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三姉妹とリユニエの星環  作者: ケミパパ
第5章 優しい喉

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④月は、罪を軽くする──礼拝堂の“事故”

※世界観の補足や設定まとめはnoteにあります(プロフィールから)

4.



翌朝。


女学院の空気は、昨日より澄んでいた。


澄んでいる――そう感じるのは、鼻をくすぐる香の匂いが、わずかに“整った”からだ。


礼拝堂のステンドグラスを透けた光が、白銀の粉雪みたいに廊下へこぼれている。


壁面の薄い光膜が、生徒の歩調に合わせて淡く脈打った。


『おはようございます。秩序係数は安定しています。焦らず、丁寧に』


同じ文面のはずなのに、今日は――いっそう近い。


優しさが、皮膚に貼りついてくる。


ユノは端末を見た。


秩序係数:76


影負荷:低


統治介入:不要


変わらない。


いや、違う。秩序係数が、昨日の自分の“選択”の直後から上がったまま落ちていない。


――私が、整えた。


胸の奥に、小さな光が灯る。


それは誇りに似ていて、同時に、底のない穴にも似ていた。


「ユノ」


背後から声がした。


振り向くと、アオイが立っている。制服の襟を指先で整え、唇が少し乾いている。


「あのさ……昨日、礼拝堂で、ちょっと変じゃなかった?」


「変?」


「うん。空気が……甘いっていうか。わたし、急に落ち着いたんだよね。変な落ち着き方」


アオイは笑って見せた。


けれど、その笑みはどこか揺れている。整いきっていない。


――揺れ。


ユノの胸の奥の棘が、鋭く反応する。


「それ、良いことじゃない?」


ユノは自分でも驚くほど、滑らかに言った。


「落ち着くのは。余計なノイズが消えるってことだし」


アオイの眉が、ごく僅かに寄る。


“ノイズ”。その言葉に、引っかかった顔。


「……ねえ。ノイズって、なに?」


ユノは答えなかった。


答えなくてもいい、と身体が知っている。


ここでは、問いが揺れで、揺れが危険で、危険は最適化の対象だ。


廊下の端のスクリーンが淡く光る。


【街は安定しています】


【あなたの選択は最適化されています】


文字が、ほんの一拍だけ滲む。


ユノは目を逸らした。――見てはいけない気がした。見られる気がした。


「ユノさん」


担任が廊下を曲がってきた。


笑みが柔らかい。角度が整いすぎている。


「今日、礼拝堂の清掃当番、お願いね。昨日の香……少し強かったみたいだから」


「……はい」


香の話が出た瞬間、アオイが小さく肩を震わせた。


怖がったのか、寒かったのか、分からない。


担任は何も気づかない。気づく必要がない。


この街と同じだ。


ユノは頷き、アオイは曖昧に笑って教室へ戻っていった。


――その背中が、いつもより軽く見えた。


軽い。


軽いのは、良いことだ。


重い迷いを持つから、人は揺れる。


だから――整えなきゃ。


その日の昼休み。


ユノは誰にも見られない角度で、端末の申請画面を開いた。


【礼拝堂清掃:単独→ペアに変更申請】


理由:昨日の香による体調不良報告/転倒リスクの可能性/安全確保


“安全”。


この街で、最も通りやすい言葉。


ユノは候補一覧から、アオイの名前を選ぶ。


躊躇はなかった。躊躇すると、揺れるから。


申請ボタンを押すと、画面に優しい文字が浮かんだ。


【推奨:ペア清掃】


【選択:最適】


【承認】


ユノの喉が、音もなく鳴った。


――ほら。S.G.Sが、最適だって言った。


放課後。


礼拝堂の掃除当番。


生徒たちが帰った校舎は、整いすぎていて、音がない。


掃除用具室の鍵が、指先の体温に反応して静かに開く。


ユノはモップとバケツを取り出し、礼拝堂へ向かった。


ステンドグラスは薄闇の中でも白く浮き、相談室の扉だけが、遠くで月のように静かだった。


――今日は、扉は開かない。


開かなくていい。声がなくても、私はもう知っている。


換気口の辺りに立つと、昨日貼った札が影の中でわずかに光って見えた。


視線を止めた瞬間、端末が震える。


秩序係数:77


上がっている。


札は、いまも効いている。


ユノはモップを動かしながら、もう一つだけ、準備をした。


バケツの水に、ワックスをほんの少し足す。


透明なまま。匂いもしない。


ただ床の“返り”だけが変わる。光が正しい角度で跳ね返るようになる。


大理石は磨けば磨くほど美しい。


美しさは、滑りやすい。


――事故だ。


暴力は影負荷を濁す。


でも事故なら、濁らない。


事故なら、裁かれない。


ユノは窓際へ向かった。


高窓の留め金の影に、細い金属片が見える。古い部品。清掃用具室に転がっていたもの。


それを留め金の隙間に噛ませ、閉まりきらない“癖”を作る。


風が入り、カーテンが揺れる。


それだけ。誰も疑わない。


準備が終わると、礼拝堂の空気がいっそう静かになった気がした。


壁面の声が、すぐ隣で囁いたように錯覚する。


『あなたの選択は最適化されています』


ユノは、息を吐いた。


その時、背後で扉が開く音がした。


「……ユノ」


アオイだった。


息が少し乱れている。走ってきたのだろう。


「S.G.Sから通知来た。……“清掃、ペアに変更”って」


アオイは端末を見せる。画面の隅に、淡い月のようなアイコンが一瞬だけ灯って消えた気がした。


「安全のため、だって。……昨日のこと、誰か報告した?」


ユノは微笑んだ。


角度を、きちんと整えて。


「そうみたい。……良かったじゃない。安全は大事だし」


アオイは礼拝堂の空気を吸い込んだ瞬間、足を止めた。


「……やっぱり甘い。これ、なんなの」


問いの刃が、まっすぐユノに向く。


揺れが、目の前で形を持ち始める。


――守らなきゃ。


ユノは、顔に出さないまま、声だけを整えた。


「寒いでしょ。窓、閉めてくれる?」


「え……うん」


アオイが窓際へ向かう。


高窓は、少しだけ開いている。冬の風が薄いカーテンを揺らしている。


アオイが手を伸ばす。


留め金に指が触れ――一瞬、引っかかった。


「……なにこれ」


小さな違和感。


その違和感を“確認したい”と思うのが、アオイの癖だ。


いつも根拠を求める。揺れの種になる。


アオイは身を乗り出す。


留め金をよく見ようとして、つま先が一歩、横へずれた。


その足が――床の薄い膜に乗る。


滑った。


ほんの一瞬。


でも、その一瞬が、あまりに綺麗だった。


白銀の光。


ステンドグラスの月。


舞う埃が光粒になり、揺れたカーテンが祈りの衣みたいに膨らむ。


アオイの体が、バランスを失う。


「……っ」


声にならない息。


指が空を掴む。


ユノは動かなかった。


動けなかったのではない。動かなかった。


――事故だから。


アオイの体が、白い光の中へ落ちた。


落下音は、礼拝堂に似合わないほど鈍く、短かった。


次に響いたのは、遠くの誰かの叫び声。


ユノはその場に立ち尽くしたまま、端末を見た。


影負荷:低(変化なし)


そして、秩序係数が――ゆっくりと上がっていく。


秩序係数:77 → 83


画面に、優しい文字が浮かんだ。


【校内秩序:安定】


【あなたの貢献:評価】


【あなたの選択は最適化されています】


ユノの喉から、小さな笑いが漏れた。


笑いたかったわけじゃない。泣きたいわけでもない。


ただ、胸の奥の棘が――消えた気がした。


「……ほら」


ユノは、誰もいない礼拝堂に向かって呟いた。


「これで、この学校は……もっと、美しくなる」


廊下の奥で、スクリーンが淡く光る。


【街は安定しています】


その文字が、ほんの一拍だけ――滲んだ。


まるで、祝福するみたいに。


その直後。


ユノの端末に、見慣れない短文が届く。


《月は、罪を軽くする》


送り主は表示されない。


けれどユノは、微かに香の匂いが強くなったことで分かった。


――見ていた。


ユノは換気口の札に視線を向け、そっと目を伏せた。


自分の心臓の音が、まだ少しだけ速い。


でも、端末が言う。


大丈夫。


最適だ。


裁かれない。


その優しさが、いまは少しだけ、甘かった。


――つづく

ここまで読んでいただきありがとうございます✨

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