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勇者様は月を目指す  作者: 世葉
第1章 奪還計画
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第2話 あそぶ

 地上では先ほどの兵士たちが、勇者の帰りを待っていた。

 彼らにイシュチェルを見られると、話がとてもややこしくなるのは火を見るよりも明らかだった。なので、勇者は力を行使する。


”──空蝉(うつせみ)


「勇者殿! 地下遺跡の調査はどうなりましたか?」

 先ほど遺跡前で待機していた上官が、戻ってきた勇者の姿を目にし、声をかけて来る。

「─…勇者殿?」 しかし、反応が全くないことに怪訝な表情をみせた。

 この勇者の技は、残像を作り出し、相手を幻惑する。しかし、残像は動くことも言葉を発することも叶わない。

「ええ、それは素晴らしい遺跡でした。これまで見たことのない遺物ばかりで…。

そうそう、これを見て下さい。石板に書かれていた文字は、どこの文化圏にも属さない特殊な記号で記されていて──」

 そこにロナが割って入り、上官の注意を誤魔化した。トリウィアもセレーネも協力して他の兵士の視線を誘導する。

 三人が盾となっている間に、イシュチェルを抱える勇者は誰にも見られないように、全力で天幕まで駆け抜けた。

━━━─────━━━


 ノクスは早速、天幕に残っていた幼児が食べられそうなものを見繕って、イシュチェルに差し出した。

「こんなものしかないけど、食べる?」

「ありがとう! いただきまぁす。」

 イシュチェルの好みどころか、何を食べるのかすら定かではなかったが、素直な反応にノクスの口は緩んだ。

 ぷくぷくの柔らかそうなほっぺたを膨らませるイシュチェルは、その年ごろの女の子と何一つ変わらない。ただ、だからこそ、そんな子があの場所にいたことが不思議でならない。ひょっとしたら、自分がこの子を想ってやっていることは、実は良くないことなのかもしれない。そんな風にも、ノクスはまじまじとイシュチェルを見つめながら考えていた。


 しばらくすると、ロナたちが天幕に戻ってきた。

 しかし、彼女たちの目には、見るも無残な光景が飛び込んできた。

 スプーンを小さな手でぎゅっと握りしめ、一生懸命口へと運ぶ。その中には狙いが外れ、ほっぺたにへばりついているものもある。それはまだ良い方で、一体何をどうしたらそうなるのか分からない汚れが、あちらこちらに散乱していた。それでも、気にも留めずに次の一口をすくい、得意げな笑顔をみせつける。

「あらあら、大変。」

 ロナはその光景に笑顔をこぼしながら、夢中になっているイシュチェルの邪魔をしないように、汚れ散らかしてる回りを片付け始めた。だが、それと同じ速度で食べかすやら何やらが落ちてくる。

 そしてやがて、やる気以上にお腹が膨れると、イシュチェルの手は止まり、また別の欲求が顔を出す。

「もぅねむぃ……」

 そうぽつりと呟いたイシュチェルの口元や顔の周りを、トリウィアは優しく丁寧に拭き取った。くすぐったさよりも眠気が勝るイシュチェルは、されるがままになっている。

「イシュチェルちゃん、こちらにいらっしゃいな。」

 トリウィアの奉仕が終わるのを見計らって、ベッドに座ったセレーネはそう言って手招きする。その呼び声に誘われて、イシュチェルは小さな足でトテトテと歩み寄る。

 そして、セレーネの膝に抱きつくと、そっと抱き上げられてベッドに寝かされた。ふわりと掛け布がかけられると、イシュチェルのまぶたはもう、閉じる寸前だった。すると、安心しきった表情のまま、小さな寝息を立て始めた。

 子どもらしい無邪気な姿に、勇者たちは癒される。静かに明かりを落とした暗がりの中で、そのお互いのおかしな姿を、イシュチェルが起きないように、声を潜めて笑い合った。


 勇者たちは、天幕のテーブルを囲んで、未だ解決していない問題を小声で話し合う。

”あの子をどうしたらよいかしら”

”誰かに預けるにしても、信頼できる人じゃないと……”

”その『信頼』が一番難しいですわね。何事かあったときに、守れる強さも必要ですし……”

”王国軍じゃ、強さはあっても、命令次第でどっちにも転ぶだろうしな……”

 こんな幼子を、自分たちの戦場に連れて行くわけにはいかない彼らは、彼女の今後の身の振りを思い悩む。しかし知恵を絞っても、彼女が安心して暮らせるような妙案は浮かばなかった。


”あの、ずっと考えていたのですが、私の師匠のところに連れて行くのはどうでしょう?”

 そこに、ロナが一筋の光明をもたらした。それは、三人の視線を揃えた。

”遺跡にあった石板の文字の解読を師匠に相談したいと思っていましたし、イシュチェルちゃんをどうするかにしても、一度ちゃんと調べてみる必要があるかと、師匠のところなら、そのどちらもできます”

 ロナの提案は理に適っていた。イシュチェルが抱える問題をすべて一度に解決しようとするのではなく、一つずつ順序立てて解決していくうえで、これ以上ない方法ですらあった。

”ただ……、私の師匠は技術は信頼できますが、人として信頼できるかといわれると……”

 ロナは最後に、小声の音量を更に落として不穏な言葉を密かに囁く。

”あー……”

 そのため息混じりの声は、その人物を知るノクスだけにはある心当たりを示唆していた。その発言と反応に、セレーネとトリウィアは顔を見合わせる。

”いやでも、流石にイシュチェルに妙なことはしない…、よな?”

 その虚空への問いかけは、しばらくの間を開けて、返ってきた。 ”──……たぶん”

”他にいい案もないし、それでいいんじゃない?”

”私も、異論はありませんわ”

 そんなやり取りを踏まえても、二人はその案に同意する。それを受けてロナも了解したが、ノクスは最後まで乗り気ではなかった。


 勇者たちの抱えた問題に、とりあえずの指針ができて、その秘密の会議は幕を閉じた。もうその頃には、宴の賑わいも鎮まって、夜の静寂が辺りを支配していた。

 そして、一つ少なくなったベッドのために、ノクスは天幕を追い出される。そんなノクスの頭上に輝く満月は、勇者たち同様に、イシュチェルの幸せを願っているようだった。

━━━─────━━━


 夜が明けると、ロナたちは身なりを整え、旅支度を始める。装備や道具を手入れして、地図を広げて進路を確認する。そして、道中に必要な物資や危険な場所を話し合う。物音が慌ただしく響くなか、その喧騒に目を覚ましたイシュチェルが、寝ぼけまなこで目をこすりながら遅れて起きてきた。

「おはょう。」

 その可愛らしい声が、朝の喧騒を和ませる。三人は自然と振り向き、口を揃えて微笑む。

「「「おはよう。イシュチェルちゃん。」」」

「朝ごはん食べる?」 「うん。たべるぅ。」

 イシュチェルはその問いに、目をぱっちりと開くと、迷いなく即答し、可愛らしい足取りで昨日と同じ席にちょこんと座た。そして、出された食事をスプーンですくう。それを見守る三人は、昨日の惨劇が再現されると期待して待機する。


 しかし、その期待はものの見事に裏切られた。驚くことに、イシュチェルは昨日あれだけ食べこぼしたのに、今日は口元さえ汚すことなく、別人のように綺麗に食べる。スプーンを持つ小さな手は昨日とまったく変わらないのに、たった一日で有り得ない成長をした姿は、三人をとても驚かせた。

 綺麗に食べ終わったイシュチェルの頭を、トリウィアはそっと撫でる。

「えらい、えらい。 こんなに綺麗に食べるなんて、すごいじゃない。」

「えへへへ…」 イシュチェルは、喉を撫でられた猫のように、とても心地よさそうな緩んだ顔を見せた。

━━━─────━━━


 一方、ノクスは持ち前の勇者の力で、瓦礫となった砦の片づけに従事していた。


”──(びゃく)

 鋭い旋風が瞬く間に空を裂き、剣が振るわれるたびに、巨大な瓦礫が鮮やかに両断される。破片が整然と転がり、手を加えればすぐに再利用できるほどの大きさに揃えられていく。人の手でやるなら、何十人もの人員で幾日もの労力を費やすことだろう。それを、ノクスはただ勇者の剣を振るうだけで、一刻も経たぬうちに終えてしまった。


 邪魔にならぬよう離れた場所で作業を見守っていた昨夜の上官が、その驚異的な仕事ぶりに目を見張りながら、終わったのを見計らって近づいてきた。

「─…。このようなことまで勇者殿に任せてしまい、申し訳ありません。しかし、本当に助かりました。」

 上官は深々と頭を下げる。その声音には、勇者の力に対する敬意と安堵の色が滲む。

「いえいえ、気にしないでください。壊すだけ壊しておいて、再建はお任せするのですから。このくらいは務めの内ですよ。」

 ノクスは軽く肩をすくめ、相手の礼節に義理で応えた。

「勇者殿にそう言ってもらえるのは、我々にとって何よりの救いです。」

 上官の顔から、戦場の緊張がわずかに和らぐ。それも束の間、彼はすぐに表情を引き締めた。

「この砦を一刻も早く、より堅固に立て直さねばなりません。ここを我々の橋頭保としなければ、折角の勝利も無意味になってしまいます。」

「魔族側も、今回の戦で相当な痛手を負ったはず。立て直しに時間がかかると思われますが、それも絶対ではありませんから……」

 それを聞いたノクスは、剣を腰に戻しながら尋ねる。

「次の作戦まで、またどのくらい間がありますか?」

「それも魔族側次第ですが…、こちらが準備を整えるのに、最低ひと月。この砦の完成となると、三つ月はかかるでしょう。」

 それは、自分たちがロナの師匠のもとへ行き、戻るまでには十分な時間だった。口には出さなかったが、ノクスは無意識にその方角の空を仰ぎ見る。それを見て、新たな旅立ちを察した上官は、姿勢を正して最後に祈る。

「戦の神の加護があらんことを。どうか、息災であれ。」

━━━─────━━━


 ノクスが天幕に戻ると、準備を終えた仲間たちがその帰りを待っていた。

「はい。ノクス。」 そう言って、勇者の荷物を投げてよこす。続いて─

「遅い! 女性を待たせ過ぎですわ。」 そして─

「ごめんね、イシュチェルちゃん。ちょっとこの中に、入っていてくれるかな。」

 甘い声でイシュチェルを誘い、籠を開ける。

「うん、わかったぁ。」

 イシュチェルは、嫌がるそぶりも見せず、素直にその中に入った。


 そして、その籠を背負うため、ノクスが一歩前に出る。しかし、それより早くトリウィアは籠に手を掛けた。

 普段なら、そういった重い荷物は任されるはずなのに、トリウィアの行動はノクスには意外だった。むしろ、”言われる前にやれ”という圧を常に出して来るのに、今回はそれが無かった。その意味を、ノクスはワンテンポ遅れて理解した。

「なによ。」 そしてそのワンテンポが、トリウィアを不快にさせた。


 そうして、勇者一行はロナの師匠のもとを目指して旅立った。砦を離れ、人目がなくなったところで、ほどなくイシュチェルは籠から出された。


 旅路の中で、イシュチェルはとても元気に振る舞った。蝶やカエルなどの小動物を追いかけて、飛び跳ねて転ぶのは日常茶飯事。小川や池に飛び込んでは、泥だらけになったり、道中で見かけた羊や牛の群れに、恐れもなく飛び込んで行って、ベロベロに嘗め回されたり、それはそれはハチャメチャな姿をみせた。

 それは、その度に勇者たちを困らせたが、それ以上に大きな笑いをもたらした。


 そんな楽しい旅に数日があっという間に過ぎると、一行はロナの師匠グレティの家に辿り着いた。

━━━─────━━━


 グレティの家は、山間の開けた場所にそびえ立つ巨木を利用して作られていた。幹には堅牢な門が備え付けられ、ねじ曲がった枝を使って、幾つか小部屋が繋げてある。木を利用していながらも、鉄や銅などの金属、あるいは宝石などがふんだんに装飾され、自然に囲まれた森の中で、独特の美しさを放っていた。


 大きな門を、ロナが三回叩く。すると、小部屋の方から声が響いた。

”入って待っといで”

 その声に続いて門が自動的に開く。勇者たちは言われるままに、中に入っていった。


 部屋の中でまず目を引いたのは、壁の書棚に積み重なった大量の本だった。難解そうな魔法書や錬金術の書物、それらの本の間には走り書きされた紙が何枚も無造作に挟まれている。反対の壁には、草花や昆虫の標本、薬品などが入った瓶が所狭しと並び、不規則な輝きをみせる。そして天井には、どうやって使うのか全く分からない奇妙な形のガラス器具が吊るされ、部屋の飾りと化していた。


 一同がこの部屋の様々な物を見渡しながら待っていると、天井の窓が突然開き、そこから人影が飛び降りた。と思ったら、床に衝突する直前でその身体が停止した。

「よく来たね。で? 一体どうしたんだい?」

 皆が驚く中、ゆっくりと体を縦回転させながら、ロナの方を振り向いて、何事もないようにグレティは挨拶した。

「お久しぶりです師匠。実は──」

 ロナは師匠の過激な挨拶に、慣れた素振りで挨拶を返すと、ここに来た経緯を簡単に説明した。


「ほぉーん。なるほどね……。

で、その女の子はどこにいるんだい?」

 そう尋ねられ、セレーネは背負っていた籠を丁寧に降ろした。その中では、いつもの様に遊び疲れたイシュチェルが、ぐっすりと寝息を立てていた。その姿は、グレティの顔も緩ませる。

”…眠り姫は、このまま二階のベッドにでも寝かせておきな、キスはあとでしてやろう”

 そう小声で指示をしてお姫様を運ばせたあと、ロナから石板の写しを受け取って一瞥した。

「こりゃ、本当に言語なのかい? ──中々、厄介な問題だねぇ。」

 苦笑しながらそう頭をかいて、写しを無造作に書棚に置く。そして思い出したように、顔を上げると話を続けた。


「そういえば、見たことのない顔もいるから、あらためて挨拶しておこう。

私はグレティ。どこのなにものでもない、ただのなにもないグレティさ。」

 セレーネとトリウィアには随分と遅れた挨拶に、二人は少し戸惑いながらも挨拶を返す。

「私はセレーネ。僧侶のセレーネ。ロナの師匠でいらっしゃると伺いました。お会いできて光栄ですわ。」

「私はトリウィア。このパーティで射手をしています。どうぞよろしくお願いします。」

 グレティは二人に視線を向けたあと、続けてそれをノクスにも向ける。それを感じ取ったノクスとの間に、気持ち悪い間が生まれたが、グレティはそれを楽しむように間合いを詰める。

「─…さて、勇者殿。君は、前会ったときよりも随分と成長したようだね。

どれ、詳しく調べてあげるから、今すぐ服を脱ぎ給え。」


「「「「!」」」」 その一言は、皆を驚愕させた。


「何を驚くことがある? 君の体は前回、隅々まで調べたじゃないか。今更、見られて恥ずかしがるところなど無いだろう?

そうそう、前回の検査で取った転写画が確か、ここに――」

 グレティはそう言って、書棚を弄る。トリウィアは、グレティの発言を受けて提案する。

「同じパーティの一員として、仲間の能力を把握するため、その情報を私は知っておく義務があると考えます。」

 セレーネも負けじと提言する。

「私も僧侶として、回復魔法を使用する職務があり、元の状態を正確に知っておく必要があります。」

 二人の熱のこもった進言を受けて、グレティは感激する。

「そうだろう、そうだろう。トリウィアもセレーネも研究熱心な者は皆、同志だ…。

確か…、ロナもあの転写画を穴が開くほど見ていたようだが、あれはどこにやったかな……」


「「「!!」」」 その一言は、皆を震撼させた。


 ロナは、顔を赤らめ俯いて、ただ指だけを、ある書棚に挟まった紙に向けた。

 その、たった一本の指によって、壮絶な争奪戦の幕は切って落とされた。


 ──それは、まごうことなき真剣勝負だった──


 時間にして、ほんの一瞬の出来事だったが、勝負は無情にも決する。必死の抵抗もむなしく、見事な連携プレイに翻弄され、本来の力を出すことなく敗者は惨めに地に伏した。そして残る勝者には、勝ち名乗りと、望む褒美が与えられた。


「はい、これが通常状態ねー。

それでこれが、超***人で、これがその2で、3でー」

「あとー、これはどうしよっかなー。みたい? ならほら、えーと、紆余曲折した─4。」

 勝者の二人には、グレティから褒美の説明が丁寧になされた。それは人の権利に関わる、とてもセンシティブな内容だった。

「やめろよっ!! 色んな意味でっ!!!」

 ノクスは這いつくばりながら、髪の毛が逆立つほどの勢いで怒鳴った。


 その怒りを、グレティは真正面から受け止め、応えた。

「ああ。言われるまでもなく、講義はこれで終了だ。」

「─…さてそれでは、優秀な弟子たちよ、私は君らを信じているから、ここまでの基礎知識を生かして──ほら、応用問題を解いてみな。」

 顎で指さすグレティの号令は、三人の研究意欲に火を付ける。

「もうここまで来たら止められないのよ。」

「そうですわ。誰が何を言おうと、最新映像こそが正義なのです。」

「今回は私も手伝います。」

「──ヤメテクダサイ……」

 身動きのとれぬ勇者は、途轍もない熱量の火炎に包まれる。それは勇者に、髪の毛が変色するほどの恐怖を植え付けた。

━━━─────━━━


 気を失ったノクスが目覚めた時、最初に目に入ったのは、得体のしれない猿の剥製だった。

 驚いて身を起こすと、窓の外から見える景色から、ここが巨木の枝上の小部屋であることが分かった。身なりを整えて部屋から出ると、家の方から楽しげな声が響いて来る。その声に誘われて、ノクスは枝伝いに家の中に入って行った。


「──そうかい、そうかい。じゃあイシュチェルちゃんは、誰が一番好きなのかな?」

「ん~とねぇ…、え~とねぇ…、あっ! ノクスぅ!」

 イシュチェルの声と目線が、全員の視線を勇者に集めた。

「やあ、勇者殿、御目覚めかな。

そろそろキスでもしに行こうと思っていたが、その前に起きてしまうとは、私の愛が強すぎたかな?」

 そう問いかけながら、イシュチェルをロナに託して、グレティはノクスに歩み寄る。

 それに対して、先ほどの恐怖が抜けきらないノクスは、ただその場に立ち尽くした。グレティはそのままノクスの耳元に、本当にキスでもするかのように口を近づけると、誰にも聞こえないように囁いた。

”少し付き合い給え”

 グレティはそれだけを伝えて、ノクスが下りてきた枝を一人上がっていく。ノクスは少し考えたが、振り返ると遅れて後を追いかけた。


 ノクスが外に出ると、ほんの少しの間に、グレティは巨木の頂上まで登っていた。それを見て、ノクスも勇者の力で、あっという間に頂上まで登ってみせた。息も切らさずここまで来たノクスを見て、グレティは語りかける。

「全ての検査は終わったよ。おめでとう、君の体は健康そのものだ。

勇者の強大な力をその身に宿し、力の行使による負荷に耐えながら、後遺症のようなものは一切見当たらない。

君の体が頑丈なのもあるだろうが、仲間が日頃から献身的なケアしてくれているのだろうね。」

 その言葉を聞いて、ノクスは呆気にとられる。『献身的なケア』に全く身に覚えがないこともそうだが、先ほどのアレの理由を知り、言葉を失う。

「ん? 君はまさか…、私が本当に男の裸を見たいがために、あのようなことをしたと思っているのか?

いやいや、それはまったくもって酷い名誉棄損だ。しかるべき機関に情報開示の請求でもしてやろうか…。

それはまあ、若い男の体に興味が無いことは無いが、弟子たちの恋慕がわからぬほど、落ちぶれてはいないよ。

どこかの唐変木と違ってね。」

 言葉の出ないノクスに対し、グレティはそれを横取りするように倍の言葉を浴びせる。いつかの会話を盗み聞いていたようなその鋭利な言葉は、ノクスのトラウマを深く深く抉った。


「──まあ、冗談はこれくらいにして、これからが本題だ。」 グレティの顔から笑みが消える。

「イシュチェルについてだが…、とても不思議な子ではあるが、あの子は紛れもなく人間だよ。」

 それを聞いて、不安を抱いていたノクスは少し安堵した。しかし、グレティから笑みは戻らなかった。


「─…ここで一つ。君にも講義をしてやろう。

君は、魔法の力や自分の勇者の力について、考えたことはあるかい?」

「魔法使いだろうと、古のエルフだろうと、巫女や神官の類だろうと、あらゆる魔法体系の原動力は魔力である。ここまではいいかな?」

 グレティの言葉はこれまでより重みを増し、別人が話しているようにすら感じさせた。

「ノクス、君の勇者の力でさえ…、いやそれどころか魔族の力ですら。その源泉は魔法と同じ魔力なのさ。」

「そして魔力というものは、成長や訓練によって伸ばすことはできるが、生まれた時にある程度定まっている。最初から魔法が使えないものは、何をやったところで使えるようにはならない。所謂『神に選ばれた力』というものなんだ。」

 そこまで話して、グレティは一度目を伏せ、間を開ける。


「……。イシュチェルのあの小さな体には、私でも見たことがないほどの途方もない魔力が眠っている。

このまま成長を遂げれば、あの子は勇者の君より強くなるかもしれないよ。」

 落ち着いた口調で告げられたその衝撃的な宣告は、ノクスの理解を超えていた。


「─…、そんな馬鹿な……。」 ノクスからは、ただ、反射的に声が漏れる。


「信じられないのも無理はない。その言葉が、私の見立てを疑っているのでは無いことも理解している。

その上で、君が取るべき選択肢を提案しよう。」

 グレティは、ノクスとの距離を詰め身構えた。


「まず、彼女のまるで謎に包まれている出自の点から考察しよう。

魔族の砦の地下遺跡にいたということは、魔族側もイシュチェルを知っている可能性を考慮しなければならない。その場合、彼女には追手が向けられるはずだ。そうするだけの価値が、イシュチェルにはあるからね。」

「価値に応じた手練れとなれば、彼女の安全は、極めて限られた者しか守ることはできない。それは、つまり──」

 それはつまり、イシュチェルを勇者たちの戦場に連れて行くことを意味していた。その提案は、前置きなど関係なく、ノクスには到底受け入れられるものではなかった。


 眉を歪ませるノクスの答えを聞く前に、グレティは言葉を連ねる。

「私が、それを提案する理由は、それだけでは無い。

彼女に眠る魔力は、おそらく彼女の成長にも影響を与える。巨大な力を受け入れる器として耐えられるようにね。

どのような成長を遂げるのか、私にもまだ想像がつかないが…、人とは違う成長速度を見せるだろう。」

「人が時間をかけて学ぶことをすぐに習得できる、そんなことも出来るかもしれない。何も知らない周囲の人間は、そんな彼女を褒め称えるだろうね。」

 グレティは皮肉交じりの笑みを浮かべるが、それはすぐに暗く沈む。

「でもね……、それは良いことばかりではないんだよ。イシュチェルには人並の時間では足らない、ってことなんだ。」

「だからもし、イシュチェルを人として成長させたいのなら、この世界に溢れるありったけのものを、今という時間に詰め込んであげないといけない。」

 グレティは至近距離で、真っすぐノクスを見つめる。


「この二つの条件を満たしてあげられるのは、この世に勇者殿しかいないのだよ。」

 グレティの殺し文句は、ノクスの心を打ち抜いた。

 

 だがそれでも、これを一人で決めるわけにはいかなかった。高揚する胸を落ち着かせるように、大きく深呼吸をする。冷静になるように努めて、考えを整理した。

 そして、その中でふと浮かんだことを、よく考えもせず口にした。

「あの、選択肢ってことは、まだ他にもあるんですか?」

 グレティはノクスを突き放すように、冷たく言い捨てた。

「あるよ、もう一つ。それは、全てを忘れて投げ出してしまう事さ。」

 その選択肢を聞いて、ノクスは言われた言葉より、言ってしまった言葉を後悔した。そんな落ち込むノクスを前に、グレティは優しく救いの手を差し伸べる。

「私が育ててもいいのだが、私の下にいたのでは、この木のようにねじ曲がった人間になりかねない。

そうしてしまうには、イシュチェルの才能はあまりにも勿体ない。」

 そう補足するグレティの言葉を聞いて、学習したノクスは、言葉にせずに心の中で囁く。

”自覚があるんだ─” その瞬間、右の頬に激痛が走った。 「─イテテテッ!!」

「なに、未熟な君の浅い考えなど、手に取るようにわかるよ。」

 頬をつねりながら、グレティはそう言い放ってノクスを許してあげた。


 それから、勇者たちはグレティの家でしばらく過ごした。イシュチェルの世話や、遺跡の研究、興味を引く様々な書物や、装置は、皆に時間が経つのを忘れさせた。

 ある夜、ノクスは皆にグレティから聞いた話を伝えた。それを聞いて、一様に衝撃を受けはしたが、皆の心は一致した。


 勇者たちの抱えた問題はもはや、イシュチェルが何者か、ではなく、イシュチェルの幸せになっていた。

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