⑨破、開幕──書き手の継承と「向き合う覚悟」
※世界観の補足や設定まとめはnoteにあります(プロフィールから)
17.
クヅラハに、再び朝が訪れた。
煌びやかな陽光が古都を照らし、瓦屋根の連なりを淡く染め上げている。
オルディナは、恐る恐る蛇の祠の式座へと足を踏み入れた。
――まずは、謝らなくてはならない。
ミカゲにも、ラオにも。昨夜の自分の行いを思えば、それは避けて通れなかった。
式座の内は、ひどく静まり返っていた。
昨夜まで揺れていたはずの蝋燭の火はすでに消え、空気には、修行の余熱だけがかすかに残っている。
奥の袖から、微かな寝息が聞こえた。
ラオだろう。序の修行で、彼女もまた限界まで消耗していたはずだ。
オルディナは、その眠りを妨げぬよう、足音を殺して式座の中心へ進んだ。
そこで、彼女は一人の巫女の姿を見つけた。
銀髪の女性が、筆を握ったまま、うつ伏せに伏している。
ミカゲだった。
どうやら眠気に抗えず、そのまま筆を置いたらしい。
彼女の傍らには、幾重にも積まれた紙束があった。
生還ノ舞――序の修行録。
その一枚を、オルディナはそっと手に取る。
「……綺麗な字……」
思わず、素直な感想が零れた。
草稿に目を通すと、昨夜の光景が鮮明によみがえる。
イグニファの詞。
五枚目の炎の環。
囁く声。
影に呑まれた、自分自身。
その記述に差し掛かった瞬間、オルディナは思わず目を伏せそうになった。
――だが。
「……ゆっくりでいい……」
夢の中で聞いた言葉。
姉の声。
ルミアナの微笑み。
オルディナは、深く息を吸い、ゆっくりと目を開いた。
ゆっくりでいい。
でも、ここから目を逸らすわけにはいかない。
『戻られたのですね、オルディナ』
背後から、不意に声がかかる。
オルディナは思わず肩を跳ねさせ、声を殺して振り向いた。
「サクヤ……! びっくりさせないでよ……」
『ああ……ミカゲたちは眠っていますからね。失礼しました』
サクヤオロチは、どこか悪戯めいた眼差しでそう言った。
「……ううん。こっちこそ、ごめん……。突然、飛び出したりして……」
『気にする必要はありませんよ。
むしろ、あれほどで済んだのは幸運でした』
その声音は静かだが、確かな重みを帯びていた。
『それで――覚悟は、できたのですね?
あの者……カリンと、向き合う覚悟が』
サクヤオロチの視線が、まっすぐにオルディナを射抜く。
「……うん……」
オルディナは俯き、かすかに震える声で続けた。
「このまま……あの娘から目を背けているだけじゃ……ダメだと思うの……」
『怖いのですね』
その一言に、オルディナは何も否定できなかった。
『再び呑まれてしまうのではないか。
その時、また大切な者たちを傷つけてしまうのではないか……』
「……うん……」
『心配はいらぬ』
低く、力強い声が割って入る。
いつの間にか、イグニファがそばに立っていた。
『その時は、またわらわたちが引き戻してみせる』
「……イグニファ……」
オルディナの視線は、彼の角に残る傷へと向かった。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
『何も案ずるな。
破の修行とは、己の影と向き合うためのもの。呑まれることがあったとしても――』
『私たちが、います』
サクヤオロチの声は、凛として揺るがなかった。
「……ありがとう……二人とも……」
オルディナは、心からそう言った。
守るだけではない。
一人で背負うだけでもない。
仲間を信じ、頼ること。
それもまた、生還ノ舞の一部なのだと――
そのとき、ようやく理解した。
式座には、二人の賢者の穏やかな寝息が静かに響いている。
オルディナと精霊たちは、言葉なく、柔らかく微笑み合った。
やがて訪れる“破”の修行を、誰もが静かに見据えながら。
18.
「ふぁぁ……よく寝たぁ……」
式座の袖で丸くなっていたラオが、ゆっくりと上体を起こした。
大きく伸びをすると、窓から差し込む朝の陽光がその金髪をやさしく照らす。
朝だ。
小鳥のさえずりが、どこか近くで弾むように響いている。
ラオは一瞬、胸の奥がざわつくのを感じた。
昨夜のことが、夢だったのか現実だったのか――その境目が、まだ曖昧だったからだ。
恐る恐る、式座の奥を覗く。
……いた。
オルディナは、式座の中心でミカゲと向かい合い、何かを話している。
その背筋は真っ直ぐで、昨日のような危うさは感じられない。
その気配に気づいたのか、オルディナがこちらを振り向いた。
「あ、ラオ。おはよ!」
澄んだ声だった。
「おはよ、オル姐!」
思わず声が弾む。
オルディナの表情は、まるで長い雨が上がった後の空のように、晴れやかだった。
――ああ、戻ってきてくれたんだ。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ラオは、それ以上何も言う必要はないと感じていた。
「さっきまで、何の話してたの?」
軽い調子でそう尋ねると、重厚な声が静かに応えた。
『序の修行は完了した』
イグニファだった。
猪精霊は目を細め、昨夜の光景を思い返すように続ける。
『まだ不安定ではあるが――
オルディナの情熱ルミナは、確かにかつての水準に近づいている』
その言葉に、ラオは思わず息を呑んだ。
『ゆえに――』
今度はサクヤオロチが、ゆっくりと言葉を継ぐ。
『本日より、生還ノ舞・破の修行に入ります』
空気が、すっと張りつめた。
「……今度は、あたしじゃなくて……」
ラオは視線をミカゲへ向けた。
「ええ。そうなります」
ミカゲは静かに頷き、赤い瞳でラオをまっすぐに見つめる。
「そしてラオさん。あなたには――
一時的に、私の代役をお願いしたいのです」
「え?」
嫌な予感が背中を走る。
「まさか……」
「“書き手”として、です」
ミカゲの言葉は、迷いがなかった。
「破の修行は、内側が激しく揺らぎます。
だからこそ――
外で見届け、記録し、世界を繋ぎ止める存在が必要なのです」
「ええええ……!」
ラオは思わず声を上げ、肩を落とした。
「あたし、字を書くの苦手なんだけどなぁ……」
式座に、しんとした沈黙が落ちる。
大きな蝋燭の炎だけが、ゆらり、ゆらりと揺れていた。
その静寂を破ったのは、オルディナだった。
「ラオ……お願い」
紅蓮の瞳が、まっすぐにラオを射抜く。
「この修行、絶対に成功させたいの。
だから……あなたの力が必要なの」
その目には、確かな覚悟が宿っていた。
影から逃げないと決めた者の、強さと脆さが、同時に滲んでいる。
「オル姐……」
その瞬間、ラオの脳裏に、灰の渓谷で交わした誓いが鮮やかに蘇った。
――精霊イグニファ。
このラオ、あなたと契約し、
《炎の環の守護者》として、
オルディナ様を支え、
命のために尽くすことを、
ここに誓います――
ラオは、ゆっくりと息を吸った。
「……わかった」
そして、にっと笑う。
「オル姐。あたしはあなたを守る賢者――
《炎の環の守護者》よ」
胸に手を当て、はっきりと言い切った。
「今度はね……“幕の外”から、ちゃんと支える」
その言葉に、オルディナはふっと微笑んだ。
「ありがとう、ラオ」
『では』
サクヤオロチの声が、式座に響く。
『三人とも、式座へ』
オルディナとミカゲは並んで腰を下ろし、ゆっくりと目を閉じた。
「オル姐、ミカゲ!こっちは任せて!」
ラオの声は、いつもより少しだけ真剣だった。
二人は、静かに頷く。
次の瞬間――
頭上から、蛇精霊の威厳ある宣言が降り注ぐ。
『これより、生還ノ舞――破、開幕』
世界が、再び反転する。
オルディナは、意識が深く沈んでいくのを感じていた。
――つづく
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