⑥歌が装置になる日
※世界観の補足や設定まとめはnoteにあります(プロフィールから)
6.
典礼院には、張り詰めた空気が満ちていた。
蝋燭の紫色の炎が揺れるたび、壁に並ぶ書棚の影が、わずかに呼吸しているように見える。
「読めるところまで、読まないといけないと言ったわね?」
アクシオンは目を細め、司祭の腕に抱えられた聖典を見た。
その革表紙は古い。けれど、擦り切れた箇所だけが不自然に新しく、誰かがそこばかりを何度も撫でた痕に見えた。
「左様でございます。」
司祭は、祈りの余韻をまだ喉に残したまま答えた。
「あなたがツクヨ様の後継者であるのならば……大賢者様方が残された“真の意味”を、その身に宿すこともまた運命なのでしょう」
運命――。
その言葉が、やけに重い。
“運命”という便利な鎖で、誰かを縛る響きがした。
司祭は聖典を大事そうに差し出した。
アクシオンは、しばらく受け取らずに見つめ返した。
触れれば、何かが変わる気がしたからだ。
それでも――
今は、見なければならない。
アクシオンは意を決して聖典を受け取り、頁を開いた。
紙の匂いが、甘くも苦い。まるで乾いた花を噛んだときのようだった。
「――『一つの舌』」
彼女は声に出して読んだ。
声が祭壇の上で薄く跳ね、紫色の炎に吸われて消える。
はじめ、世界の舌は一つであった。
名づけは一つであり、誓いは一つであり、交易の道も一つであった。
ゆえに、人は争いを知らず、道は迷いを知らなかった。
だが一つの舌は、刃にもなる。
舌が一つであるとき、異なる痛みは言葉を失う。
「……これを書いたのは、アウリアかな」
アクシオンは首を傾げた。
文字は整いすぎている。祈りのための文章というより、“統治”のために研がれた文章だ。
「左様です……」
司祭は短く頷いた。頷き方も、祈りの一部みたいに迷いがない。
「アウリアって、純光ルミナの始祖といったわね……彼女の祖先はいるの?」
「何をおっしゃいますか……アクシオン殿」
司祭は驚いた顔をした。だが、それも一瞬で、すぐに静かな顔に戻った。
「ご存命ですよ……それも、あなたのよく知っているお方です」
「私が……よく知ってる……?」
アクシオンの喉が、かすかに鳴った。
脳が拒むみたいに、その名前の輪郭だけが滑る。
“知っているはず”なのに、触れようとすると指先から落ちる。
けれど、ひとつだけ――
当てはまる。
「……アマリリスね」
呟いた瞬間、口の奥に鉄の味が滲んだ。
血が出たわけじゃない。
なのに、確かに――鉄の味が濃くなる。
その感覚が気持ち悪くて、アクシオンは唇の裏をそっと噛んだ。
「左様でございます。」
司祭は静かに言った。
「彼女こそ、アウリア様の後継者にあたる」
「こんな重要なこと……どこまで公にされているの?」
「聖典の存在を知る者は、知っている……。だから、あなた方三姉妹がご存知ないのも無理はありません」
司祭は、言い訳のように言った。
「この系譜は……聖典以外で語られることはありませんから」
「……そう」
それ以上、言葉が続かなかった。
純光ルミナの後継者が、いま影のものに囁かれている。
偶然で済むはずがない――。
アクシオンの背筋を、冷たいものが這った。
彼女は次の頁を開いた。
紙が擦れる音が、やけに大きい。
「――『名を奪う歌』」
歌は名を結ぶ。名は契約を結ぶ。
だが歌が“命令”になったとき、名は鎖になる。
歌姫の声が民を導くなら、それは祈りである。
歌姫の声が民を縛るなら、それは装置である。
ゆえに歌は、王の手に置くべからず。
――置くなら、誓いを添えよ。
「……これが、エリシアを縛る理由ね」
声が掠れた。
“歌”が祈りであるうちはいい。
でも“命令”になった瞬間、歌は民のためではなく、王のための刃になる。
名を結ぶはずの歌が、名を奪う――。
姫の名が、姫のままでいられなくなる。
「エリシア姫には、ご苦労をかけていると存じます……」
司祭は苦悶の表情を浮かべた。苦しんでいるのは本当なのだろう。
ただ、その苦しみを、聖典の前で“処理”してしまっている。
「しかし、アステリアの安定と祝福のためには……エリシア様には歌姫として、民をお導き頂く必要がある」
「だからといって、エリシアに発言権も何も与えないのは違うんじゃない?」
アクシオンは、怒りを抑えるように言った。
怒鳴れば簡単だ。だが怒鳴っても、この仕組みは動かない。
司祭は一拍置き、淀みなく答えた。
「わかっています……彼女も王家の身。本来であれば行政権が発生する。ですが、聖典には歌は王の手に置くべからず、とあります」
「……王単独の独裁制を否定してるってこと?」
「左様です。王が歌を握れば、民の“名”が王に握られる。ゆえに、姫を“象徴”として置く。……残酷ですが、これがこの国の均衡です」
均衡。
その言葉の優しさが、逆に怖い。
均衡のためなら、誰かの人生は軽くなる。
アクシオンは聖典に視線を戻した。
頁を繰る。文字を追う。
読むほどに、胸の奥がざわついていく。
そして――ある断簡で、指が止まった。
「――『報復の白さ』」
防衛の名で剣を抜くことがある。
その白さは、最初は雪のように見える。
だが剣が歌を吸うとき、白は黄金に輝く。
黄金を纏う天雷は、正義を勝ち取る開戦の合図となろう。
正義とは、剣を抜く前に最後に問う問いである。
「その剣は、誰の痛みを救うのか」
天と地の衝突が厄災の引き金になろうとも。
防衛。正義。開戦。厄災。
文字を追うたび、鉄の味が濃くなる。
さっきの黒紫の光線の音が、耳の奥で蘇った気がした。
「司祭……この断簡……今のアステリアが置かれた状況を表していると思わない?」
司祭は虚を突かれた顔をした。
だが次の瞬間には、また“祈りの顔”に戻る。
「なぜ、そう思われるのです?」
「防衛という言葉……。アステリアがあの交易路沿いの兵器を迎撃すれば、それは両国の“正義”を勝ち取るための宣戦布告になる……そう捉えられないかしら?」
アクシオンは自分の言葉に、自分でぞっとした。
大昔から――この状況を予測していた?
それとも、予言がこの国を、その通りに動かしてきた?
「天と地……アステリアとリユニエ王国を指しているとも解釈できますな」
司祭は肩をすくめた。
軽い仕草なのに、言葉は重い。
「やっぱり……迎撃するのは、ダメね。最悪なことになる」
アクシオンは息を吐いた。吐いたはずなのに、胸の奥が軽くならない。
「アクシオン殿……お気持ちはわかります」
司祭は、申し訳なさそうに言った。
だが、その声音はどこか平坦だった。痛みを知っているのに、なお聖典に従う声を纏っていた。
「……よもや、衝突は避けられないかもしれません」
「どうして?」
「この断簡が存在する以上……私は、この言葉を王に伝える義務がある」
司祭は淡々と言った。
淡々としているからこそ、怖い。
「王はこう言うでしょう。“聖典で預言されているのなら、開戦は当然の帰結だ”と」
「そんな……」
呆れが先に出た。
怒りよりも、寒気が勝った。
「異常な判断だと、あなたは思わないの?」
司祭は、ほんのわずか目を伏せた。
祈りのように、言葉を選ぶ。
「異常ではありません。……王は、聖典の教えに従ってこの地を統治している。聖典が衝突を示すなら、王はそれを“受け入れる”」
「たとえ、多くの民が犠牲になるとしても……です」
その一言で、典礼院の紫色の炎が、少しだけ暗く見えた。
「……狂ってるわ」
アクシオンは吐き捨てるように言った。
吐き捨てたのに、口の中の鉄の味は消えない。
司祭は祭壇の方へ視線を向けた。
そして、典礼院の奥にはめ込まれた窓――
空の方向へ、目を細める。
「こちらからの迎撃には……“姫”の力を利用するでしょう」
「……あ」
アクシオンの心臓が、嫌な跳ね方をした。
断簡の一節が、刃のように浮かび上がる。
――剣が歌を吸うとき。
「司祭……アステリアの迎撃システムって、何なの?」
司祭は首を横に振った。
「詳しいことは……マーラ師団長にお尋ねください。私が知っているのは……発動条件に、エリシア姫の歌が必要であることだけです」
「そんな……」
アクシオンは聖典を握る手に力を込めた。
ページの端が、くしゃりと歪む。
エリシアの歌が引き金になる。
歌が祈りではなく、装置になる。
それが“防衛”の名で行われるなら――
どれほど白く見えても、その先は黄金の開戦だ。
そのとき、回廊の向こうから、透き通った歌声が聞こえた。
城のどこかで、エリシアが歌っている。
いつもの、民のための歌。
優しいのに、今は胸を締め付ける。
アクシオンは目を閉じた。
鉄の味が、喉の奥まで満ちてくる。
間に合わない――
そう思った瞬間、歌声が、ほんのわずか――
“鍵”の音に聞こえた気がした。
アクシオンは聖典を抱きしめるように胸に押し当て、ゆっくり息を吸った。
息を吸うたび、決意が固まる。
そして同時に、恐怖もまた固まっていく。
――この歌を、引き金にさせない。
絶対に。
――つづく
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