第17話 みりょうする
トリウィアは聖刻が示す方角へ、ただひとり走っていた。
遠ざかっていく仲間の声が、かすかに耳の奥に残る。しかし、彼女は振り返らない。三人分の決意を胸に、少しでも早く──その一心で前へと進んでいた。
「私が、やらなきゃ……。」
それからしばらく走った先で、聖刻が示す一台の馬車を見つけた。
聖刻は馬車を中心にして回転するように向きを変える。 「間違いない……。」
トリウィアはさらに足を速め、馬車の進行方向を先回りして立ちふさがった。
馬車の中には、予想通り見慣れた三人がいた。そして彼女と顔を合わせた途端、笑顔と明るい声が弾けた。
「あっ! トリウィアだ~!」
切迫した空気を一瞬だけ和らげるような、癒しの笑顔。その顔を見たトリウィアは、胸の奥でひとまず安堵する。まだ、こちらには敵の手は及んでいなかった。
けれど、それもいつまでもつか分からない。自分たちを襲ったあの魔人の仲間が現れるのは、時間の問題だった。
「ノクスっ! あいつらがまた襲ってきたわ!」
トリウィアは勇者に手短に告げる。いつものノクスなら、それだけで十分に伝わるはずだった。
だが、ノクスの表情はどこかぼんやりとしていて、こちらの言葉が耳に入っているのかすら怪しかった。
「でも…、俺、キュンティアさんと結婚しないと……。」
思い詰めたようにそう呟きながら、ノクスはそばに座る女性の手をそっと握った。
その手を見ていられないトリウィアは、思わず視線を逸らす。その姿にキュンティアは柔らかく微笑み、視線を向ける。
『トリウィアさん、少し落ち着いて。ノクス様は今、大切な決断をしようとしているのです。』
見せつけるように彼の手を握り返し、キュンティアは余裕を見せて、この場を収めようとした。
しかし、キュンティアの内心は真反対だった。
こちらに来たトリウィアを見た瞬間、酷く心は乱れていた。彼女がここに来れたことは、仲間のしくじりを意味している。
だが、彼女が三人でなく一人で来たということは、イラルギたちを倒して来たというわけでもないはずだった。
──すべてが予定通りとはいかない。
キュンティアはすぐに切り替えて、イシュチェルの手前、事を荒立てずトリウィアを追い返そうと画策する。
それに最も効果的だったのは、勇者との親密さをアピールすることだった。
「─…は……? 何言ってるの? そんな悠長な──」
トリウィアの反論をキュンティアは途中で妨げる。
『私も魔法の心得はありますし、なんと言っても無敵の勇者様がここにいるのですよ。
どれほどの敵が来ようと、問題にはなりませんわ。ねぇ、あ・な・た。』
そう言って、握ったままの勇者の手に抱き着いた。
その姿は、トリウィアを激しく苛立たせる。
「ああ、何の問題もない……。」 そして、勇者の気の無い言葉は火に油を注ぐ。
『それよりも、私たちは生涯で一度きりの、大切な瞬間をこれから迎えようとしているのです。』
俯くトリウィアを前に、キュンティアはそう言って勇者に体をすり寄せる。
『失礼ながら……。その瞬間を邪魔していい権利など誰にもありませんわ。』
そして、その口を勇者の顔に触れるほどに近づけた。
「──────ッ!!」
トリウィアはいきなり、無言のまま二人の間に割って入るように体を強引に挟み込んだ。
『キャッ!』 体を弾かれて倒れ込み、思わずキュンティアが叫ぶ。
──自分には、そんな資格はないのかもしれない。
もし、勇者が本気で彼女を想っているのなら、間に割って入るのは間違っている。
でも……、それでも、言葉より早く体が動いた。言葉や理屈よりも、心の奥が叫びを上げた。
「今、みんな戦ってるのよ……。勇者のアンタが、そんなことで……」
「──どうすんのよっ!!」
感情が堰を切り、トリウィアはノクスの頬を殴った。その目には涙が浮かび、拳は震えていた。
『ちょっとっ!』 地面に倒れたまま、キュンティアがトリウィアを睨みつける。
だが勇者は、殴られても無表情のままで、倒れたキュンティアを見下ろしても、一歩も動こうとしない。ただ、ぼんやりと眺めているだけだった。
「アンタ……。」
普段とまるで違うノクスに、トリウィアはようやく異変に気づく。
好きな女が倒れても放っておくなんて、おかしい。殴られても反応ひとつないのも、あり得ない。
だいたい、ノクスはこんな修羅場で平然としていられるほど、大人じゃない。
「ノクス、大丈夫?」
トリウィアが困惑してノクスを見つめていると、ふいにイシュチェルが近づいてきた。
彼女は、赤くなったノクスの頬に小さな手をそっと添える。
「いたいの、いたいの、とんでけー。」
ぽつりと呟いたその言葉とともに、彼女の手のひらから柔らかな光があふれ出す。
その光はノクスを優しく包み、殴られた傷を癒していった。
──その癒しは、それだけでは終わらなかった。
光が完全にノクスを覆った瞬間、彼の瞳に変化が現れる。
何かが剥がれ落ちるように、ぼんやりとしていた視線が徐々に焦点を取り戻していく。
「──……あれ? みんなどうしたの? ここ、どこだ?」
呆然とつぶやくノクス。その言葉に、トリウィアは目を見開く。
癒しの光は、彼にかけられていた魅了さえも、やさしく溶かしていた。
(──まさか、こんなところで魅了が解けるなんて……。)
二人の視線がノクスに注がれる中、キュンティアは小さく奥歯を噛んだ。
このままでは、すべてが水の泡になる。ここですべてがご破算になってしまっては、この作戦に命を懸けた仲間にあわす顔が無い。それだけは、絶対に許されない。
しかし、かといって正体を晒し、勇者とトリウィアを正面から相手にしたところで、勝ち目など無い。
──けれど、まだ道はある。
もう一度だけでも、勇者に魅了をかけることができれば……。ほんの少しの隙さえあれば、それだけでこの状況を逆転できる。
その一縷の望みに賭け、キュンティアは冷静さを装って笑みを浮かべた。
『あら、勇者様。わたしとの約束を、もうお忘れになってしまったんですか?』
ゆっくりと立ち上がりながら、わざとらしく寂しそうな声色で語りかける。その目は、ノクスの瞳の奥を探るように見つめていた。
「え……? 約束?」
困惑気味に首をかしげるノクス。まだ記憶は曖昧なままのようだった。
キュンティアはその反応にほのかな手応えを感じる。
『そう、わたしたち、二人で未来を誓い合ったではありませんか。あの時の誓い……。
まさか、勇者様ともあろう方が、誓いを破ったりなどしませんわよね。』
囁くような声に、ほんの僅かに魔力を込める。言葉のひとつひとつが、ノクスの心に染み入るように丁寧に。
それは、魅了を完全に行うための導入。魔法というほどのものではないが、確かに効果のある催淫の香水のようなものだった。まだ、覚醒して間もないノクスなら、十分に入り込める隙はある。
ノクスの目が、かすかに揺れた。意識が再び奪われかける。
──しかしその瞬間、トリウィアが素早く前に出る。
「ダメっ!」
強い声が、キュンティアの言葉を断ち切った。彼女はノクスの前に立ちはだかり訴える。
「ノクスは、どんなときも仲間を見捨てたりしないっ!!」
トリウィアの必死の叫びは、頬の痛みよりもはるかに強く、ノクスの心を揺り動かした。
”そんなこと、いつだって当たり前じゃないか
どうして、トリウィアはそんなこと……
ああ、そうか……、なんで、俺は──”
その言葉に応えるように、ノクスは穏やかに微笑む。
「──ああ……もちろんさ。」 彼の目には、迷いはもうなかった。
「行こう。仲間のところへ。」 そのまま身を翻し、トリウィアの手を取った。
もはや、キュンティアには打つ手が無かった。
作戦は完全に失敗し、イシュチェルを魔界に連れ帰ることも叶わない。
残されたのは、玉砕覚悟で二人を少しでも長く足止めし、仲間のもとへ向かうのを少しでも遅らせることぐらい……。
悲愴な決意を固め、キュンティアがわずかに魔力を練ろうとした、そのときだった。
「あれ? 夫婦ごっこ、もうおしまい?」
不意に、イシュチェルの無邪気な声が割り込んだ。
いたずらっぽく笑みを浮かべながら、キュンティアをじっと見つめている。
その瞳の奥にある、どこまでも純粋な底知れぬ無慈悲さに、キュンティアは、背筋を凍らせた。
だがイシュチェルは、キュンティアの決意などまったく気づく様子もなく、くるりと振り返ると、ノクスに手を向ける。
「こうやるんだよね?」 ”ψ♃wΔ✔ϞǪ¥¥Σxcdψ”
その小さな手から、魔族特有の魔力の波長が放たれる。その魔法には、純粋かつ深淵なる力が宿る。
そしてあっさりと、キュンティアよりも深く勇者を魅了した。
「──可愛いイシュチェル。さあ、おいで。」
ノクスの表情がとろけ、再び瞳に光が消える。
全ての記憶が再び霧散し、ただイシュチェルだけを見つめる。ようやく解放されたはずの勇者は、今度はイシュチェルに囚われた。
「……え? えっ? ちょ、ちょっと待って!?」
トリウィアは、状況がまるで理解できず、唖然と目を見開く。
だが、キュンティアには、これは千載一遇のチャンスだった。
(……なんという愚か者。だが、ありがたい。)
彼女の目は、諦めた運命に再び火を灯すように怪しく光った。
勇者はまた、魅了の鎖に繋がれた。ならば、妨げとなる存在は一つ、それさえ排除すればいい。
キュンティアの視線が、トリウィアを真っ直ぐに射抜く。
その瞳には、もう感情も理性もなかった。ただ、冷たい殺意だけが、静かに燃えていた。
──今なら、やれる。この手で、彼女を殺す。
数々の想定外の出来事が、キュンティアを追い詰めた。それは皮肉にも、最も選択したくなかった手を選ばせる。
もう、この手しかない──
●○●○●
一方その頃、ロナたちの戦場は、互いに手を出せないまま膠着していた。
セレーネは、ロナの状態をよく理解している。回復魔法で傷は癒せても、失われた生命力までは取り戻せない。彼女の限界はすぐそこまで迫っており、無闇な攻撃で消耗するわけにはいかなかった。
そして、それを絶対に敵に悟らせないよう、彼女をうまく支援するための策をいくつも巡らせる。
アタエギナもまた、キュンティアのことをよく知っている。トリウィアを行かせてしまったとはいえ、あいつなら上手くやるだろう。キュンティアが三度も敗れるなど、あり得ない。
ならば、これ以上の足止めに意味はない。目の前の敵を倒し、そのあとに合流すればいい。
アタエギナはイラルギへと視線を送った。
それは、まずどちらを狙うかを問う合図。そしてイラルギは瞬き一つで応える。
同時にそれは──、再戦の火蓋が切られる合図でもあった。
イラルギが、獣のような速度でロナへと襲いかかる。
”黎明を孕みし黄金の環よ、巡り廻りて我が意を鎖となし、動く影をその輪に縫いつけよ”
その動きを先読みし、セレーネが素早く詠唱する。イラルギの動きを遮る鎖が、彼女自身の影から伸びる。
瞬く間に、イラルギの足に絡みつき、縫いつけられたように動きを止めた。
この好機を逃さず、ロナが踏み込み、イラルギを狙い打つ。
”烈火よ唸れ、敵を貫け、灼熱の刃と成れ──獄葬・焔刃!!”
その炎刃は、イラルギを容赦なく襲う。身動きのとれない彼女は、ただ身を丸めて、身が裂かれ焼かれるのを耐えるしかなかった。
二人の連携は見事なものだった。
互いをどちらも囮としつつ、釣られた敵を切って返す。ロナの限られた残弾を考慮した、これ以上ない攻撃だった。
だが──この戦場で、それができるのは彼女たちだけではない。
あの互いに死力を尽くしたトライアノスの試合で、イラルギたちは彼女たちの多くを知り得ていた。
ロナの戦い方は、一撃必殺型ではない。大きな隙を生むリスクを避け、緻密に戦略を組み立てる傾向がある。
ならば──、来ると分かっているロナの攻撃は、一度だけなら耐えられる。その覚悟を代価にして、相手の隙を無理矢理こじ開け、敵を討つ。
アタエギナの腕には、躊躇いも慈悲もなかった。
一瞬の攻防をかいくぐり、仲間を踏み台にした一撃に全てを込めて、容赦なく打ち放った。
『うるぅあぁぁっ──!!』
踏み込みと同時に、弾丸のような加速を得て、槍と化した右腕が空気を打つ。
その破裂音と衝撃音が、生々しい咆哮と共に戦場に唸った──。
アタエギナの右腕は、セレーネの胸郭に深く突き刺さる。
その衝撃に痛みは麻痺し、肉を裂く感触と、肺を潰す圧力が一気に押し寄せ、口から鮮血が溢れる。
彼女の視界は赤く染まり、膝が砕けたように力を失った。
深く、致命に近い傷──。セレーネに次の一撃を防ぐ術はない。
だが、アタエギナは速やかに離脱しつつ、イラルギを縛る鎖を砕き割ると、焼け焦げた彼女を抱えて、間合いを広げた。
互いに攻撃は成功した。だが、その戦果には明らかな差が生まれた……。
焦げた鎖の残滓が、音の無い路地に鳴り響く。
ただ、荒い息遣いと血の匂いが、闘志を重く押しつぶす。
おそらく、次に打たれる一撃は、どちらかの命を確実に奪う──その予感だけが、戦場を支配していた。




