④月は、罪を軽くする──礼拝堂の“事故”
※世界観の補足や設定まとめはnoteにあります(プロフィールから)
4.
翌朝。
女学院の空気は、昨日より澄んでいた。
澄んでいる――そう感じるのは、鼻をくすぐる香の匂いが、わずかに“整った”からだ。
礼拝堂のステンドグラスを透けた光が、白銀の粉雪みたいに廊下へこぼれている。
壁面の薄い光膜が、生徒の歩調に合わせて淡く脈打った。
『おはようございます。秩序係数は安定しています。焦らず、丁寧に』
同じ文面のはずなのに、今日は――いっそう近い。
優しさが、皮膚に貼りついてくる。
ユノは端末を見た。
秩序係数:76
影負荷:低
統治介入:不要
変わらない。
いや、違う。秩序係数が、昨日の自分の“選択”の直後から上がったまま落ちていない。
――私が、整えた。
胸の奥に、小さな光が灯る。
それは誇りに似ていて、同時に、底のない穴にも似ていた。
「ユノ」
背後から声がした。
振り向くと、アオイが立っている。制服の襟を指先で整え、唇が少し乾いている。
「あのさ……昨日、礼拝堂で、ちょっと変じゃなかった?」
「変?」
「うん。空気が……甘いっていうか。わたし、急に落ち着いたんだよね。変な落ち着き方」
アオイは笑って見せた。
けれど、その笑みはどこか揺れている。整いきっていない。
――揺れ。
ユノの胸の奥の棘が、鋭く反応する。
「それ、良いことじゃない?」
ユノは自分でも驚くほど、滑らかに言った。
「落ち着くのは。余計なノイズが消えるってことだし」
アオイの眉が、ごく僅かに寄る。
“ノイズ”。その言葉に、引っかかった顔。
「……ねえ。ノイズって、なに?」
ユノは答えなかった。
答えなくてもいい、と身体が知っている。
ここでは、問いが揺れで、揺れが危険で、危険は最適化の対象だ。
廊下の端のスクリーンが淡く光る。
【街は安定しています】
【あなたの選択は最適化されています】
文字が、ほんの一拍だけ滲む。
ユノは目を逸らした。――見てはいけない気がした。見られる気がした。
「ユノさん」
担任が廊下を曲がってきた。
笑みが柔らかい。角度が整いすぎている。
「今日、礼拝堂の清掃当番、お願いね。昨日の香……少し強かったみたいだから」
「……はい」
香の話が出た瞬間、アオイが小さく肩を震わせた。
怖がったのか、寒かったのか、分からない。
担任は何も気づかない。気づく必要がない。
この街と同じだ。
ユノは頷き、アオイは曖昧に笑って教室へ戻っていった。
――その背中が、いつもより軽く見えた。
軽い。
軽いのは、良いことだ。
重い迷いを持つから、人は揺れる。
だから――整えなきゃ。
その日の昼休み。
ユノは誰にも見られない角度で、端末の申請画面を開いた。
【礼拝堂清掃:単独→ペアに変更申請】
理由:昨日の香による体調不良報告/転倒リスクの可能性/安全確保
“安全”。
この街で、最も通りやすい言葉。
ユノは候補一覧から、アオイの名前を選ぶ。
躊躇はなかった。躊躇すると、揺れるから。
申請ボタンを押すと、画面に優しい文字が浮かんだ。
【推奨:ペア清掃】
【選択:最適】
【承認】
ユノの喉が、音もなく鳴った。
――ほら。S.G.Sが、最適だって言った。
放課後。
礼拝堂の掃除当番。
生徒たちが帰った校舎は、整いすぎていて、音がない。
掃除用具室の鍵が、指先の体温に反応して静かに開く。
ユノはモップとバケツを取り出し、礼拝堂へ向かった。
ステンドグラスは薄闇の中でも白く浮き、相談室の扉だけが、遠くで月のように静かだった。
――今日は、扉は開かない。
開かなくていい。声がなくても、私はもう知っている。
換気口の辺りに立つと、昨日貼った札が影の中でわずかに光って見えた。
視線を止めた瞬間、端末が震える。
秩序係数:77
上がっている。
札は、いまも効いている。
ユノはモップを動かしながら、もう一つだけ、準備をした。
バケツの水に、ワックスをほんの少し足す。
透明なまま。匂いもしない。
ただ床の“返り”だけが変わる。光が正しい角度で跳ね返るようになる。
大理石は磨けば磨くほど美しい。
美しさは、滑りやすい。
――事故だ。
暴力は影負荷を濁す。
でも事故なら、濁らない。
事故なら、裁かれない。
ユノは窓際へ向かった。
高窓の留め金の影に、細い金属片が見える。古い部品。清掃用具室に転がっていたもの。
それを留め金の隙間に噛ませ、閉まりきらない“癖”を作る。
風が入り、カーテンが揺れる。
それだけ。誰も疑わない。
準備が終わると、礼拝堂の空気がいっそう静かになった気がした。
壁面の声が、すぐ隣で囁いたように錯覚する。
『あなたの選択は最適化されています』
ユノは、息を吐いた。
その時、背後で扉が開く音がした。
「……ユノ」
アオイだった。
息が少し乱れている。走ってきたのだろう。
「S.G.Sから通知来た。……“清掃、ペアに変更”って」
アオイは端末を見せる。画面の隅に、淡い月のようなアイコンが一瞬だけ灯って消えた気がした。
「安全のため、だって。……昨日のこと、誰か報告した?」
ユノは微笑んだ。
角度を、きちんと整えて。
「そうみたい。……良かったじゃない。安全は大事だし」
アオイは礼拝堂の空気を吸い込んだ瞬間、足を止めた。
「……やっぱり甘い。これ、なんなの」
問いの刃が、まっすぐユノに向く。
揺れが、目の前で形を持ち始める。
――守らなきゃ。
ユノは、顔に出さないまま、声だけを整えた。
「寒いでしょ。窓、閉めてくれる?」
「え……うん」
アオイが窓際へ向かう。
高窓は、少しだけ開いている。冬の風が薄いカーテンを揺らしている。
アオイが手を伸ばす。
留め金に指が触れ――一瞬、引っかかった。
「……なにこれ」
小さな違和感。
その違和感を“確認したい”と思うのが、アオイの癖だ。
いつも根拠を求める。揺れの種になる。
アオイは身を乗り出す。
留め金をよく見ようとして、つま先が一歩、横へずれた。
その足が――床の薄い膜に乗る。
滑った。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬が、あまりに綺麗だった。
白銀の光。
ステンドグラスの月。
舞う埃が光粒になり、揺れたカーテンが祈りの衣みたいに膨らむ。
アオイの体が、バランスを失う。
「……っ」
声にならない息。
指が空を掴む。
ユノは動かなかった。
動けなかったのではない。動かなかった。
――事故だから。
アオイの体が、白い光の中へ落ちた。
落下音は、礼拝堂に似合わないほど鈍く、短かった。
次に響いたのは、遠くの誰かの叫び声。
ユノはその場に立ち尽くしたまま、端末を見た。
影負荷:低(変化なし)
そして、秩序係数が――ゆっくりと上がっていく。
秩序係数:77 → 83
画面に、優しい文字が浮かんだ。
【校内秩序:安定】
【あなたの貢献:評価】
【あなたの選択は最適化されています】
ユノの喉から、小さな笑いが漏れた。
笑いたかったわけじゃない。泣きたいわけでもない。
ただ、胸の奥の棘が――消えた気がした。
「……ほら」
ユノは、誰もいない礼拝堂に向かって呟いた。
「これで、この学校は……もっと、美しくなる」
廊下の奥で、スクリーンが淡く光る。
【街は安定しています】
その文字が、ほんの一拍だけ――滲んだ。
まるで、祝福するみたいに。
その直後。
ユノの端末に、見慣れない短文が届く。
《月は、罪を軽くする》
送り主は表示されない。
けれどユノは、微かに香の匂いが強くなったことで分かった。
――見ていた。
ユノは換気口の札に視線を向け、そっと目を伏せた。
自分の心臓の音が、まだ少しだけ速い。
でも、端末が言う。
大丈夫。
最適だ。
裁かれない。
その優しさが、いまは少しだけ、甘かった。
――つづく
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