手のひらの声、君のいない部屋で
ある日突然いなくなった、恋人。
別れたわけじゃない。ただ、消えてしまったように。
彼女が残したのは、スマホの中に吹き込まれた「31通」の音声メッセージだけだった。
それを毎朝一つずつ再生しながら、
彼は今日も静かな部屋で、彼女の声とともに生きていく。
これは、“君のいない部屋”で紡がれる、喪失と再生の物語。
窓を少しだけ開けて、朝の風を招き入れる。カーテンがふわりと揺れて、部屋の中に冷たい空気が舞い込んだ。
アラームが鳴る前に目を覚ますようになったのは、いつからだっただろう。
それは、君がいなくなってからだった。
時計の針が七時を指している。スマホの画面を見やると、通知は何もない。指が勝手にメッセージアプリを開く。けれど、そこに新しい言葉は届いていない。
いつもの朝。何も変わらない、はずの朝だ。
君がこの部屋にいた頃の名残は、まだそこかしこに残っている。枕元に置かれたままのヘアゴム、台所の引き出しにある小さなメモ帳。冷蔵庫には君が好きだったヨーグルトがいつも並んでいる。
別れたわけじゃない。
喧嘩もしていない。
なのに君は、ある朝、いなくなっていた。
誰に聞いても、君を知らないと言った。
住民票にも、大学の名簿にも、名前はなかった。
でも、僕のスマホには、君とのやり取りが確かに残っている。
“彼女”の声が吹き込まれたボイスメッセージも、31通。
画面に指を滑らせる。
『おはよう、今日も朝から暑いね』
『昨日の夕飯、あなたの作ったカレー、すごく美味しかった』
『いま電車に揺られてる。窓の外の景色、きれいだよ』
どの声も、君だった。
明るくて、少し照れていて、ときどき泣きそうで。
君がいなくなった日から、僕は毎朝そのメッセージを一つだけ再生することにしている。
それが、僕の一日を始める唯一の手がかりになった。
君の声は、まるで“そこにいた君”そのものだった。
朝の風とともに、やさしく胸の奥にしみこんでいく。
起きて、着替えて、食事をして、会社へ行く。
仕事をして、帰宅して、風呂に入り、眠る。
そしてまた朝が来る。
その繰り返しの中で、君の声だけが日々を塗り替えてくれる。
もし、この声がなかったら、僕はこの部屋で時間を止めてしまったかもしれない。
声がある。
それだけで、君が存在した証になる。
忘れることを恐れながらも、忘れられることにも怯えながら、僕は今日も「再生」ボタンを押した。
『ねえ、知ってた? 朝の空気って、昨日の夜より少しだけ透明なんだって。だから私は、朝が好き。……あなたと話せるから』
スマホの画面に映る再生バーが、音もなく流れていく。
僕は、そっと微笑んだ。
ある日のことだった。
会社から帰宅すると、スマホに通知があった。
差出人は“彼女”。
それだけで、心臓が跳ねた。
彼女の声が届いたのは、三十一通目のメッセージからしばらく経ったあとだった。もうこれで最後なのかもしれない、と思っていた矢先だった。
震える指で、画面に触れる。
再生ボタンを押すと、柔らかな呼吸音が耳に届いた。
『……ねえ、覚えてる? あのとき言えなかったこと』
胸が締めつけられた。
『ほんとはね、あなたに会えて、すごくうれしかったんだ』
『私、ずっとひとりだったから。あなたと一緒に過ごす時間が、どれだけ私を救ってくれたか、わからないと思う』
耳の奥で、彼女の声が震えていた。
『でも、私のこと、忘れてもいいよ。あなたが、あなたの時間を生きていけるなら』
『私は、あなたのなかに少しでも残っていれば、それでいいから』
涙がにじんで、画面が滲んだ。
でも、その最後に、確かに彼女は言った。
『でも、願わくば……ほんの少しでいい。私の声を、もう一度だけ、聞いて』
それは、僕の知っている“彼女”の声ではなかった。
もっと深く、静かで、どこか祈りにも似た響きだった。
思えば、彼女はいつも「声」に残そうとしていた。
言葉にしてしまえば、いつか薄れていくことを、どこかで知っていたのかもしれない。
でも僕は、確かにその声に触れて、生きてきた。
その夜、眠る前に僕はスマホを握ったまま、長い間、目を閉じていた。
夢のなかで、彼女が笑っていた。
何も言わず、ただ風に髪をなびかせて、僕のほうを見ていた。
ああ、まだ、君はここにいる。
声という形で、ちゃんと残っている。
君の声を、十三通目まで聴き終えた日。
僕は、初めてその録音に返事をしていた。
「アイス、食べたよ」
誰に聞かせるでもなく、小さな声でつぶやいた言葉が部屋の中に溶けていく。
窓の外は雨。冷たい空気が部屋の隅にたまっていた。
声がなくなってしまった世界に慣れるつもりだったのに、
気づけば、僕はその「声のある時間」に戻ることしか考えられなくなっていた。
君がこの世にいないことは、もうわかっている。
病室で握りしめた君の手の冷たさ。
誰もいないベッドの白さ。
通夜の夜に読み上げられた弔辞の言葉。
けれど、スマホを再生すれば、
君はそこにいた。
まるで、今もどこかで生きているように。
『きのうね、駅前でパン屋さんを見つけたの。あなたにも買って帰ればよかったな』
『お昼にうどん食べたよ。あったかくて、ちょっと泣きそうになった』
『ねえ、今週末って空いてたっけ? ちょっと行きたい場所があるんだけど……』
録音は過去の出来事を語っているのに、
君の声だけが、僕の“いま”に染みてくる。
言葉とは、こんなにも形を持つのだろうか。
消えていくものなのに、魂を残していく。
十四通目、十五通目、十六通目……
毎朝、会社へ行く前にひとつだけ再生する。
まるで君と朝の挨拶を交わすみたいに。
――でも。
十八通目を聴いた日の夜、僕はふと思ってしまったんだ。
もし、全部の声を聴き終えてしまったら、
その先には何が残るんだろう。
もう、君と会話することはできない。
もう、君は未来のどこにもいない。
“終わり”が見えているということが、こんなにも怖いなんて知らなかった。
その日から僕は、再生の間隔をあけはじめた。
毎朝じゃなく、三日に一度。
やがて週に一度。
まるで、声を聴くことで君の“死”を引き延ばしているようだった。
そして三十一通目を迎えた朝、僕は一日中その録音を再生できずにいた。
スマホの通知画面には、何もない。
でも、通知が“来ない”という現実が、まるで喪失そのものだった。
夜になって、ようやく僕は部屋の灯りを落とし、
ベッドの中で目を閉じたまま、最後のメッセージを再生した。
『これで、さいごだよ』
その声は、涙を堪えるように震えていた。
『あなたがこの声を聞いているとき、私はもう隣にはいないんだよね』
『だから、お願いがあるの。』
一拍置いて、君は言った。
『これからのあなたが、笑って生きていけますように。
その日々が、私の“声”よりも、あなたを支えてくれますように。』
言葉は、消えた。
その夜、僕は久しぶりに泣いた。
静かに、ひとりで、音もなく。
明け方近く、目が覚めると、部屋はしんと静まり返っていた。
その静けさが、君の“いない時間”の重みだった。
誰もいないキッチン。君のカップだけが食器棚に並んでいる。
棚に残されたメモには「アイス、買っておいてね」と書かれていた。
それだけの文字が、胸を刺した。
そして――
次の日。
僕は再生されるはずのないスマホの通知音で目を覚ました。
そこに、見覚えのないファイルがあった。
タイトルは「voice32」。
指が震えた。
押した瞬間、聞き慣れた呼吸の音が流れた。
『……ねえ、これが32通目。もし、あなたがこれを聞いてるなら、
たぶん私は、ちゃんとあなたの中で生きてるんだと思う。』
画面の明かりが、泣きそうな僕の顔を照らした。
『あなたが、笑えていたら……この録音は、成功だよ』
空気が震えた気がした。
誰もいないはずの部屋で、風がそっとカーテンを揺らした。
君の匂いがした気がして、僕は目を閉じる。
たしかにそこに、君がいた気がした。
窓を開けると、朝の風がすっと頬をなでた。
カーテンがふわりと揺れて、部屋の中に、ほんの少しだけ懐かしい匂いが流れ込む。
あれから僕は、三十二通目のメッセージを何度も再生した。
最初は、信じられなかった。どうして、最後だと思っていたはずの彼女の声が、突然届いたのか。
何かのバグだろうか。バックアップからの復元か。
でも、そんな理由はどうでもよかった。
大切なのは、君の声が、そこにあったということ。
それだけが、僕をまた“今日”へ連れ戻してくれた。
目を閉じると、君の笑顔が浮かぶ。
笑った顔。怒った顔。照れた顔。
全部、思い出せるようになっていた。
けれど、同時に思う。
君はもう、この部屋にはいない。
けれどこの部屋には、君がいた時間が確かに染み込んでいる。
そして、僕のなかにも。
朝の光の中、スマホを手に取る。
画面を開くと、そこには再生済みの三十二通の履歴が並んでいた。
そのどれもが、君と過ごした証のように、そこにあった。
もう、新しい通知は来ないかもしれない。
でも、それでいい。
なぜなら、もう“これからの時間”を僕は一人で歩いていける気がしたから。
いや――たぶん、“一人ではない”んだ。
君がくれた声が、思い出が、そして日々のかけらが、僕と一緒に歩いてくれる。
部屋の中に、微かな陽射しが差し込む。
コーヒーを淹れ、カップに湯気が立つ。
いつもの朝だ。君がいた頃と、何ひとつ変わらない。
でも、違う。
少しだけ前より、空気が柔らかい。
ふと、スマホの再生ボタンに指を添える。
再生はしない。ただ、その丸いマークを見つめて、深く息を吐いた。
君の声が残っていたこと。
それは、ただの記録じゃない。
心に触れ、痛みを癒し、静かに背中を押してくれる――そんな存在だった。
僕は立ち上がり、窓辺に寄る。
夏の空が広がっている。
見上げたその先に、どこかで君も見ていた空が、変わらずに広がっていた。
「……いってきます」
小さくつぶやいて、部屋を出る。
鍵を閉めて、扉の前で立ち止まる。
どこか遠くから蝉の声が聞こえた。
夏が、ちゃんと巡っている。
僕の中で止まっていた季節が、少しずつまた、動き出していた。
この日常のなかに、君の声はもう再生されることはないかもしれない。
でも、だからこそ、ちゃんと生きていこうと思えた。
君がいた時間も、
君がいない時間も、
どちらも、僕にとっての「かけがえ」だ。
声が、残っていた。
それだけで、僕は――
世界中に「好き」と叫ばれた気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作『手のひらの声、君のいない部屋で』は、
失ったものの輪郭と、それでも残り続けるもの――
「声」という形に残された愛情をテーマに書きました。
“存在の証”とは何か、
“忘れること”と“覚えていること”の間にある温度を、
少しでも感じ取っていただけたなら幸いです。
また次の物語で、お会いできたら嬉しいです。