③紫の瞳
※世界観の補足や設定まとめはnoteにあります(プロフィールから)
3.
リユニエ城の執務室でただ一人、アマリリス女王は執務椅子の背にもたれかかり、静かに目を閉じていた。
執務机の上の蝋燭が、ゆらゆらと揺れている。
灯っている炎は赤でも橙でもない。どこまでも黒い、漆のような艶を帯びた炎だった。黒い炎が揺らぐたび、窓から差し込む陽光が“そこにないはずの色”を拾って、紫の光が一瞬だけ顔を出す。
まるで、この部屋だけが昼と夜の境界を勝手に塗り替えているようだった。
カツ、カツ、カツ――
廊下をまっすぐ進む靴音が近づいてくる。
靴音は執務室の扉の前でピタリと止まり、扉の外で憲兵と低い声が交わされた。次の瞬間、コンコン、と控えめに叩く音。
アマリリスはゆっくりと目を開け、椅子に座り直す。
机に少し身を乗り出し、指を組み、来訪客を待った。
「どうぞ……」
短く答えると、扉が静かに開いた。
女王直下の親衛隊隊長――ルーガ・フェンディアスが、扉をくぐるようにして顔を出した。
漆黒の鋼の甲冑。磨き抜かれ、陽光を受けて鈍い艶を返す。腰の銀の剣は抜かれていないのに、刃の“重さ”だけが部屋の空気を硬くした。
灰色の短髪は端正に整えられ、褐色の右頬に刻まれた深い傷が、彼が見てきた戦場の数を静かに語っている。
ルーガは鋭い眼光を女王へ向け、書物の切れ端を執務机の上に置いた。
「アステリアから聖典を手に入れてきました……」
背筋を伸ばし、両手を後ろに組む。軍人の型どおりの報告だった。
アマリリスは白金の髪を片耳にかけ、机上の切れ端を一瞥して呟く。
「全部ではないのね……」
「申し訳ございません……」
その瞬間、執務室の温度がひとつ落ちた。
禍々しい黒紫のルミナが、薄い膜のように部屋を覆う。黒い炎が一層激しく燃え、パキパキと蝋を容赦なく焼き切る音が、壁に反響した。
ルーガは反射的に喉を鳴らす。だが姿勢は崩さない。崩せない。
アマリリスは椅子の背に深く身を預け、微笑んだ。
それは慰めの笑みではない。刃物がよく切れることを確かめる時の、それだった。
「謝る必要はないわ……むしろ喜んでいるのよ?」
薄桃色の瞳が、意地悪く細められる。
「元々手に入るなんて期待していなかったからね……カリンもソリアも失敗しているのに、アメリにだけ期待するのは希望的観測が過ぎるでしょ……?」
「だから……あなたを向かわせたのよ……アメリには大規模な陽動の総指揮をお願いしておきながらね。」
愉快そうな声だった。
ルーガの背筋に冷たい汗が走り、指先が僅かに震えた。女王は“以前”とは違う――そう頭で理解しているのに、身体だけがそれを認めたがらない。
「アメリ殿は立派にお役目を果たされました……自らの器の限界を越える黒竜の猛攻により、アステリアを壊滅的状況に陥れましたから……」
ルーガは軍人らしく淡々と述べた。感情を語る余地を、自分の声から削ぎ落とす。
「彼女の猛攻により生じた混乱により、我々近衛小隊は翼兵を装い、容易にアステリア城へ潜入することに成功しました……まさか城までアメリ殿の放った光線が届くとは思いにもよりませんでしたがね……」
溜め息ひとつ。そこにだけ疲労が滲む。
「ふふ……アメリったら無茶したのね……何がそこまで彼女を熱くさせたのかしらね?やっぱり……アクシオンがいたから?」
アマリリスは口許に手を置き、優雅に笑った。
ルーガは一瞬、見とれてしまいそうになる。妖艶さと残酷さが、同じ呼吸で並んでいる。その往復が人を惑わせることを、彼は知っている。知っているのに、目が逸らせない。
「……同感です。アクシオン殿は黒竜化したアメリ殿を退けたようですがね……」
「へぇ……ってことは本来の《ルミナ・レクイエム》の力を取り戻したわけね……」
どこか他人事の声音が混じる。
「左様かと……」
「それで……城に潜入したあなたたちはどうしたの?」
関心の糸がぷつりと切れ、話題が次へ移る。
「潜入した私たちは真っ先に聖典が管理されている祭壇に突入しました。アメリ殿の攻撃で司祭――聖典の管理者だったと思われます――が聖典を片手に避難しようとしたところを、容赦なく斬りつけました。」
ルーガは淡々と報告する。淡々としなければ、喉の奥が詰まる。
「彼はどんなに斬りつけられても、聖典を持つ手を離さなかった……最期まで、何かを祈るような表情で。やがて出血量が致命的量に達し、彼は絶命しますが……聖典を握る手の力は、我々も驚かせるほど、びくともしなかったのです……」
アマリリスは目を細め、物語を聞くように頷いた。事実だけでは足りないのだ。当事者が何を見て、何を感じ、どう判断したのか――その“味”を欲しがっている。
「……その司祭の冥福をお祈りするわ……」
アマリリスは机に置いた手を、祈りの形に組む。
指先は美しいほど静かで、そこに慈悲の熱はなかった。
「……はい……ただ、困った我々は聖典を死体ごと回収することも考えました。しかし混乱の最中、それは人目につくと判断した。その葛藤の最中、アステリア城……いえ、アステリア中に喝采が響いたのです。我々はアメリ殿が敗北したと悟りました。」
一刻を争う。判断は残酷だが、軍事はそれを要求する。
「我々は苦渋の末、司祭の片腕ごと聖典の一部を奪取し、アステリアから引き上げました。これが潜入任務の一部始終です。」
「……ごくろうだったわ……ルーガ隊長……あなたの任務報告、とっても胸が踊るようで、楽しく聴かせてもらったわ……」
薄桃色の瞳がキラキラと輝く。
その瞬間、ルーガの視界の端で、女王の片目が薄桃ではなく“紫”に変色しているのが見えた。
――影の同化が進んでいる。
背筋が冷えるはずなのに、彼の指先の震えは止まっていた。怖さと魅了が、同じ場所に沈んでいる。
これは――もう、自分が仕えてきた女王ではない。
それでも、彼は命令に従う。軍人として。
それしか、できない。
「勿体ないお言葉……痛み入ります。」
ルーガは深く頭を下げる。
「あなたが手に入れた聖典……実は一番重要なところだったのよ?幸運だったわね。」
アマリリスはけたけたと笑い、司祭の血でべっとりと赤く染まった裏表紙を開いた。
乾きかけた血が、紙の繊維にしつこく絡みついている。
「え?どういう意味です?」
「何も書かれていないように見受けられますが?」
ルーガが覗き込むと、頁は確かに空白だった。
「そう……通常の目では見えないのよ……でも……私のこの目なら見えるの……」
アマリリスは紫の瞳をぐい、とこちらへ向けた。
瞳の外縁に螺旋の紋様が浮かび上がる。
――《ルミナ・レクイエム》。
ルーガの胸の奥が、ぎくりと鳴った。
この紋様を、彼は知っている。
譜面の戦場で見たばかりだ。
雷槍の前に立ちはだかった統合の巫女――
アクシオンの放った光と同じだ。
ルミナ・レクイエムの発動に呼応するように、空白の頁が一瞬だけ紫紺のルミナをまとい、ぶるりと震えた。
次の瞬間、何もないはずの紙面に“文字の影”が浮かぶ。
「螺旋の瞳を持つ者のみにしか読めない仕様になっているのですね。」
ルーガは静かに呟いた。
「そういうこと……ツクヨ様も面倒なことをしてくれたもんだわ……」
アマリリスはどこか遠くを見るように言う。
「螺旋の瞳で読める空白の頁には何が記されているのです?」
紫の瞳孔が鋭く光った。
「神器ユニエ・アークの解術呪文よ」
他人事のような声。
その軽さが、ルーガの背骨を凍らせた。
「え?……」
「何をそんなに驚いているの?ルーガ?」
不気味な笑み。
「神器を解放されるのですか……」
震える声が、自分のものだと気づくのに遅れた。
「当然よ……何のために中央政権に移行したと思っているのよ……ちゃんとあなたには話していなかったわね……ごめんなさいね」
思い出したように言い、女王は指先で頁をなぞる。
「リユニエの創造神のことはご存知?それに、光の使者や……あのお方である影の使者のことも?」
「一通りは……城に保管されている歴史書や神話物語は目を通しています。」
「そう……なら……あのお方が数百年前にリユニエに顕現し、この世界を一つに再統合されようとしたことは?」
「それは……初耳です……っっ!」
ルーガは息を呑む。
そして、点と点が線になる。
「まさか、神器というのは……あのお方を封印している装置なのですか?」
「ご名答……さすが、察しがいいわね……」
「女王様はあのお方が成せなかったことを、なさろうとしているのですね……」
「理解が早くて助かるわ……その通りよ……」
アマリリスは愉しそうに言った。
「七ヶ月前の夜、あの忌々しい光の三姉妹から三大精霊ごとルミナを吸収したお陰で、封印は弱まっている。全ての精霊の力を吸収には至っていないけど、これと“私”……それに……あの人の“血”があれば、十分よ……」
「血……ですか……」
「心配は無用よ……最後のピースはあちらから来てくれるから……」
アマリリスは答えを明かさない。
だが、その微笑みは全てを知っている顔だった。
女王は背後の大きな窓へ視線を向けた。
夕暮れの空が、薄赤く滲んでいる。雲が流れているだけなのに、どこか不吉だった。
「ルーガ……」
ゆっくりと、紫紺と薄桃の眼差しが隊長に戻る。
「三姉妹がここに来るわよ……」
ルーガは目を見開いた。
「それは本当ですか……」
アマリリスは、ゆっくりと頷いた。
「私は今から儀式の“準備”に取りかかるわ……」
そして、女王は一切の迷いなく命じる。
声の温度が消える。
「これがあなたへの最後の勅命になるわね……封印の間を中心に守りを固めなさい。三姉妹は発見次第、即刻抹殺……以上」
「……承知しました……」
ルーガは深くお辞儀をし、踵を返して執務室を出た。
廊下を駆ける靴音が遠のく。
扉が閉まると、執務室には再び黒い炎のぱちぱちという音だけが残った。
アマリリスは机上の聖典の切れ端に指を置いたまま、夕暮れの空を見つめていた。
薄桃の瞳と紫の瞳が、同じ景色を見ているはずなのに、見ている“未来”だけが違っていた。
――つづく
ここまで読んでいただきありがとうございます✨
ブックマークで追ってもらえると励みになります!




