『ひとひらの君、幻に咲きて』
風の音が、記憶を撫でていった。
蝉の声に包まれた夏の日の午後。僕は十年ぶりに、あの田舎町へと帰ってきた。
都会での生活に疲れ、夏休みのわずかな日数を使って、ふと思い立った帰省だった。
特に目的があったわけじゃない。ただ、胸のどこかに引っかかっている違和感の正体を探すように、僕はあのホームへ足を運んだ。
風景は、驚くほど変わっていなかった。色褪せたベンチ、ひび割れた駅舎の壁、そして白く反射するプラットホームの端。
そのときだった。
ふと、視界の端に人影を見た気がして、反射的にそちらを振り返った。
誰もいない。
でも、確かにそこに“君”がいた気がした。
白いワンピース。
黒髪のショートカット。
そして、振り向いたあの横顔。
……記憶の蓋が、ゆっくりと開いていく。
あの夏、僕はこの町で過ごしていた。
中学二年の夏休み、父の転勤で数ヶ月だけ住んでいたこの町で、僕は“彼女”と出会った。
名前を思い出せない。でも、確かに彼女はそこにいた。
誰もいない校舎の図書室。
借りた本のしおりに、丁寧な丸文字で書かれていた短い詩。
放課後、黙って本を読む彼女の隣で、僕は無言の時間を過ごした。
言葉はなかったけれど、不思議と居心地がよかった。
ある日、僕は彼女と自転車で坂を下った。
古い道の曲がり角、向日葵の咲き乱れる農道。
彼女が後ろから「速すぎる!」と笑ってしがみついた感触。
すべてが、夢のように曖昧で、それでいて鮮やかだった。
そして、夏の終わり。
突然、僕の家は町を離れることになった。
彼女には、ちゃんと伝えられなかった。
最後の日、図書室に行ったけれど、彼女の姿はなかった。
それ以来、僕はその記憶を胸の奥にしまい込んで、生きてきた。
だけど、年月が経つごとに、その記憶は少しずつ崩れ、輪郭を失っていった。
思い出そうとしても、彼女の名前が出てこない。
本当にいたのか? 自分の想像じゃないのか?
ある日、昔のアルバムをめくっても、そこに彼女の姿はなかった。
名前を思い出そうとしても、どうしても思い出せなかった。
不安になって、当時の友人に聞いてみた。
「え? そんな子、いたっけ?」
誰も覚えていなかった。
担任に手紙を書いてみたけれど、名簿には該当者がいないという返事。
まるで最初から、“いなかった”ように。
でも――それでも、僕は彼女を覚えている。
あの本のしおりに書かれた言葉、夕陽の中で笑っていた横顔。
確かに僕の中には、彼女がいた。
社会人としての生活が始まり、都会で忙殺される日々の中で、彼女の存在は夢のように遠のいていった。
けれど年を重ねるごとに、心のどこかに空いた小さな穴が疼くようになった。
それが、何に起因するのか――僕には分かっていた。
そして今、こうして帰ってきた。
駅のホームには、あの頃のままの風が吹いていた。
蝉の声が、空を切り裂くように響いていた。
ホームの端に腰を下ろして、僕はふとポケットに手を入れる。
指先が触れたのは、黄ばんだ一枚の紙片だった。
あのときの、しおりだ。
『風はまだ、ここにいる』
彼女が書いた一文。
風が吹く。
帽子を押さえるように、誰かの手がそこにあるような錯覚。
そのとき、ふと誰かが僕の背後を通った気がして、振り返る。
でもそこに人影はなかった。
ただ、遠くの空に、真っ白な雲がひとつ流れていくのが見えた。
……ああ、きっと、君だったんだ。
君はもう、いない。
けれど、確かに“いた”。
僕の中に咲いた感情。
あの夏に芽吹いて、名前も知らずに、ただ心に根を張ったままの君。
それが幻だったとしても、
僕は、きっと一生、あの夏の君を愛している。
君がもう現れなくても、
この想いだけは、どこにも消えたりしない。
――それだけで、僕は世界中に「好き」と叫ばれた気がした。