彼が喫茶店を開いた理由
カズヤは夢を持ったことがなかった。あの時までは。
幼馴染に拒絶をされてから、自身の存在がよく分からなくなっていた。元々やりたいことがあったわけでもなく、かと言って決まったレールも上を歩くだけの存在になるのも違うと思い、なんとなく日々を過ごしていた。自分はきっと、このままぼんやりとしたまま人生を終えるのだろうと。
きっかけはなんだったか。残暑が猛威を揮っていた時のことだ。母に頼まれたおつかいの帰り道、小さな喫茶店が目に入った。一見、どこにでもあるような喫茶店。だがカズヤはそこに惹かれるように足を運んだ。今ここで入らないと後悔する、なんて少し脅迫めいた気持ちを抱きながら。
「いらっしゃい」
小さな鐘が頭上で鳴り驚いていると、マスターであろう老人がカズヤが出迎えた。お好きなところにどうぞと少しぶっきらぼうに話す彼に緊張しつつ適当な席に座れば、彼は小さなメニュー表と水を持ってくる。
「お決まりになりましたらどうぞ」
カウンターに戻りグラスを磨く彼の姿をぼうっと見つめ、ハッとする。勢いのまま入ってしまったが、持ち合わせがあるか分からない。多少は入っていたはずと思いながらメニュー表を開けば、優しい色合いの絵が目に入り、世界にのめりこんだ。気になるメニューはたくさんあるが、一番気になったチーズケーキを注文した。注文を聞いて彼は小さく返事を師、奥に引っ込んでいく。
かっこいい。大人と子ども、どちらにもなり切れない青年が抱いた感情はシンプルなものだった。老人が持って来たチーズケーキを一口食べ、あまりの美味しさに目を開く。チーズの使い方を分かっていると言わんばかりに素朴ながらも優しい味が広がり、食べ進めるたびに穏やかな気持ちになる。
初めてだった。食事でこんな気持ちになったのは。その日からカズヤは休日になるとその喫茶店に足を運んだ。老人は何も言わずカズヤを出迎えるだけだったが、干渉されないことに居心地の良さを感じていた。
あの時の自分がするべきだったことはこういうことだったのかもしれない。過度に干渉せず、時には助言をし人に寄り添う彼の姿がとても綺麗で、こうなりたいと思った。この時初めて、カズヤは思ったのだ。
──彼のような大人になりたい、と。
そう決めてから、カズヤがとった行動は早かった。彼を観察し、真似をする。何事も模倣から始まるとはよく言ったものだ。彼の立ち振る舞い、口調、服装……真似しやすいことから少しずつ始めていった。でもなにか足りない。彼が持つ空気を纏うにはどうしたらいいのか。コーヒーを淹れる姿を見ながらカズヤは考える。
ふと、老人が口を開いた。
「俺の真似をしてなんのつもりだ坊ちゃん」
「ぼっ……」
坊ちゃん呼びに気を取られている間に彼の話は続く。
「俺なんざの真似をしたって意味ねえぞ」
「どうしてですか?」
「坊ちゃんは俺になれない」
「そんなことはないと思うんですけど……」
「あるさ」
コーヒーの入ったカップが目の前に置かれる。ワケが分からず老人を見つめると彼は言った。
「俺のおごりだ」
飲みなと言われ戸惑いつつもコーヒーを口に運ぶ。あまりの苦さに顔をしかめると、老人は豪快に笑った。バカにされた気がして口を尖らせていると、彼はミルクを差し出す。コーヒーに注げば、柔らかな色が浮かび上がる。
「でも俺も坊ちゃんにはなれない」
彼の言葉が耳に届く。
「そのコーヒーだって同じさ。ミルクを入れてしまえばブラックには戻れないし、逆にミルクを入れないとそのままだ。俺達には個性があって、それはその人が持つ小さな輝きなんだ。お前さんがやろうとしていることはそれをなくすことだ」
彼が発した言葉の意味を咀嚼する。理屈では理解できるが、彼の言いたいことは別のような気がして釈然としない。眉をしかめていると、彼がまた豪快に笑った。
「はじめは分からないもんさ」
「……」
「でも坊ちゃんは俺の言葉の意味を理解しようと考えている」
それだけでも充分立派だよ。そう呟く彼を見る。こちらを見る彼の瞳は優しさに満ちていて、照れくささが勝り、視線から逃げるように俯く。
「人間ってのは、根っこのところは変わらないのさ」
ほら、と少し不格好なクッキーを差し出され受け取る。食べないのももったいないので頬張ると、少し強めに頭を撫でられる。
「そこが分かれば、俺の真似なんざしなくても坊ちゃんは生きていけるさ」
「……それが分からないからおじいさんの真似をしてるんです」
「坊ちゃんの年齢で分かってるやつなんざいない。俺だってわかったのがつい最近なんだから」
「そうなんですか?」
「嘘、本当は五年前」
「からかわないでくださいよ!」
「悪いねぇ、坊ちゃんみたいな子を見るとつい、な」
ケラケラと笑う彼につられカズヤも笑う。ここに来ても自分という存在が分からなかったが、ほんの少しだけ自分と向き合えた気がした。それと同時に心に強く決めたのだ。彼のように喫茶店を開いて、困った人の拠り所になれたらいいなと。
「……爺さん。俺、あんたみたいになれてるかな?」
グラスを拭きながら、小さく呟く。その声を拾うものはいないが、カズヤの心の内側がほんのり温まった気がした。
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