃないわ」
静謐な霧の中、三姉妹はゆっくりと歩き出す。
2.
オルディナは、通りを横切る婦人に声をかけた。
「こんにちは。私たち、ルナエールに久しぶりに来たんですけど、最近、何か変わったことはありましたか?例えば、精霊の放つルミナが変わったとか、王国の干渉が急にひどくなったとか?」
婦人は一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、次の瞬間、不自然なほど大きく、貼りついたような笑みを浮かべた。
その目は、笑っていなかった。
瞳の奥が虚ろで、どこか焦点が定まっていない。
「こんにちは。旅人の方たち。姉妹で旅をされているのかしら?ルナエールにようこそ。干渉が酷くなったなんて、とんでもないですわ。むしろ、アマリリス女王の叡知と勇気のおかげで、ここルナエールは以前よりずっと平和になりましたのよ。精霊のツキハネ様も、女王様を深く敬愛しておられますから、私たちは毎日、幸福と安心に包まれて暮らせておりますの」
婦人の笑顔は崩れないまま、ぴくりとも瞬きせずに続けた。
「ルナエールに来たあなたたちは幸運ですわ。この地は、リユニエ地方すべての知識が集まる場所。あなたたちの知りたいことも、きっと見つかります。それに、女王様とツキハネ様の栄光を正しく学べますのよ?」
オルディナは言葉を失った。
だが、ロゴスがすかさず口を開く。
「その知識は、どこで学べますか?」
婦人の頬が、さらに不自然に引きつった。
目だけが、ぎょろりと動いた。
「方法は二つございますのよ!ひとつは、ルナエールの中央図書館。そこには、女王様とツキハネ様の偉業を学ぶための特設コーナーが設けられていますの。読むだけで、あなたもこの地の真実に目覚めることができますわ」
「もうひとつは……おすすめですわよ。中央図書館の北側にある月華の教会。毎週土曜日、朝七時から、教祖様が女王様とツキハネ様の栄光について、とてもわかりやすく教えてくださるの。ちょうど……そう、今日は金曜日。あなたたち、なんて運がいいのかしら」
婦人は、ぴたりと動きを止めた後、まるで糸が切れた操り人形のように、ぎこちなく通りの奥へと消えていった。
通りには、同じような“幸福の仮面”を貼りつけた住民たちが、虚ろな目をこちらに向けていた。
「ビックリした~……ロゴス、ありがとね」
オルディナが肩をすくめる。
「オルディナ姉ちゃん、ああいう人、昔から苦手だよね(笑)」
「でも収穫は大きいわ。あの酔狂ぶり、完全に異常。それに原因が図書館と教会……」
「一種の強力なプロパガンダね。それも、ツキハネの力を利用して」ロゴスが頷く。
「妙なのは、あの婦人のルミナ。冷たいのに、異様に安定している……自ら異常を受け入れているようだったわ」アクシオンが目を細める。
「私もそう思う。ザンブロスの憲兵と違って、彼女のルミナ炉には黒のルミナは感じなかった。都市全体が、集団催眠のような術にかかっている可能性があるわ」ロゴスが続ける。
オルディナが、紅蓮のルミナをわずかに高め、警戒を強めた。
「巻き込まれるわけにはいかない。気を抜いたら、私たちも“幸福な狂気”の住民になっちゃう」
霧に沈む都市を、三姉妹は静かに、だが決然と歩き出した。
忘却と偽りに覆われた真実を暴くために──。




