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5-4(贖罪)

 一足早く夜のとばりが降りた森の中では、誰にも聞こえないほどの小さな歌が響きわたっている。抑揚のない、平坦な歌である。聞く者は誰もいない。元々、人気のない森だ。

 深い森の奥に、洞窟がある。

 声は、そこから洩れている。

 生々しくない、どこか霞がかったような柔らかでしわがれている声と、硬く小さな、少女の声。

 魔道士ケイヤとリンだった。

 その奥には髪のない男も座していたが、五感を失った彼からは何も聞こえない。けれど彼からも、女性2人と同じ『力』の流れが起こっている。

“転移”の魔法だった。

 エノアはすでに去っている。今3人が唱えている分は、エノアと関係がない。去った者を、離れた場所から補佐することはできない。リンはウーザの袖とケイヤの手を握り、ケイヤはウーザの手の甲とリンの手を持っている。

 エノアの側へ飛ぼうとしているのでない。

 最初に感じた力。

 ダナのいる場所だ。

「大きな力でしたね」

“転移”の呪文を始める前、エノアが去った後にケイヤが口火を切った言葉である。

 エノアに置き去りにされたリンの無表情があまりに哀れで、ケイヤが居たたまれなくなって口にしたものだった。今まで、ずっと一緒にいたのである。少女の胸に何か芽ばえたものがあったのではないかと思えたのだ。

 合理的でない何かが。

「ダナの動いた先にエノアを“転移”させたが、どうやら失敗だったようじゃな。ダナの気とエノアが遠く離れてしもうた。だがエノアの近くにイアナの力を強く持つ男がおる。その者が剣と呼応すれば、エノアが再度“飛ぶ”のに支障はなかろう。あやつは、ここへは戻らんな」

 ケイヤはウーザ・リルザの思念を、ため息のイメージと共に受けとった。同意の心を送り返す。

「生き急いでこそ、若者です」

「あやつを見ておると、はて『力』とは無限であったかと思うことがある」

 リンはエノアを送り終わって疲労していたので、彼らの“念話”に耳を傾ける力を出せなかった。出せなかったが、それでも無限という言葉は胸に伝わってきた。エノアという古代語の意味を思いだす。

 リンは小声でケイヤに訊いた。

「エノア様は特別な方なのですか?」

 ウーザやケイヤも充分に不思議な存在だが、エノアのまとう『気』はその顔立ちと併せて、さらに玄妙さをかもし出している。ラハウも違った意味でとても霊妙だったので、そういうものかと思っていたのだが……。

 ケイヤの答は否だった。

 ただし、かなり不明瞭な答えだった。ケイヤも「分からない」と首を振ったのだ。

「エノア自身の『力』は歴代の魔道士と同じほどのものでしか、ありません。ウーザや、それこそラハウの方がはるかに強い。でも惹きつける何かをエノアは持っています。それが『力』の一端なのか、ただの人柄なのか、私には判断ができませんが」

「人柄」

 少女は自分でも気づかないうちに、少し首を傾げていた。肩に触る髪の束で我に返ったのだ。ケイヤは内心リンの仕草に微笑んだが、表面には出さなかった。

「ダナを滅すると急いて、あなたを置いていってしまった姿を、どう思う?」

「複数人の“転移”は力を消耗します。より早く動くために単独になられたことについて、どう思うかとお聞きになられるケイヤ様の真意が分かりません」

「そう……。けれど以前は一緒に転移したのよね。ダナを滅するために」

「あの時は、それが最良だったのでしょう」

 ケイヤの訊き方は柔らかい。柔らかいがゆえに真綿で首を絞められるかのような息苦しさを感じる。10歳の少女は、まだ自分の苦しさを表現するすべを知らない。

 それが他人の苦であったなら、彼女は何とでも言葉を当てはめただろう。

 ケイヤは自分の質問が時期尚早だったと知り、かもし出す空気の色を変えた。一瞬、洞窟の中にぱっと花が咲いたような、甘い風が吹いた。

「行こうと思います」

 リンとウーザを見すえて、紫髪の魔道士は提案した。彼女とてダナの魔道士である。一度かかわった以上、ここで退くなど気分が悪い。

 ダナ神の『気』は今朝、2度動いた。

 クラーヴァ国からヤフリナ国へ動き、そして、すぐに戻ったのだ。

 何をしに行ったものかは分からない。

 だが、戻るダナの『気』は、一度目より強かった。

 普通は一度魔法を使えば、しばらく動けなくなるほど疲労する。連続で使えても、2度目の方が強いことは、まずない。現時点でケイヤたちが思いつく結論は一つしかない。ダナ神はヤフリナ国で、新しい『力』の源を得たのだ。

「あちらの方向でマラナ神のものらしき力も感じられた。それかも知れんな」

 ごちたのはウーザだったが、ケイヤも同じことを考えた。思考はそのまま思念となり得る。同調したのだろう。

「そういえばラハウはあなたに、他の媒体を知らないかと尋ねておられましたね」

「すべての神を集めるつもりか」

 ウーザの声に応えるように、ケイヤは彼の手を取った。ウーザは自らの手を動かせない。ケイヤがリンに微笑んだので、リンも2人の手に触れた。

「辛いでしょうけど」

 ケイヤの声がリンの耳を撫でる。ケイヤの方が、ダナでなく安息の神ニユを関しているかのようだ。エノアの側で安息を得られる者などいるのだろうか、と思える。

 そう思って、リンはちょっと可笑しくなった。

 人柄だ。

「一緒に行きましょう」

 ケイヤが微笑む。

「ウーザは、手助けはして下さっても、それ以上を望んでおられない。けれど私はかかわると決めましたし、リン、あなたもそうだわ。動きたがっている」

「私が、ですか」

 誰に向かって吐かれた言葉なのかと疑いたくなるようなセリフだ。私見にも、ほどがある。そう思うリンの表情はやっぱりないままなのだが、ないと(・・・)いう表情(・・・・)が豊かな感情を表していることに、果たして彼女は気づいているのかどうか。

 ケイヤはリンのそれを笑う代わりに、彼女の手を強く握った。

 そうして詠唱が始まった。

 ケイヤとて辛く疲れきった体だったが、ここで、このリンを見放すことはできなかった。彼女はきっとダナとラハウに会い、何かを得るに違いない。いや何かを失う方かも知れない。

 それはケイヤの、確信に近い予感だった。寿命が見え始めた自分が、後継者の夢を見ているだけかも知れないが。赤紫の髪を一本の三つ編みにまとめている少女は、それより濃い色をした瞳をまぶたの裏に隠して、ひたすらに術を練っている。

 ケイヤはもう少しだけ、リンを強く掴んだ。


          ◇


 人を殺してから、初めて夢を見た。

 海戦の決着が気になるがゆえの夢だったのかも知れない。ラウリーが思いだす光景は、気を失う前に見た怒濤の大波である。剣を振りまわして魔法を使って、これで終わりだと思った瞬間に自分へ襲いかかってきた、塩辛い怪物。

 その怪物が、顔を作る。

 どことなくソラムレア兵のヨロイを着ている……と思った瞬間、水は本当にソラムレア兵になった。色が着いて血が流れ、恨みがましい目を血走らせてラウリーに向かってくる。足がすくんで動けなかった。夢の兵たちは、ラハウを前にするよりも怖かった。彼らはラウリーを恨む正統な理由を持っている。

 殺した兵たちの姿が鮮やかによみがえった。

 戦っている時は夢中で、誰が誰という区別もついていなかったはずなのに、彼らはちゃんと一人一人、別々の顔をしていた。数人が十数人になり、数十人になっても、すべて別人だった。

 でもクリフがいない。

「!」

 いないと思った瞬間、出現した。

 血みどろで。

 ラウリーに迫ってくる。

 血の涙を流していた。

 大波が襲いかかる。

 クリフは言った。

「お前も堕ちろ」

 クリフの背後でオルセイが、赤いマントをひるがえして笑った。

「!!」

 ラウリーは目を見開いて覚醒したが、体を動かせなかった。金縛りにあっていたのか、体が硬直していた。目尻を伝ったものが汗なのか涙なのかも分からない。光のない寝室はラウリーに目を開けているのか閉じているのかすらも錯覚させる。

 胸から首、顎から瞳へと自分の指を滑らせてみた。ちゃんと自分が存在している。手も足も。痛い箇所はない。ラウリーは手に力を入れたり、足の指を動かしたりしてみて、現実を味わった。

 目尻を濡らした雫を指先にすくい、舐めてみる。ラウリーは苦笑した。涙だって塩辛いのだ、舐めたって、どっちだか分からない。

 取りあえず今はもう泣いていない。それは自分の目だ、分かる。

「ふぅ」

 ため息と一緒に声を出す。耳に聞こえた。正常だ。

 だが、とても震えた声だった。背筋も寒い。心が冷える夢だった。

 まさか死んでしまったのかと疑いたくなる光景だっただけに。殺さないよと言った兄の言葉に、クリフも含まれていると思っていたのに。急に不安がのしかかる。

 あまりに暗かった部屋も慣れてくると、徐々に輪郭が浮かび上がった。扉の隙間から光が洩れていた。廊下は明るいらしい。

 ラウリーが身を起こしてサンダルをはいた時、行こうとした先の扉が音を立てた。ノック。続く声は、昨日の侍女ミヌディラのものだった。

「うなされる声が聞こえましたので……。果実湯をお持ちしましたが、お飲みになりますか?」

「……いただきます」

 入室を許されたミヌディラは、トレイをテーブルに置いた。その上に乗せていたロウソクの明かりを吹き消すと、室内に強い明暗ができた。廊下から伸びる四角い光が、ラウリーの足元に伸びた。

 その光の真ん中に、黒い人影が現れた。

「あ」

 ミヌディラではない。彼女は、壁に設置してあるランプに火を灯そうとしているところだった。

 火を入れてから、そのランプを持ってミヌディラがふり返る。ラウリーが声を上げた主を見て、彼女は慌てて壁にランプを設置して、うやうやしく膝を折った。

「オルセイ様」

 明るくなった室内に、兄の顔が露わになった。昨日と同じ笑顔。昨日と同じ距離。オルセイは戸口を少し入ったところから前には進まない。ミヌディラが丸テーブルの椅子をオルセイに示したが、彼は「ここで良い」と侍女を制した。

 オルセイが入室すると、背後の扉は別の侍女によって閉められた。昨日の入浴時にもラウリーの側には、ミヌディラの他に2人ほどが働いていた。衛兵らしき、皮のヨロイを着た男も歩いていた。

 クラーヴァ城の衛兵と同じ格好だった。

 ミヌディラの服装。

 ランプの形。

 クラーヴァの本。

「夢を見たわ」

 ラウリーはベッドに座って、兄を見た。オルセイがミヌディラに少し顎を向けたので、彼女は深い礼をしたままオルセイの側をすりぬけて退室した。再び静かになった室内に、一つだけのランプが夜を演出するかのように光る。夜明けはまだなのだろうか、空気が重い。だが眠る前とは微妙に違う気配を感じる。完全に外界と切り離された世界ではない。

「私、人を殺したの。無我夢中で。でも分かっていて殺したの」

 オルセイは黙ったまま、妹の独白に耳を傾けている。

「その人たちが出てきたの。兄さんもいた。……クリフも」

「そうか」

 兄の目から思考は読みとれなかったが、慈しむ表情は変わらない。変わらないから、ああ分かってくれているのだな──とラウリーは安堵した。だから言葉を続けることができた。

「許されないことをしたわ」

「分かっていたのだろう?」

 オルセイが嘲笑を口元に浮かべた。侮蔑を感じるのは、彼がダナだからだろう。やっと理解したのかと言われている気分だった。言われているのだろう。その通りだ。分かっていなかった。

「それでも生きるか?」

 そう訊いた時にはオルセイの顔は、また慈愛のそれに戻っていた。回答の分かりきった問い。兄との敵対が明確になっても、答は変えられない。ラウリーの信念でもあるのだ。

「生きるわ」

 オルセイは下がり、扉に背を預けて腕を組んだ。ラウリーの眼差しは気の強さを映す、輝く色になっていた。心なしか、瞳も髪も、さらに色鮮やかになったようである。オルセイはそれを見て歓喜を味わっていた。いや、ダナが、というべきか。

 ラウリーはまだまだ伸びる。

「逃げるか?」

 オルセイは余裕のある顔を崩さない。

「いずれ」

「その分だと、ここがどこかは分かったらしいな」

「隠さないでくれて、ありがとう」

 本当に所在を明かさず軟禁するなら、ラウリーの前からクラーヴァと分かる特徴をすべて取り去ることも可能だったはずだ。

「逃げることはできないぞ。生きている限り、お前の場所は分かる」

「兄さんも生きていたらね」

「言うようになった」

 オルセイは腕を組んだまま、くすりと笑った。刃向かわれることを楽しんでいるように見えた。

 ふとオルセイの気がそれた。中空を見る彼の目が険しくなった。

「確かにそうだな」

 険しくなっただけではない。浮かんだ笑みは暗いものだった。怪訝に思った瞬間、ラウリーにも感じられた。

「?!」

 体がきしんだ。空気の亀裂。心の破裂。何と形容したものか、形にならない。ラウリーの脳裏を目に見えない衝撃が駆けぬけ、それが魔法だと分かるまでには、しばらくかかった。このような感じ方をしたのは初めてだった。体中を締め上げられたように思えた。

 それほどに強い魔法が近くで動いたのか、それとも自分が強くなったのか。

 ラウリーが顔を上げると、オルセイが扉を開けているところだった。

「来る」

「誰が?」

 そう言いながらもラウリーの脳裏には一人しか浮かばない。

 オルセイはふっと微笑んだ。

 思わず走っていた。ラウリーは立ちあがり、扉に向かった。兄の笑みに、とてつもなく嫌な予感を抱いたのだ。

 殺さないよと言った兄の言葉に、クリフたちの無事を確信していた。

 でも誰も殺さないのは無理だと言った兄に、近い未来に起こるだろう戦いを予感した。

 それが今なのかも知れない。

 止められるかどうかを思案する余裕などなかった。ただ、止めたかった。

 近づくことすらできなかったが。

 ラウリーの足が止まったのは、オルセイから5イーク離れた場所だった。オルセイはそれについては何も言わなかったが、

「騒がしくなる。眠れ」

 とだけ言い残し、ラウリーをまたベッドに戻してしまったのだった。吹き飛ばされたにしては、ゆるやかな飛び方だった。

 ボフンと尻餅をついたラウリーは起きあがろうとした。くっと歯噛みして顔を上げ、オルセイを睨んだのだが、指の先すら動かせなくなった。“呪縛”だ。

 オルセイは一連の魔法を、ラウリーを見つめるだけで、おこなってしまった。呪文も口にしなかったし、手をかざすことすらなかった。どうして自分が一瞬でも兄から逃げようと決意できたのか、その愚かさを自嘲したくなる、圧倒的な『力』だった。

 ラウリーの意識が遠のいた。

 気絶させられたのだ。

 ベッドに背をつけたラウリーを確認して、オルセイは部屋を後にした。

「お前は堕ちないだろうな。例え、あいつが死んでも」

 オルセイの呟きは心を閉ざしていて、ラハウにも聞こえることがなかった。

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