パンケーキ3
ぼうっとしつつも、思考というものは存外働くものらしい。イリーナはタオルに視線を落としながらあの時ちゃんと言い返せたら、あの時抱いた違和感に気づいていたら、あの時試験を受けることを決めなければ、あの時──
──教師になるなんて思わなければ。
「っ、」
自身の思考に驚き、体がぞっとした。視界の端でタオルが落ちた気がしたが、気に掛ける余裕がない。
(いま私は、なんて考えた……?)
今まで以上に鼓動が早くなる。抱いたことのない考えにイリーナは恐怖した。だってそんな、おかしい。自身を落ち着かせようと深呼吸をするが、上手く息ができない。落ち着け、落ち着けと思っても、あの時の言葉が浮かんでくる。
──教師になりたいなら、私の愛人になればいい。
初めて向けられた視線は恐怖だった。震える体を抱きしめ、息を吐く。ここに彼らはいない。いないはずなのに、いるような気がして辺りを見渡す。見知った内装が目に入り、肩の力が抜けた気がした。
(そうだ、確かレントと一緒にここに来たんだっけ?)
曖昧な記憶を辿りながら見上げれば、見慣れたシャンデリアが目に入った。カズヤがいないのは分かるが、レントがいないのはどういうことだろう。暖炉に火を灯してくれたとはいえ、少し肌寒い。体を震わせながら暖炉の前に座れば、暖かい光がイリーナを出迎えた。しばらく暖を取っていると、余裕が出てきたのか、音が耳に入り顔を向ける。どうやら厨房の方から音や話し声が──正確には叫び声に近いものだが──聞こえる。彼らはそこにいるらしい。
いったい何をしているのか、気になったイリーナは厨房を覗き込むことにした。声に引かれるように一歩一歩足を動かせば騒がしさが増す。顔を出して覗けば、カズヤとレントが何かを作っていた。
「どうした?」
気が付いたカズヤが声を掛ける。イリーナは少し視線をさまよわせながら、小さな声で言った。なんだか悪いことをした気分に思えたのだ。
「話し声が聞こえたから気になって……」
「うるさかったか?」
「少し、でもちょっと安心した」
「安心?」
そう首を傾げるカズヤにイリーナは微笑む。
「そ、マスターたちはいつも通りだなって」
「何事もいつも通りが一番だからな」
「マスター! またひっくり返すの失敗した!」
「ハハッ、意外と不器用なんだな」
「うっせ!」
レントが奥から叫ぶのを、カズヤは微笑ましく見ている。さっきから騒がしかった原因はこれか。イリーナは納得すると奥にいるであろうレントにじとーっとした視線を向けた。視線に気づいたカズヤがまた笑うと席に戻っててくれとイリーナに声を掛けた。
「なに作ってるの?」
「パンケーキ」
「パンケーキ? なんでまた……」
「まあまあいいから、出来上がりをお楽しみに」
ほら行った行ったと軽く手で追い払われ、少しムッとしつつも席に戻る。ホールに戻れば、暖炉のおかげで少し暖かくなっていた。いつもの席に座り、どんなパンケーキが来るのか想像する。普段イリーナが食べるパンケーキは牛乳を多く入れた薄い生地のものだ。カズヤのことだから、なにかあるに違いない。どんなものが来るのか分からなくパンケーキのことばかり考えていると、ぐうとお腹が鳴った。
(こんな時でもお腹は空くものなんだなぁ)
小さくお腹をさすりながら、出来上がりを待つ。しばらくして、カズヤたちがホールにやって来た。トレイに乗せたパンケーキは、一見なんの変化もない。期待しすぎたかな、なんて思っていたら小さいカップに入ったなにかが置かれ、首を傾げた。手に取ってみればチョコレートのようだった。
「チョコレート?」
「トッピングにな。その前に仕上げがあるけど」
「仕上げ?」
パンケーキに仕上げなんてあったっけ? そう思っていると、カズヤはパンケーキの上に白いものを置いた。それを認識した瞬間、イリーナの目が輝く。
「アイスクリームだ!」
「それにトッピングのチョコをかけて食べてみな」
「分かった」
言われた通りチョコレートをかければ、まんべんなく広がっていく。すごく美味しそうに見えて、イリーナは思わず小さく息を吐いた。いただきます。そう挨拶をして、イリーナは一口サイズに生地を切り、口に運ぶ。
生地の温かさとアイスの冷たさが意外と合う。ミルクの風味がパンケーキを優しく包んでいる気がした。だがチョコレートの苦みがいいアクセントとなり、優しい味だけで終わらない。チョコレートとパンケーキだとどうなるのか気になってアイスが乗っていないところを食べれば、チョコレートの苦みが強く主張してくる。だが、それがいい。甘いものと苦いもの、両方食べたいときにはぴったりかもしれない。食べ進めれば食べ進めるほど、心が落ち着いていく。
パンケーキを食べながら、イリーナは先ほどのことを思い返していた。確かに彼らの言動には傷ついた。だからと言って夢を諦めるのはまた違う気がする。あの時言い返せなかったのは悔しいが、絶対に教師になると決めたのだ。
そうか、悔しかったのか。パンケーキを見つめ、イリーナは黙り込む。本当は言い返したかったのだ。だけど負けてしまった。彼らの圧に、恐怖に。悔しい、その感情がイリーナを包み込む。言い返したらどうなってたかは分からない。だが言わないよりはマシだったと思う。
(……言えたのかな)
パンケーキを食べる手が止まる。結局はたらればなのは分かっている。でも心にくすぶる後悔は消えてくれない。黙々と食べていると、カズヤに声を掛けられた。
「頑張ったな」
「……!」
「何が起こったかは知らないし聞かないけど、イリーナが今日まで頑張ってきたことは知ってる」
「……うん」
「辛かったら一度休めばいい」
「……休んでいいの?」
「ああ、むしろイリーナはがんばりすぎてるくらいだよ。な、レント」
「え、お、おう……」
「どうしたんだ急に。ああ、そうかこのパンケーキレン……」
「はいストップ! これ以上は言うなよ!」
わちゃわちゃしている二人の姿がおかしくて、思わず笑ってしまう。二人はそんな彼女の様子に顔を見合わせていると、すすり泣く声がした。ぎょっとしつつも声の方に目を向ければ、彼女はぽろぽろと大粒の涙を流していた。
「あれ、なんか安心しちゃって……」
そう涙を拭うイリーナを二人は黙って見つめ、静かに椅子に座る。涙を流し続けるイリーナに優しく声を掛けた。
「泣きたい時に泣きな。ここには俺らしかいないから」
「……うん」
彼の言葉に甘えるように、イリーナは静かに涙を流した。
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