Ⅵ.灰の渓谷の誓い
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「……これ以上、放ってはおけない」
アクシオンが静かに、だが確かに一歩を踏み出す。
「ロゴス、今の状態──まだ、助けられる?」
「……難しい。でも、不可能じゃない」
ラオが拳を握る。「あたしが説得する。命を救われた恩、あたしが返す番だよ。大ババ様の言ってた“命の記憶”──それを、投げかけてみる」
「わかった。私とロゴスで前線を制圧する。オルディナ、ラオのそばを離れずに」
その時──
黒紫に染まったイグニファが、咆哮と共に灼熱を吐き出す。螺旋状にねじれた《邪炎》が渓谷を焼き尽くそうと襲いかかる。
「《水環ノ舞》!」
アクシオンの詠唱に応じ、地からあふれ出した水が大河のようにうねり、三姉妹の前に幾重もの《水の壁》を成す。
「《凍結方陣》!」
ロゴスの声が響き、水は一瞬で凍てつき、巨大な氷壁となる。黒紫の炎は氷壁にぶつかり、力を削がれて霧散していく。
だが──
「ひびが……!」
ロゴスが叫ぶ間もなく、氷壁が砕け散る。咆哮とともに、イグニファが突進してきた。
「……間一髪ね」
オルディナがラオをかばい、跳躍する。
「これじゃ、近づけない」
「ロゴス、昨夜の憲兵と同じく、“分霊”がイグニファの炉に憑いてるのね?」
「高確率で断言できるわ。ルミナ炉の核を占拠している。影の者の──分霊」
「あなたの《オラクル・アイ》で、分霊だけ切り離せる?」
「無理……今の私の眼では、準大精霊に取り憑く量の邪悪なルミナは重すぎる……」
「宿主の体力と精神力を消費してるなら、消耗戦に持ち込めばイグニファが危ない……」
「……時間がない。いくわよ、オルディナ!」
「了解!」
オルディナの身体に、紅蓮のルミナが宿る。
「《紅蓮拳》っ!」
炎を纏った拳が渓谷を焦がす。だがイグニファはその巨体からは想像もつかぬ俊敏さで回避、逆に反撃の体勢に──
「《ルミナ・レクイエム》!」
アクシオンの《螺旋瞳》が閃光を放ち、イグニファの動きを鈍らせる。その隙に──
「すきありっ!」
オルディナがもう一撃、《紅蓮拳》を叩き込む。
「ラオ、今だ!!」
ラオが静かに胸に手を当てる。
「──この火は、命を護るためにある。あたしは、そう信じてる。イグニファ……あんたがあの時、あたしを助けたように。今度は、あたしがあんたを助ける番だよ。……一緒に、帰ろう?」
その時。
ラオの身体から、かつて見たことのない紅蓮色のルミナが溢れ出し、優しくイグニファを包み込む。
「ぐぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
悲鳴とも、祈りともつかぬ声。
それは──女神が、傷ついた精霊を癒すような光景だった。
「……邪悪なルミナが、消えていく……!」
ロゴスの《オラクル・アイ》には、闇を形作っていた瘴気が、霧のように霧散し、分霊が空へと還っていく様が映っていた。
イグニファの瞳に、涙が宿る。
「……命を……護る……そうだった……あの日……あの誓い……!」
光が渓谷を満たす。
裂けた雲の合間から、太陽が微笑むように差し込み、一行を祝福するように照らし始めた。
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「オルディナよ──そして、ラオよ。迷惑をかけたな。すまない……」
イグニファが静かに頭を垂れた。
「いいってことよ!あなたが戻ってきてくれたんだから、それだけで十分さ!」
ラオが笑顔で胸を張ると、イグニファの目に、微かな安堵の火が灯った。
「……ありがとう。では改めて、オルディナよ。おぬしと再び──契約の儀にまいろうぞ」
「──ああ、そのことなんだけどさ」
オルディナが悪戯っぽく目を細める。
「あなたと契約するのは、ラオだよ?」
「──へ?」
突然、自分の名が告げられ、ラオは言葉を失った。
「ちょ、ちょっと待ってよ!? オル姐!あたしが準大精霊と契約なんて、そんな器じゃ……」
「ううん、ラオ。あなたはまだ気づいていない。でも、今回イグニファを救ったのは、紛れもなくあなたの“命のルミナ”だった。私と同じ──紅蓮色の輝きだったじゃない?」
「え、そ、そんな……? ……でも……うん……」
ラオは胸に手を当てる。
「なんだか、内側にあるルミナが前よりもあったかくて……どこか、命の芯から光が湧いてくるような……そんな気がする……」
「それこそが──《紅蓮色のルミナ》、命を護る者の証なのだ」
イグニファが深く頷いた。
「わらわを闇より救い出した、その火こそ、お主のものであったのだな。ならば、契るにふさわしい」
「アク姉、ロゴス……それでいい?」
オルディナの問いに、二人の姉妹はただ静かに──しかし力強く頷いた。
「──決まりだね。あとは……あなたの意志だけだよ、ラオ」
しばしの沈黙のあと──
「……わかったよ。オルディナ姐さん」
ラオは一歩進み、そして跪いた。
「精霊イグニファ。このラオ、あなたと契約し、共にザンブロスを護る《炎の環の守護者》として、オルディナ様を支持し、命のために尽くすことをここに誓います。」
「そなたの誓い、しかと聞き届けた。」
イグニファの体内から、温かな紅蓮の炎が静かに流れ出す。それは、ひとすじの命の灯のように、ラオの胸元へと吸い込まれていった。
その瞬間、胸に秘めたルミナが共鳴し、まるで内奥に埋められていた"スピネル"の結晶が、目覚めるかのように輝きを放つ。
紅蓮の光が彼女の全身を包み込み、新たなる紋章が浮かび上がる──それは《炎の環》を象る、守護の印。
「……これでようやく、一つの“問い”に答えられた気がする」
ロゴスが呟く。
「問いは……繋がっていくのよ」
つづく──




