「君が忘れても、恋は残る」
誰かを好きになる気持ちは、何度でも芽生えるものだと、僕は知っている。
たとえ相手が、昨日の僕を知らなくても。
これは、365回の“初対面”を通して育まれた、一度きりの恋の話。
終電が終わったあとの公園には、不思議な静けさがあった。
空は深い藍に染まり、街灯のオレンジが地面に長く影を落とす。
何も考えずに歩いて、ふと立ち止まった場所に、彼女はいた。
制服でもなければ、派手な格好でもない。
夜風に髪を揺らしながら、どこか遠くを見ていた。
「こんな時間にどうしたの? 彼氏にでもフラれた?」
気まぐれだった。声をかけたのは。
面倒ごとに巻き込まれるかもしれないし、下心があったわけでもない。
ただ、夜風が冷たそうだったから。それだけだった。
彼女は、俺を見た。
無言で、冷たく。まるで透明な壁を隔てて見ているような目だった。
彼女は逃げなかった。俺も座った。距離を空けて、ベンチの端に。
「……知らない人と話すの、あんまり得意じゃないの」
「俺、怪しくないよ。見てのとおり、顔は優しいし」
冗談混じりに笑ってみせると、彼女は困ったような顔をした。
手の甲がふと触れたとき、
彼女は一瞬びくっと肩をすくめたけれど、拒むことはなかった。
「……名前、なんて言うの?」
「さあ、当ててみる?」
そんなやりとりも、俺にはもう何十回も繰り返した記憶がある。
でも、彼女にとってはまるで今が“初めて”の夜だ。
──あの日までは、俺も知らなかった。
これは、ただのすれ違いの繰り返しじゃない。
彼女が「忘れて」いるんだということを。
名前を聞くたびにごまかされ、連絡先を交換しても、
次の日には「知らない人」として扱われる。
最初は、気まぐれな子だと思った。
気に入らなかったのか、遊ばれていたのか、俺の印象が薄かったのか。
けれど、ある日。彼女が落とした診察券と、
ポケットからはみ出ていた病院の冊子を見て、ようやく知った。
そこには「特発性逆行性短期記憶障害」とあった。
つまり――彼女は、「眠るたびに記憶がリセットされる」病を抱えていた。
毎日、「彼女にとっての初対面」が繰り返されていたのだ。
それを知ったとき、胸が痛くなった。
同時に、なんだか救われた気もした。
だって、彼女が俺を忘れるのは、仕方のないことだったから。
意図的な拒絶じゃない。彼女は、今日のことを明日には知らない。
彼女が忘れても、俺が覚えていれば、それでいい。
名前も、好きな食べ物も、好きな色も――全部、また1から覚えてもらえればいい。
彼女が好きな飲み物はコンビニのいちごミルク。
朝は弱いくせに、夜の公園は好き。
紫陽花が咲く時期になると、「この花、好きなの」と毎日同じように言った。
それを僕は毎回、まるで初耳のように驚いたフリをして聞いた。
春夏秋冬、四季を巡っても、彼女は変わらなかった。
変われないまま、記憶はその日の夜にすべてを白紙に戻す。
それでも、俺は変わっていった。
彼女の好きなものを覚え、同じ景色を毎日違う視点で語り、
その反応が、昨日とは少し違うことに気づくたび、心が満ちた。
俺にとっての初恋は、
365通りの「はじめまして」から始まった。
今日もまた、終電が終わったあとの公園に彼女はいた。
季節は冬。吐く息が白い。マフラーを二重に巻いても、風は刺さるように冷たい。
「また、会えたね」
俺がそう言うと、彼女は少し怪訝そうな顔をして、首をかしげた。
もちろん、彼女にとっては初対面だ。
「変な人。初対面なのに、またって……」
「うん、そうだね。ごめん、ついクセで」
そんなふうに、ごまかすのにも慣れた。
今日はどんな話題にしよう。
最近観た映画の話、彼女が好きな紅茶の種類、飼っていた猫の名前。
どれも昨日、俺が教わったことだけど、
彼女にとっては、全部これから知ること。
いつものように、少しずつ会話を編んでいく。
笑わせたり、困らせたりしながら、少しだけ心の距離を近づける。
彼女の心に今日の“僕”を記すように。
──そして、別れ際。
いつもなら「じゃあね」で終わるところで、彼女が立ち止まった。
「……変だな」
小さくつぶやいたその声に、俺は心臓をつかまれた気がした。
「あなたを見ると、涙が出そうになるの」
その目は不安げだった。けれど、どこか懐かしさを帯びていた。
記憶ではなく、感情が、心の奥底にかすかに残っていたのかもしれない。
それを聞いた瞬間、俺は、どうしようもなく幸せだった。
――それだけで、僕は世界中に「好き」と叫ばれた気がした。
ある日、彼女は公園に来なかった。
あのベンチが空っぽのまま、夜が深まっていく。
携帯番号を知っているわけじゃない。彼女にとって、僕は“昨日の誰か”だから。
待って、待って、それでも待った。
一週間ほど経ったある晩、彼女はふいに現れた。
マスク越しでも、少し痩せたのがわかった。
「……入院してたの。先生が、少しずつだけど記憶が安定してきてるって」
声が震えていた。目元には涙の跡。
「でも変なの。あなたの名前、知らないのに……会えてよかったって思うの」
僕は何も言えなかった。ただ、首を横に振った。
彼女が少しだけ笑った。
「また、明日も会える?」
今度は僕が、泣きそうになった番だった。
この物語は、SNSで毎日読める掌編シリーズとして生まれました。
1話ごとに読める短さでありながら、物語が積み重なることで生まれる情緒や、
記憶に残る「好き」の形を描きたいと思いました。
記憶をなくしても、それでも誰かを好きになる。
そんな感情の奇跡を信じてくれる読者の方がいたら嬉しいです。
著:珊紫獣伍(@coral_purple_15)
https://x.com/coral_purple_15/status/1943502584121086456
#毎日物語帖 #君が忘れても、恋は残る
2025年7月11日
✍️ また次の物語でお会いしましょう。