表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三姉妹とリユニエの星環  作者: ケミパパ
第5章 優しい喉

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

56/94

⑧丁寧に—事件にならない悪意

※世界観の補足や設定まとめはnoteにあります(プロフィールから)

8.


暗い通路は、音を吸っていた。


高架の裏側はいつも湿っているはずなのに、今日の湿り気は妙に“整って”いる。生温い。均一。ばらつきがない。だからこそ、違和感だけが浮く。


カゲツは足を止めず、ポケットの奥でピンの冷たさを確かめた。


軽い。軽すぎる。


こんなものが、街の影を増やす。


通路の奥へ入った瞬間、さっきより人が少ないのに、呼吸が増えた気がした。


呼吸の数じゃない。


呼吸の“温度”だ。


——何かが、皆の奥に火種を落としている。


視線の端で男と女の肩が軽くぶつかった。


ぶつかった男が、笑いながら女の腕を掴む。


「痛い、って。わざとぶつかったでしょ?」


冗談みたいな声。


でも指が、冗談の圧じゃない。


女は笑っている。笑っているのに目が動かない。目は相手じゃなく、どこか遠くの“合図”を待っている。


男の口角が上がる。


「なんでそんな大げさにするの?」


大げさ。


痛いのに。


怖いのに。


その“当然の反応”を、先に否定する言葉が出る。


——影だ。


カゲツが一歩だけ寄ろうとした瞬間、壁面スクリーンが淡々と点いた。


《街は安定しています》

《落ち着いて行動してください》


文字が、やさしい圧になる。


疑問を飲み込ませる“麻酔”だ。


麻酔が回った瞬間、女の肩から力が抜けた。男も腕を放す。放したことに、驚きも後悔もない。


二人は笑い合い、何もなかった顔で別方向へ散った。


——“事件”にならない。


なる前に、均される。


なのに、皮膚の奥だけがひりつく。


均されるたびに、影だけが薄く増えていく。


秩序係数は、微動だにしない。


『……そういう実験か』


喉の奥で、猿精霊の声が冷えた。


「シエン。アンタもそう見える?」


『ああ……住民に影響が出始めている』


震える声。だが、理由は言えない。言えないこと自体が、答えだ。


通路の角に、小さな売店があった。


透明ケースに並ぶ雑貨。笑顔の店員。整いすぎた笑顔。


子どもが一人、立ち止まり、ガムの箱を見つめている。


母親は端末を見ていて気づかない。


子どもは箱に手を伸ばす。


伸ばして——止まるはずなのに、止まらない。


指が箱を掴む。


掴んだ瞬間、子どもの顔がふっと柔らかくなる。


“やっていい”という顔。


カゲツは目を細めた。


子どもの目線が、商品でも母親でもない。


壁面のどこか。光膜の“縫い目”を、一瞬だけ見た。


——合図だ。


店員は見ていない。見ていないのに、笑みだけが崩れない。崩す必要がない。


子どもはガムをポケットへ入れ、歩き出す。


母親は子どもの頭を撫でて、気づかないまま通り過ぎる。


その直後、スクリーンが点く。


《街は安定しています》

《丁寧に》


丁寧に。


丁寧に盗め。


丁寧に傷つけろ。


丁寧に、事件にならない範囲で。


——吐き気がした。


カゲツは柱の陰へ回り、光膜の端を覗く。


そこに、また銀色の点がある。ピン。


同じ材質。同じ挟み方。


ただし今度は、半月の刻印が表に出ていない。


隠している。


見せるときと、見せないときがある。


「……見せびらかす時期を選んでるわね」


背後でアレキサンドライトの光が揺れた。シエンが無言で同意したようだった。


そのとき、通路の奥から怒鳴り声が飛んだ。


「おい、どこ見て歩いてんだよ」


若い男が、年配の男に詰め寄っている。


年配の男は困っているのに、謝らない。謝れない。言葉が詰まっている。


詰まっているのに、笑みだけが出る。整いすぎた笑み。


若い男が一歩踏み込む。


拳が上がりかけ——


《落ち着いて》


スクリーン。天井のスピーカー。どこからともなく優しい声。


『この区画は安定しています。深呼吸してください』


麻酔がまた回る。


拳が止まる。


止まったことが“美徳”として処理され、本人の中で正当化される。


若い男は笑う。


「……なんだよ、俺。別に怒ってねえし」


怒っていたのに。


怒りが、なかったことになる。


なかったことになって、怒りだけが残滓として“影”に沈む。


カゲツは唇を噛んだ。


ここでは、感情が事件にならない。


事件にならないから、秩序は揺れない。


揺れないのに、影だけが増える。


——最悪だわ。


その“最悪”の先で、音がした。


ガシャン。


金属が床を叩く鈍い音。


売店の前——さっきの母親が、端末を落としただけだ。


なのに、周囲の空気が一瞬だけ揺れた。


母親が端末を拾う。


拾って——立ち上がる。


その拍に、ほんの僅かな“遅れ”が入る。


遅れの隙間へ、誰かの囁きが滑り込んだ。


「……ほら。置いていけば?」


囁きは薄い。発した口元が見えない。


けれど母親の目が一瞬だけ上を向く。


天井の光膜の“薄い縫い目”。


——合図。


母親は笑った。


そして、隣の子どもの肩を強く掴んだ。


「……うるさい。黙って」


声は小さい。


小さいのに、掴む指は痛い。


痛がる子どもに、母親は視線を合わせない。


視線は相手じゃなく、“自分が正しい”という麻酔に向いている。


子どもの口が開く。泣きかける。


泣いたら、揺れる。


揺れたら、重くなる。


その瞬間、まただ。


《街は安定しています》

《丁寧に》


麻酔が濃くなる。


母親の手が、ふっと緩む。


緩んだ理由が、母親自身の“良心”として脳内で上書きされる。


上書きされるから、彼女は自分を責めない。


責めない代わりに——影だけが残る。


カゲツは動かなかった。


動けば、自分が目立つ。


目立てば、均される。


均されれば、この“遅れ”の痕跡が消える。


だから別の動きを選ぶ。


目ではなく、耳。


耳で、光膜の“鳴り方”に神経を集中する。


縫い目が、わずかに震えている。


誰かがピンを挟んだ場所は、ここだけじゃない。


縫い目はネットワークだ。


遅れは点じゃなく、線になる。


カゲツは静かに端末を開いた。


画面は見ない。入力だけする。


公安の追跡アプリじゃない。


——受信ログの“生”に触れる、古い監査用インターフェース。


ほんの数秒。


指が滑る。


端末が一拍、冷たく震えた。


【外部同期:微弱】

【経路:匿名化】

【識別子:HALF-MOON】

【中継:—】(空白)


空白。


また空白。


けれど今度は、消される前の“空白”だ。


空白の形が残っている。


形が残るなら、辿れる。


カゲツはポケットのピンを、もう一度強く握った。


指先の冷えが、確信に変わる。


ユノを追っても、光膜に消される。


被験者を追っても、麻酔に撫で潰される。


追うべきは、遅れを流し込む“指先の経路”。


カゲツは目を上げた。


光膜の縫い目が、奥へ、さらに奥へ、薄く続いている。


まるで誘導路だ。


けれど、今度は逆に使える。


「……いいわ」


声は小さい。


小さいのに、芯がある。


「アンタたちの道を、借りる」


彼女は歩き出した。


“最適化”が用意した動線を、逆走するために。


事件にならない悪意の送信元へ、近づくために。


背後のスクリーンが淡々と光る。


《街は安定しています》


その文字が、ほんの一拍だけ滲んだ。


——笑った。


“気づいたね”とでも言うみたいに。


カゲツは、その笑いを見なかったことにして、奥へ入った。


——つづく

ここまで読んでいただきありがとうございます✨

ブックマークで追ってもらえると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ