苦い過去には一杯のコーヒーを
またやってしまった。二人が帰った店の中で一人ため息を吐く。自身がお人よしなのは分かり切っていた。故に今回の件に深く介入してしまったことも、自身の気質からだろう。言ってしまった以上、イリーナを助けたい。それは本心であった。
だがカズヤは一つだけ懸念点があった。それはまた同じことを繰り返してしまうのではないのか。そんなことが頭に浮かぶ。いや、同じことにならないよう気を付けるしかないのだ。
──どうやって?
頭に浮かんだ小さな疑問は留まることを知らない。水に絵の具を入れるとその色に染まるように、カズヤの思考が一色に染まっていく。彼女一人になった時にまた絡まれたら? ああいうタイプは逆上しやすい。隙を伺ってやろうとしてくるだろう。だがいつもそばにいることはできない。何かいい案はないのか。一人悩んでいるとあの時のことを思い出す。
──それは忘れもしない、ある夏の日のことだった。
高校生になって初めて迎えたとある夏の日、カズヤは幼馴染と教室でのんきに会話をしていた。彼女は酷く臆病ながらも心優しい娘だった。優しい人とは? と聞かれたらカズヤは真っ先に彼女のことだと答えるだろう。他人から見ても優しい分かる優しさを持ち合わせていた。はじめは課題が面倒とか、部活はどうするのかといった些細な会話だったのに、どういった流れでその話になったかは記憶が曖昧だ。だがカズヤは話をする彼女の不安に満ちた瞳を見て、助けたいと思ったのは覚えている。
隣のクラスの男子に付きまとわれている。短い言葉を言い放った彼女の声は震えていて、恐怖に怯えているのは明白だ。彼女も言うつもりはなかったのかカズヤに一言謝罪をし、逃げるように去っていく。消えていった彼女の背中を見つめながらカズヤは吐露された言葉がどうしても気になって、数日彼女を観察し気づいた。名前も知らない一人の男子生徒が、彼女に付きまといからかっている。カズヤから見て不快なのだから、彼女からすればもっと不快だろう。様子を見ていた何人かの生徒が二人を見るが、助ける素振りはない。
助けなければ、この時カズヤはそう思った。一度彼と話をすればきっと分かってくれるかもしれない。カズヤは男子生徒に話しかけ、なぜ彼女に付きまとうのか、彼女が困っているのですぐにやめてほしいと言う旨を伝えた。
──結果から言えば、それが大きな間違いだった。
彼はカズヤの話を聞いて激昂し、あろうことか殴り掛かってきた。咄嗟のことで対応できず、そのまま殴られてしまう。騒ぎを聞きつけてやってきた教師たちに引き剝がされるが彼はカズヤに怒りの言葉を吐き散らし暴れていた。あまりの異常さにカズヤは茫然と彼を見つめることしかできない。
怖かった。初めて向けられる悪意の醜さ、異常さにカズヤはおののいた。彼と目が合う。鋭い針のようなそれがカズヤに刺さった気がして、吐きそうになったがなんとか堪える。やがて彼は教師たちに連れられ姿を消した。カズヤもやって来た担任に手を引かれ、その場を後にした。
翌日から数日の間、カズヤは学校に通うことができなかった。彼女のことが気がかりだったが、それ以上に恐怖が勝った。部屋であの時のことを思い出していると呼び鈴が鳴る。時計を見れば正午を過ぎたばかり。宅配だろうかと思い扉を開ければ、彼女が目の前にいた。制服を着たままなのでおおかた早退したのかもしれない。
「……どうした?」
「……」
嫌な予感がした。湿った汗がじんわりと肌の上を滑るような。すぐそばにいるのに彼女が遠く感じる。声を掛けようにもうまく言葉が出ない。気まずい空気の中、先に話しかけたのは彼女からだった。
「ねぇ、どうしてあんなことしたの」
「……」
答えられなかった。君のためにした、だなんて。そんなこと言ってしまったら彼女が更にどこか行ってしまいそうで。適切な言葉が見つからず黙っていると彼女はそれを見越していたのだろう。こちらを憐れむような、それでいて泣きそうな、なんとも言えない表情をしていた。全てを見透かしているような、そんな顔。
「あのね、カズヤ君」
「……なに?」
「私ね、今度引っ越すんだ」
「え?」
突然のことに言葉を失っていると彼女は笑う。こちらのことなど分かっていると言わんばかりに。
「前々からお父さんたちに相談していたの」
彼女の言葉が通り抜けていく。そこから先はなんて言っていたかは覚えていない。気が付けば彼女は目の前からいなくて、部屋に引き返したがその足取りは鉛のように重かった。バレていたのだ。自分なら何とかできるという傲慢さが。部屋に戻ってから自身の醜さに全て吐き出してしまった。
結局、彼女に謝ることができなかった。あの時話していた通り、引っ越してしまったから。担任からお前のせいじゃないと言われたが、自身も原因の一つではないかと今でも思っているし、後悔もしている。あの生徒が彼女に付きまとったのも、落とし物を拾って届けたからという些細なことだった。彼曰く「一目ぼれ」だそうだ。
許せなかった、彼女の優しさを無下にしたことが。彼女の気持ちを知ることもしないで自分の意志だけを押し付ける気持ち悪さが。だがそれはカズヤも同じだ。彼女のことを助けられると思っていた自分も彼女の気持ちに寄り添えなかった。
「……分かってるよ」
コーヒーの入ったカップに映る自分の顔を見て、カズヤは苦い顔をする。分かっている。イリーナと彼女を重ねていることも、こうして動くと決めたのも全て自分のエゴだと。傲慢と言われようとこれが自分なのだから。同じ轍を踏まないようにイリーナを守りたい。
「……よし」
コーヒーを飲み終え、席を立つ。口内に残った酸味が、苦さを流してくれた気がした。
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