5.トラウマ
「あんた最近クリゾベリルの坊やと仲が良いらしいじゃない」
アレク様と改めて協力関係を結んでから数日後。瞬く間に彼と私がよく行動を一緒にしていると噂になっていた。ただあの日、令嬢たちを私が撃退したことも同時に広まったようで、私に絡んでくるような人は今のところ現れていない。
いや、正確には現れていなかった。ついさっきまで。
「噂を信じるとは珍しいですね、お姉さま」
放課後の裏庭に、私はまたしてもジルニアに連行されていた。
アレク様と待ち合わせている空き教室に向かおうと自分の教室を出た途端、明らかに私を待ち構えていたのだろうジルニアがそこにいたのだ。高等部と中等部は隣の棟にあるとはいえ、わざわざここまで来るだなんてこいつは暇なのだろうか。
そんな本音は胸の奥にしまい、逆らうのは得策ではないと大人しく付いて来て今に至る。
周囲には誰もいなかった。魔法をぶつけられて前世を思い出したあの日を彷彿とさせる。
「その噂に可愛い妹が含まれていたんじゃねぇ。気にするなって方が無理でしょう?」
どの口が。
そう吐き捨てそうになった言葉を何とか飲み込んで、顔も無表情を取り繕う。今の私は、ディアリア・アルマースだ。前世の『私』は極限まで抑えろ。
「それでどうなの? あの坊やと、あんた本当に仲が良いわけ?」
坊やって、せいぜい2歳しか違わないのに。彼女のこの傲慢さは、性格というのもあるが両親の影響も大きいだろう。彼らも若くして当主についたアレク様を、馬鹿にしている節があったから。あんな子どもがまともな仕事をできるわけがない、と。
「仲良く、かは分かりません。ただ一緒に行動する機会は増えました。何でもアレク様は家の都合で今までまともに学園に通えていなかったそうですが、これからは学業にも力を入れるそうでして。学園生活について色々教えてほしいと言われています」
「何であんたに?」
「同じ公爵家でクラスメイトだから、声がかけやすかったそうです」
「ふーん」
事前にアレク様と示し合わせていた理由を淀みなく答えた。同じような質問をもう何回も彼に憧れているらしい令嬢にされているので、最早無の境地だ。
話した内容は半分事実だ。アレク様は今まで当主としての仕事を優先して学園にはほとんど顔を出していなかったらしい。学園側も彼の事情を考慮し、出席日数には目を瞑ってくれているそうだ。彼自身が優秀ということもあって、その辺りは融通が利くみたい。ただこれからの彼が力を入れるのは学業ではない。本人曰く「ディアリア嬢の観察…失礼、力になるために今後は学園にも通いますよ」と。彼はきっと、私のことを珍獣か何かだと思っている。
風が吹いて、ジルニアの銀色の長い髪を攫って行く。髪の隙間から覗く彼女の青い瞳が細められる。「本当?」とその鋭い瞳に書いてあるようだ。ちなみに私も彼女と同じ髪色と瞳の色をしている。いや、正確には瞳は私の方が少し色素が薄いかな。似た顔立ちなせいで、嫌でも姉妹なのだと思わされる。
「まあいいわ。そういう理由なら、せいぜい坊やに媚を売っておきなさい。一応相手も公爵家なんだから、何かの役に立つでしょ」
「…分かりました」
何とかディアリアの仮面を保つ。心の中は荒れて仕方がないのだけど、ここで中身が変わっていることに気付かれたのでは面倒にしかならない。私は何としても生き延びたいんだから、プライドなんか投げ捨ててやるとも。
「聞きたいことはそれだけよ」
「では…」
もう行っても良いだろうか。伏せていた瞳を上げると、ばっちりと青い瞳と目が合う。
ダメだ。まだジルニアの関心はこっちに向けられている。
「なあに? この後用事でもあるの?」
「いえ」
「じゃあまだ大丈夫ね」
そう言って、ジルニアは右手を顔の横まで持ち上げた。人差し指だけが真っ直ぐ上に向けられる。その指にぴったり嵌っているダイヤモンドの指輪が、きらりと陽の光を受けて輝いていた。
「魔法の練習に付き合いなさいよ」
青い瞳が細められて、口元が三日月を作る。まだ少女と言える年齢だというのに、残虐という単語が相応しい笑みだった。
ここで「嫌に決まってんだろ!」と叫んで逃げ出せれば良いのだけど。『ディアリア』は絶対にそうはしない。ただ黙して、耐えて、受け入れるのみ。
怒りで震えそうな手は、制服のスカートを強く握りしめて誤魔化した。もちろんジルニアには見えないよう後ろに回して。
「(まだ私が変わったことを悟られるわけにはいかない。耐えろ。デッドエンドを避けるためだ…!)」
いつか絶対、そのお綺麗な顔ぶん殴ってやる。グーで。
そう心の中で恨み言を繰り返し、私はその場に立ち尽くした。返事も頷くこともしない。必要がない。ジルニアが「付き合え」と言っている以上、それは質問ではなく決定なのだ。
「今日はどうしようかしら。体に残るような傷だと、お父様たちに叱られちゃうし」
ここで言う叱る中身は、私といういつか政略結婚に使う道具に、それとわかる傷を付けたことについてだ。決して、「人(ましてや妹)をいじめちゃダメでしょ!」とかいう真っ当な内容ではない。前世の記憶が戻った衝撃のような、外傷がないタイプの『傷』であれば、彼らは何も言わないのだ。彼らにとって大事なのは…娘だと思っているのは、ジルニアだけだから。
「そうだわ」
三日月がさらなる曲線を描く。何で私をいじめるかが決まったのだろう。ジルニアの言う魔法の練習だなんて方便だ。
私は静かに深呼吸をして、意識を集中した。後ろ手にぶかぶかの指輪を撫でる。ここ数日練習していた防御魔法が、今のジルニアにどれほど通じるだろうか。アレク様の協力もあって、少しの間なら体を硬質化させられるようになったのだ。まだ魔法を弾くまではできていないが、少しはダメージを軽減させられるだろうか―――
そう考え終わる前に、パチン、とジルニアが指を鳴らすした。同時に、私の周囲を取り囲むように炎が現れる。
「…へ?」
呆けた声が零れ落ちた。
ぐるりと私を中心に、少し離れた位置で燃え盛る炎。
「安心なさい。本当に燃やしたりはしないわ」
「なっ、こ、こんなの…!」
燃えるに決まってんだろ! 逃げ道ねぇぞ!?
「魔法で作った炎だから、たとえ触れても燃えないわよ。ま、熱は本物と同じだけど、ね」
よく見れば、確かに炎の元に咲いている草花はただ風に揺れているだけだった。燃えないという言葉は本当のようだ。だが。
「(熱い…息、苦しい…っ)」
炎の熱が再現されている以上、すぐ傍にいる私に与えられる苦痛は本物だった。焼かれるように皮膚は熱いし、息を吸うごとに肺が燃えるようだ。口元を手で覆って、思わずその場に崩れ落ちた。
「その様子だと、炎の再現は上手くできているみたいね。実はちょっと自信がなかったのだけど、成功したようで良かったわ」
悪魔の声が遠くで聞こえる。返事をする余裕はなかった。
一瞬の、全身を燃やされる苦痛を我慢してでも炎の中に飛び込んで安全な向こう側へ逃げるべきだと頭の中では考えているのだが。どうしても立ち上がれなかった。魔法を使うという考えもどこかへ飛んで行っている。
だって。
熱い。嫌だ、助けて…!
頭の中でリフレインする声。ディアリアのものではない。前世の、『私』のものだった。
『私』は、不慮の事故――火事に巻き込まれて命を落としたのだ。どうしてそうなったのかは、あまり覚えていなかった。自分の死の記憶なんて一刻も早く忘れたいものだからか、その辺りが曖昧なのだ。
ただ覚えているのは、炎に囲まれる恐怖。煙による息苦しさ。感じたこともない熱気に、肌や喉を焼かれる感覚。想像を絶する苦痛。
「だれか…」
頭を抱えて、ただ助けを請う。
この声は、一体どちらの私だろう。
「あら、ちょっとやりすぎちゃったかしら。じゃああと少ししたら…」
ばしゃん、とすぐ傍で水の弾ける音が聞こえた。同時に温度が急激に下がっていくのが分かる。
驚いて顔を上げれば。
「いったい何をしているんですか?」
赤い瞳でこちらを睨みつけるアレク様が、そこにいた。