⑤月詠聖典
※世界観の補足や設定まとめはnoteにあります(プロフィールから)
5.
謁見の間を後にしたアクシオンは、エリシアが教えてくれた"王らが口にする言葉"が、どうしても頭から離れなかった。
――"聖典の教えに照らせば、今は静観が最善だ"
聖典。
その二文字が、額の内側を小石で叩いたみたいに波紋を広げる。
知っているようで、知らない。
いや――知っている"はず"なのに、触れようとすると、指先から滑って落ちる。
アクシオンは回廊を歩きながら、何度もその感覚を確かめようとした。
だが、ダメだ。
思い出せない。
思考を深めようとすると、滑る……。
それなのに、胸の奥だけが妙にざわつく。
今後を左右するのは、剣でも槍でもなく、あの"書"なのだと――
直感だけが、確信に近い硬さで残っていた。
アステリア城の回廊には、不気味なくらい静謐な空気が漂っている。
意味ルミナに温かく包み込まれているはずなのに、どこか、おかしい。
嵐の前の静けさ、という言葉が、あまりにもぴったりだった。
口の奥に、まだ鉄の味が残っている。
雲の海で《律巫顕現》を無理に引き上げた代償だ。飲み込んでも、薄まらない。
それが――
歩くほどに、少しずつ濃くなっていく気がした。
アクシオンの足は、自然とある機関へ向かっていた。
理由はうまく説明できない。
ただ、身体の方が先に知っているみたいに、迷いなくそこへ運ばれていった。
金の蔦飾りに紫と桃色の宝石が散りばめられた、厳かな石畳の扉。
扉には、薄く機関の名が刻まれている。
――典礼院。
「あの"聖典"が保管されているとしたら……ここよね」
アクシオンは小さく苦笑した。
笑って誤魔化さないと、ここに立っているだけで背筋が粟立ちそうだったからだ。
扉を数回ノックする。
「……はい、どうぞ」
返ってきた声は乾いていた。
温度がないわけじゃない。むしろ逆だ。温度が"閉じ込められている"ような声だった。
アクシオンは取っ手に手をかけ、ゆっくりと扉を押した。
重たい扉が鈍い音をたてて動く。
その瞬間、鉄の味がまた濃くなった。
典礼院の部屋には壁一面に書棚が設けられていた。
リユニエ各地の文化、歴史、宗教――
それらを記した書が隙間なく並ぶ。
書棚が部屋を囲むように立ち、中央には大きな祭壇が置かれている。
祭壇の上には蝋燭が三本。
一本の大きな蝋燭を支えるように、左右に小さな蝋燭が二本添えられている。
左右の二本には紫色の炎。意味ルミナを象徴する色だ。
中央の一本には、目をつむりたくなるほど眩しい黄金の炎が灯っていた。
確固な意志を感じる。
――アステリアこそ、リユニエを治める。
そう主張しているかのように。
祭壇の前に、ひとりの男がいた。
司祭服の裾を整え、目を閉じ、静かに何かを呟いている。
アクシオンはしばらくその光景を眺めた。
長い時間が流れたように感じる。
言葉を挟めば、何かが壊れそうだった。
祈りを終えると、男はゆっくり立ち上がり、こちらに向き直った。
「これはこれは……アクシオン殿。このような場所へ足をお運びいただけるとは、珍しいことでございますね」
穏やかな言い方なのに、部屋の空気が一段締まった。
「ええ……たまたま通りかかったら、妙に気になってしまって」
アクシオンは、理由をそのまま口にした。
飾れば飾るほど、ここでは逆に嘘っぽくなる気がした。
「ほぉ……そうでございますか」
男は顎をさすりながら言う。
「もしかすると、あなた様も"聖典"にお呼ばれになられたのかもしれませんね……」
「やっぱり……ここにあるのね、聖典が」
アクシオンは辺りを見回した。
「はい、左様でございます。この典礼院では、アステリアをお導きになる聖典を管理させていただいております」
男はゆっくり続ける。
「そして私は、その聖典を読み、解き明かし、王へお言葉としてお渡しする役目を担わせていただいております」
なるほど。
司祭が聖典を読み、解釈し、王へ"教え"として届ける。
その言葉が政策になり、民を導き、縛る。
――この男の口が、王政の舵輪だ。
アクシオンの背中に冷たい汗が流れた。
王を操ることも、民を操ることも、理屈の上ではいくらでもできる。
「……聖典を持つ者が、この地を導いているのね」
思わず漏れた呟きに、司祭は小さく笑った。
否定しない笑いだった。
ふと男の腕を見ると、古びた書物を大事そうに抱えている。
表紙は擦れ、角は丸く、使い込まれている。
「それが……聖典なの?」
アクシオンが視線を向けると、司祭は一瞬だけ指先を強く握った。
"触れられたくない"癖が、ほんの少しだけ滲む。
「左様でございます」
「見せていただけるかしら」
短い言葉だった。
頼みというより、確認に近い声音だった。
だが司祭は首を横に振った。
「……誠に申し訳ございません。許可なくお触れいただくことは、できかねます」
「王の許可が必要だということ?」
「王ですら、全文にはお触れになりません」
司祭は淡々と言った。
「聖典は……読む者の"解釈"を試すのです。心揺らぐ者が出てしまう。ですから、お守りしなければならないのです」
守る――誰を?
民を?
王を?
それとも、"聖典そのもの"を?
アクシオンは息を呑んだ。
拒否されたことで、逆に確信が強くなる。
「……それでも、私は見る必要があるの」
「その理由をお聞かせ願えますか」
司祭の声が少しだけ硬くなる。
アクシオンは一瞬、言葉を探した。
政治の話をすれば、ここでも利用される。
戦争の話をすれば、ここでも結論が先に決まる。
だから――
本音を一つだけ置いた。
「"静観が最善"だなんて、いったい誰が決めたの?」
司祭の眉がわずかに動いた。
「それは……聖典の教えでございます」
「その教えを……あなたが"そう読んだ"だけじゃないの?」
アクシオンは静かに言った。
責める声ではない。
ただ、問いだった。
沈黙。
祭壇の黄金の炎が、ほんの一瞬だけ強く揺れた。
紫の炎もそれに遅れて揺れる。
まるで部屋が、会話を聞いているみたいに。
司祭は、視線をアクシオンの瞳へ向けた。
その瞬間、アクシオンの中で意味ルミナが微かにざらついた。
――ルミナ・レクイエム
意識していないのに、紫紺の奥が開きかける。
視界の縁に、螺旋の気配が滲む。
司祭の顔色が変わった。
「……まさか、そのようなことが」
司祭は、祭壇の前まで戻り、聖典を両手で抱え直した。
抱える手が、祈る手つきに変わる。
「あなた様は……」
声が震えていた。恐怖ではない。
畏れだ。
「……あなた様は、ツクヨ様の……」
アクシオンの口の奥で鉄の味が弾けた。
同時に、どこか遠い場所で鍵が回る音がした気がした。
「ツクヨの……後継ってこと?」
アクシオンは紫紺の目を手のひらで隠しながら、問い返すと、司祭は深く頷いた。
「大変失礼いたしました……あなた様をお拒みする理由など、ございません」
先ほどまでの硬さが、嘘みたいにほどける。
それでも司祭は、軽々しくは扱わない。
「月詠聖典――我らが仰ぎ奉るアウリア様とツクヨ様がお残しくださった、尊き書でございます」
「……アウリア?」
その名が引っかかった。
司祭が目を細める。
「……ご存じありませんか。あなた様ほどのお方が」
「ごめんなさい」
アクシオンは苦笑した。
「神器暴走の夜より前のことは、記憶が途切れ途切れなの。思い出そうとしても……滑るように消えてしまって」
司祭の表情が少しだけ曇る。
「……それは、あの夜の出来事と関係が……」
「たぶんそうね。だからお願い、アウリアのこと、教えてくれないかしら?」
懇願というより、真剣だった。
ここで逃せば、また"滑って"失う気がした。
司祭は少し考え込み、やがて、ゆっくり口を開いた。
「我らがお仕えする神――シン・ルミナのことは、ご存知でいらっしゃいますね?」
「ええ……リユニエの始まりよね」
「左様でございます」
司祭は近くのソファへ手で促した。
アクシオンが腰を下ろすと、司祭も向かいに座る。
距離が近くなったのに、空気はむしろ重くなる。
「聖典の創世記に描かれております。遥か遠い昔、シン・ルミナはこの空間も概念も何もなかった地に顕現なさいました。豊穣なる大地と、慈しみ深き母なる海を創造されたのです」
司祭の声は淡い。
淡いのに、逃げ道がない。
「やがて神はお気づきになられました。神は"一者"であるがゆえに、世界にそのままではお住まいになれぬと。それゆえ――二人の使者をお創りになられたのです」
司祭は一拍置く。
その間に、紫の炎がふっと揺れた。
「光の使者には、"分け与える"性質をお授けになりました。世界を成立させるために。影の使者には、"抱え込む"性質をお授けになりました。こぼれ落ちた痛みを受け持たせるために」
影――。
その言葉がアクシオンの胸に沈んだ。
雲の海で見た黒紫の網目。
女王に囁く"影のもの"。
点と点が、線で結ばれはじめる感覚。
アクシオンは無意識に手を握った。
爪が掌に食い込む。
痛みがないと、浮いてしまいそうだった。
「光の使者は役割を見事にお全うになられました。この地にお生まれになった人々は、彼の御手から異なるルミナを分け与えられ、それぞれに文明をお築きになっていかれたのです」
生命、論理、意味。
それは理解できる。
理解できるのに、なぜ今まで"アウリア"だけが抜け落ちていたのか。
「文明は発展し、光ルミナは増幅していきました。やがてその増幅したルミナを調整なさるために、象徴となる精霊と、エネルギーを調整する個体をお生み出しになられたのです」
三大精霊。古代大賢者。
その名が脳裏に並ぶ。
だが司祭の声は、そこを通り過ぎる。
「光のルミナによって発展した文明は、精霊と大賢者様のお陰で安寧に包まれました。永遠にも思える、祝福に満ちた時代でございました」
「そして――光の使者はご自身の死期をお悟りになられました」
司祭が、ほんの少しだけ言い淀んだ。
それは禁句に触れるような間のようだった。
「ご自身のお体に残されておりました光の残滓をお使いになられて、新たなる個体をお生み出しになったのでございます。」
司祭はアクシオンを見た。
まるで、答え合わせをするように。
「そのお方こそ……純光ルミナの始祖にして、我らが仰ぐべき御方――アウリア様でいらっしゃいます」
「……純光ルミナ……」
アクシオンの口から、その言葉が零れた。
言葉にした瞬間、祭壇の黄金の炎が、ほんの一瞬だけ黒紫に縁取られた気がした。
見間違いかもしれない。
だが、口の奥の鉄の味が、確かに濃くなる。
アクシオンは瞬きをした。
視界の縁に、螺旋が滲む。
――思い出せ。
――思い出すな。
二つの声が同時に囁いた気がして、背筋が冷たくなった。
「……司祭」
アクシオンは乾いた声で呼んだ。
「その聖典……私は、どこまで読むことが許されるの?」
司祭は答えなかった。
ただ、聖典を抱える腕に力を込めた。
そして、静かに言った。
「読めるところまで、お読みにならねばなりません」
まるで、祈りの続きみたいに。
アクシオンは唇を噛んだ。
血の味が、鉄の味に混じった。
――つづく
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