パンケーキ 2
どうしたらよかったのか、冷たい雨に打たれながらイリーナは考える。同性の受験者の顔色が悪かった理由が分かってしまいイリーナは分からなくなっていた。彼女たち顔色が悪かったのもこのせいかと。あの時の自分に言ってやりたい。甘い考えは捨てろと。彼女たちが受けた苦痛が自身に降りかかるのだと。
足先が冷たい、歩けば歩くほど感覚が分からなくなる。頬にしずくが当たるたび、涙なのか分からなかった。どこに行きたいのかも、向かえばいいのかも分からない。足元から徐々に体温が消えていく。
父たちが言っていたのはこのことだったのか、イリーナは反対する父の表情を思い出す。あんなに反対していたのもこういった背景を知っていたからかもしれない。だとしても、イリーナ自身が止まる気がなくて諦めてしまったのだろう。
(お父さんの言うことを聞いていたら良かったのかな)
分からない。あれこれ考えていても、ずっと暗い道を歩いているようで答えが見つからない。自身の正解がなんなのかも分からない。底なしの思考に陥りながら、イリーナは歩き続けた。過ぎ行く人が不安そうに彼女を見るが、気づくはずもなく。一歩、一歩と足を動かすたびに、しずくが跳ねる。
「イリーナ!」
誰かが名前を呼んだ気がした。振り返って確かめる前に腕を引かれる。
「何やってんだよこんな所で!」
レントがこちらを見降ろしながら声を荒げている。見知った顔が近くあり、安心したのイリーナは視界をさらに歪ませた。
「レント……私、だめかも」
「……は?」
「女だからって、どうしてあんなこと言われないといけないのかな。なんで女は結婚があるから教師にはなれないっていうのかな?」
「おい、イリ……」
「どうして!」
彼女と目が合い、レントは息をのむ。彼女の瞳は暗く濁んでおり、今まで見てきた強い光が消えかかっていた。イリーナは先ほどの言葉を思い出す。
──教師になりたいなら、私の愛人になればいい。
「それでもなりたいなら愛人になれって何……? 私は恋愛ごっこがしたくて教師を目指していたわけじゃない! 学びの尊さを、いろんな人に伝えたいからなりたいの! その先輩にあたる人たちがこちらの人権をいいように使おうとするのはなんで……? 私は、私たちは! かわいい人形なんかじゃない!」
叫びを上げ、どうしてと崩れ落ちるイリーナをレントは支える。慰めの一言をかけようとして、口を閉ざした。話を聞いただけで知った気でいるのはとても危険だ。だがイリーナの様子から試験中になにかあったのは事実。どこまで踏み込んでいいのか分からず、レントはただ彼女が濡れないよう傘を差し出すことしかできない。
「どうしたんだ二人とも!」
聞きなれた声がして振り返れば、カズヤが目を丸くしてこちらを見つめていた。
「なにかあったのか。……このままだと風邪を引く。俺の店が近いから雨宿りしていきな」
カズヤに連れられ、二人はその場を後にする。レントはイリーナを支えるように歩く。その間も、イリーナはただ、黙っていた。
「今火をつけるから待ってろ」
店につき、カズヤは火種を取りに奥に引っ込む。沈黙が二人の間を流れ、レントは彼女の様子を窺うことしかできない。イリーナは髪から落ちていくしずくをただ見つめていた。
「おまたせ、これで拭いな」
「ありがとうございます」
「……」
差し出されたタオルを受け取る。イリーナもとカズヤが促せば、彼女も動き出す。人形みたいだ。レントは先ほど彼女が言っていた言葉を思い出す。肩を叩かれ顔を上げると、カズヤは奥を指さした。意図を察したレントはカズヤの後を追う。
「何があったんだ?」
「俺も詳しくは知らないんですけど……」
視線の先にいるイリーナに目を向けたあと、レントは息を吐く。自身が思っている以上に気を張り詰めていたらしい。
「多分、試験でなにかあったんだと思います。愛人とかそんなこと言ってたので」
「は?」
「うわ怖、言ったの俺じゃないっすよ!」
「悪い悪い。その話が本当だとしたら、だいぶキツイな……」
「あー、まぁ、そうっすよね。なんていうか女性教師がいないのも納得というか」
「……」
「どうかしたんですか?」
「ああいや、俺のいた国でも似たことがあったなって」
「本当ですか」
「ああ。例えば女性の受験者だけ減点したり、面接に来た受験者に「相談に乗る」って言って暴行したりな」
「なっ、そんなことがあっていいんですか!」
カズヤの例えにぎょっとすると同時にレントは先ほどイリーナが話していた発言を思い出す。
「……いや、あるからイリーナみたいになる人がいるんですよね」
「そうだな。理由としては「女性は結婚、出産があるから現場に入れない」っていうものが多いな」
「さっきあいつも言ってました。『結婚があるから教師になれないって』」
「職業選択の自由と言えど、実態はそんなもんさ。だからと言ってイリーナが夢を諦めるのもおかしいがな」
「でもどうしたら!」
「そこがまた難しいんだ。俺たちが騒いですぐに解決するものじゃない」
「そうですけど! ……俺、悔しいんですよ」
そう俯くレントも体は震えていた。
「あいつが教師になるために努力したのを見てるからなおさら悔しくて」
「……」
「俺もあいつの邪魔をしましたよ。でもあいつは諦めなかった。あいつが強い奴ってのは分かってる。だから! こんなところで終わって欲しくないんすよ!」
レントの言葉に目を開く。彼はこちらの言いたいことが伝わったのか、自嘲するように言った。
「今更何言ってんのかって思うかもしれないですけど、でもこれは本心です」
「……レントも成長してるんだな」
「なんすかいきなり。夢を持てない俺でも、応援くらいはできますし」
そう言って顔を逸らすレントに和みつつもカズヤは考える。彼女に目をやれば、いつもの快活さが消えてしまっているのか、ぼうっとした目でタオルを見ている。自分にできることは限られているかもしれない。でもやれることがあるとするなら──
「今の俺たちにできることは」
「できることは?」
「イリーナの心のケアだ」
レントにエプロンと着替えを渡し、カズヤは言う。差し出されたそれらにレントが目を丸くしていると、彼は頷いた。
「作りたいものがあるんだ、手伝ってくれ」
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