カレー 3
家族とは何か。その問いの答えが見つからない。ブランはあの時のエレインの表情が忘れられなかった。なぜならそれはかつて自身が両親に向けた表情だったからだ。かつての時分もああだったのかと、過去を振り返る。
ブランの両親はよく言えば厳格、悪く言えば支配的だった。貴族とは何かと滔々と講釈を垂れ流す父、過干渉な母。そのような環境で育った当時のブランは意思のない人形そのものだった。自由のない生活を強いられ心苦しかったのだと今なら思う。意思のない者が自ら行動をすることはできるだろうか? ──否、できているならとっくのとうに自身の人生は大きく変わっていただろう。
そんな時に出会ったのが彼女──現在の妻だった。心優しい彼女は自分の話を親身に聞き、寄り添ってくれた。道を指し示してくれた。
彼女はブランにとって、女神のような存在だったのだ。彼女を手放したくないブランは両親の反対を押し切り無理やり結婚をした。この時初めて両親に抗ったなとブランは思う。と、同時に自分にも意思はあったのだと気づいた。そして誓った。彼女と幸せな家族になろうと。
──今思えば、浮かれていたのだろう。自身の幸福ばかり気にかけていた罰かもしれない。
長男を出産してから彼女の様子がおかしくなっていった気がする。こちらの顔色を窺うばかりになってしまった彼女を問いただせば、両親が彼女に心無い言葉を言い放っていたことを知った。ブランはこの時、自身の中で何かが壊れた気がした。両親はそこまでして自分を支配したいのかと、彼女の笑顔が消えていくたびにブランは焦りを募らせる。どうにかしようと手を尽くしても、彼女の笑顔が遠ざかっていく。
決定打になったのは、エレインが産まれた時だ。両親は産まれたエレインに文句を言い始めたのだ。男の子を産んだのなら次は女の子を産むべきではないのかと。そのようなことを言われても、性別など分かるわけがない。なぜ女の子に執着していたかはわからない。だがあの両親のことだ。従順な人形が欲しかったのだろう。
初めは抗議した。産まれた子に対していう言葉ではないと。だが両親は聞き入れるどころか、逆上し彼女に心無い言葉を言い続け、ブランの見えないところでいびり倒してきた。
──今までの積み重ねで、彼女の心が折れてしまったのは言うまでもない。
仕事から帰宅した時、エレインの様子を見ようと部屋に入った時だった。薄暗い部屋の中に彼女がたたずんでいる。いったい何をしているのか明かりをつけ声を掛ければ、彼女は視線をさまよわせたあと、涙を流した。
──あの子を愛することができない。
彼女からそう告げられた時、言葉をどう返したかは覚えていない。ただ一つ確かに覚えていたのは、このままでは彼女が目の前から消えてしまう。それだけだった。
二十時。時間通りにブランが店の前につけば、香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。同時にお腹が小さくくぅ、と鳴り苦笑してしまう。早く帰るつもりだったから夕食は摂っていない。喫茶と看板にはかいてああるので、何か軽食はあるかもしれない。扉を開ければ、カランカランとベルが鳴る。音を聞きつけたカズヤが厨房の奥から顔を出した。
「こんばんは」
「こんばんは。昨日はすまなかったね」
「お気になさらず、エレインはもう少しで出てきますよ」
それまで席にどうぞと案内され、近くの席に座る。おおかた、荷物でもまとめているのだろうか。エレインが出てくるのを待っていると、グラスを置かれた。何事かと差出人を見つめれば、彼はこう声を掛ける。
「ところで夕食はすませましたか?」
「いえ……帰ってからいただく予定です」
「ならちょうど良かった」
「良かった……とは?」
その言葉を待ってましたと言わんばかりに彼は笑う。まるでいたずらっ子のように見えた。
「実は今日のメニュー、エレインと作ったんですよ」
「……あの子が?」
「ええ、一生懸命に作ってました」
「そうか」
「良かったら食べていきませんか?」
「……なら、少しだけ」
「かしこまりました」
にこにこ話す彼の勢いに負けたわけではない。ただ、あの子が作ったものを見てみたいと思ったのだ。これは罪滅ぼしだ。あの子とまともに向き合わなかった罪。やり直しを望んでも叶わないことことはわかっていても、縋りつきたいと願うのは愚かなことだろうか。一人考えていると、カズヤが遮るように厨房に向かって声を張った。
「エレイン、カレーを一つ」
「はぁい」
返事が聞こえた後、少し時間を置いてエレインが厨房から出てくる。緊張した様子で彼は店の中を歩くと、ブランの前に立った。そしてカレーが入った皿を置き、軽く一礼する。
「カレーです」
声色から緊張していることが伝わる。ブランは礼をし、スプーンを手に取る。先ほど店の前で香っていたのはどうやらこれのようだ。カレーをすくい、一口食べる。スパイスが口内に乗り込んだかと思えば、野菜の甘味がまろやかにしてくる。肉の弾力と煮込んだ野菜の柔らかさが良いアクセントとなり、噛めば噛むほど味が出てきてカレーの深みを増していく。立場柄、あまりこういったものは食べないが、ブランはどこか懐かしさを感じた。
「美味しい……」
静かにつぶやくと、ほめられたことが嬉しいのだろう。エレインの顔が明るくなる。
「本当!? 野菜は僕が切ったんだよ。あ、あとねお肉も焼いたんだ」
話したくて仕方がないのだろう。得意げな様子で話す息子の姿をブランは相槌を打ちながら見つめていた。エレインとこうして話したのはいつぶりだろうか。こんなにいきいきと話す彼を見たのは初めてかもしれない。本当はエレインもこうして話したかったかもしれない。しばらく話を聞き続けていると、彼はハッとして黙り込む。どうかしたのかと尋ねれば、エレインはこちらの顔色を窺うようにおずおずと聞いた。
「僕だけが話してばかりだから……つまらないかなって」
その様子にブランは泣きそうになる。この子をそうさせたのは自分なのだと。彼女のことばかり気にかけ、この子の訴えを無視し続けてきた結果がこれだ。ブランは息子を抱きしめる。突然のことに驚いた小さい体はびくりと体を震わせた。
「……すまない」
小さく告げられた言葉にエレインは目を開く。彼は何か言いたげに何度か口を動かすが、すぐに閉じた。なんて返したらいいかわからなかったのだ。
「ちゃんと見てやれなくてすまなかった。幸せな家族を作ると決めていたのに、妻を失いたくなくてお前の訴えを無視し続けて、結果お前を悲しませた」
「……お、とうさま」
ずび、と鼻をすする音がする。ブランは息子の顔を見ようと彼を離した。しっかりと見る息子の顔は、複雑な表情を浮かべており、瞳から大粒の涙を流している。
「ぼ、ぼくね、さみしかったんだ」
「……ああ」
「いつも、お兄様たちと話してばかりで、いやだった。ひとりぼっちで、さみしかった」
たどたどしく話す息子の言葉を、ブランは静かに受け入れる。今の自分にできるのは話を聞くことだけだ。
「ほんとは、お父様のこと、好きだよ」
「うん」
「ひどいこと言って、ごめんなさい」
耐えきれなくなったのだろう。エレインは声を上げて泣き出した。ブランは息子を抱きしめ、頭を優しく撫でる。しばらく二人は抱きしめあい、互いのぬくもりを感じていた。ブランは腕の中に収まるぬくもりを撫でる。今度は間違えないようにもっと視野を広げよう。これ以上同じ間違いを犯さないように、きちんと家族全員に寄り添えるように、今日という日を戒めよう。
──ブランはあの時の問いの答えを、自分なりに見つけた気がした。
「……一件落着、かな」
その光景をカズヤは安堵の息を吐きつつも、うらやましそうに見つめていた。自分は異世界転移したため家族と会うことができない。だからこそこうして家族と話し合えるエレインがまぶしく見えた。別に家族仲が悪かったわけではない。ただ何も言わずこちらに来たので、家族に別れを告げられていないのだ。こんな形で別れるなら、もっと家族と話をしていればと思う。
カズヤがエレインを気に掛けているのはシンパシーを感じたからだ。立場は違えど孤独を抱えている者同士、助けないという手はなかった。自身みたいになってほしくない。後悔をしてほしくない。それがカズヤのエゴなのは分かっていた。後悔する選択を取る前にちゃんと話をしてほしい。今の自分は後悔しかないのだから。
「……良かったな。エレイン」
静かに発せられたその声は、空に馴染んで消えた。
「ありがとうございました」
ブランが頭を下げる。つられてエレインも頭を下げた。カズヤは二人に微笑むと、エレインの頭を撫でる。
「うわっ」
「また遊びに来いよ。今度はお父さんと一緒に」
「時間が合えばね。……ねえ」
「うん?」
「今まで通り一人で来てもいい?」
不安げに聞くエレインの心配を吹き飛ばすようにカズヤは言う。
「もちろん、エレインにはたくさん絵を描いてもらわないとな」
「! うん!」
「カズヤさん。息子のこと、気に掛けて下さりありがとうございました。この子はきっと、あなたがいなかったらきっと……いえ、これ以上は控えましょう。息子とこうして話ができたのですから」
そう話すブランのエレインに向ける視線は優しい。あの後、互いに満足するまで話し合ったからか、視線に気づいたエレインは恥ずかしそうに微笑んだ。
「ありがとうね、お兄さん」
「またなにかあれば相談してくれよ? なんてったってここは、君を受け入れる場所なんだからさ」
「うん! 」
「エレイン、そろそろ」
「はーい、じゃお兄さん。また明日ね」
「ああ、また明日」
エレインは馬車に乗るために背を向ける。カズヤは少し大きくなったその背中を見送り手を振る。窓から顔を出し手を振るエレインの笑顔は、カズヤが今まで見た中で一番輝いていた。
エレイン編はこれにて終幕です。明日から新章が始まります。
読んでくださりありがとうございました。
新章もよろしくお願いします。