5-2(変調)
城内にどよめきと戦慄が駆けめぐった。
明け方に再び訪れた衝撃は、リュセスのみならず『力』を少ししか持たない者をも震えあがらせるほどの毒に満ちた、大きな魔力だったのである。
リュセスは黒髪を振り乱して、汗だくでベッドから飛びおきた。下手をしたら今、目の前が廃墟と化しているのではと思えて、顔を上けられないほどだった。
自分の小さな体など息一つで壊れていそうな『力』。
昨夜に感じたものと同じものだ。いや昨夜より、はるかに強大だった。
日はまだ出ていない。閉めきった窓の隙間から、朝日が見えない。空気がしっとりと重い。だが、もう眠れなかった。眠れるわけがない。リュセスは昨夜と同じく、全身を総毛立たせていた。夜明け前の冷えた空気のせいばかりじゃない。
「ジェマ様……リュセス様!」
ほどなく、扉がダンダンと音を立てた。
リュセスはゆっくり顔を上げて、扉を見た。
入ってくる声は、同じく城に当直している魔法使いのものである。よく知った声が、おののき震えていた。リュセスはなるだけ硬くしっかりと、返事をした。
「落ちついて下さい、ミネカナ」
扉はまだ開けない。リュセスは話しながら、手早く長衣を身につけた。
「今のは……今のは一体?」
「私にも分かりません」
リュセスはせわしなく髪をなおしながら、自分を奮いたたせるために大きな声を出した。勢いをつけて立ちあがり、ローブを整えた。歩く足には力を入れられなくて、彼女は倒れこむように扉のノブに手をかけたが、開けた時には、皆に見せるいつもの顔になった。
「『魔力』であることに間違いはなさそうです。あなたも準備して下さい」
動揺を隠した声で言いきると、リュセスはまだ寝間着姿の同僚を隣室に押しもどした。
術を整え、『力』の元を探らなければならない。
城内はすでに騒然としていた。
ミネカナの後にすかさず、衛兵らしき者と侍女が2人、リュセスの側に駆けよってきた。青い顔をしている。リュセスはつとめて柔らかい表情を作った。
クラーヴァ国の、少なくとも城内での魔法の存在は、絶大に評価されている。やもすれば畏怖や侮蔑を感じることもあるが、こうした時にまず頼りにされるのは魔法師だ。しかも使い手の最高峰が当直とあれば、頼りにしないわけがない。皆、リュセスにすがる。
その期待から逃れてしまいたい、責務を負いたくないという甘えが通用しない世界に自分が入っていることを、リュセスはとっくに自覚している。
「すぐに何かが起きるような『力』ではありません」
リュセスは衛兵ら3人に言った。
嘘っぱちだ。根拠などない。──いや、ある。昨夜も同じ衝撃を感じたこと、そして今も昨夜と同じく衝撃が去ったこと。すぐに城が崩れるだとか嵐が起きるだとかいう兆候ではないようである。
今までに、こんな大きな魔力を感じたことがないだけで、本当はこれがもう兆候なんじゃないか? という気もする。だが、では、すぐに世界が滅びるかもなどと言って皆をおびやかせと言うのか……という話になる。
それほどに未知の力だ。
「とにかく動じないようにして下さい。下手に騒いでも、解決法がありませんから」
「ないのですか?」
侍女がリュセスに泣きついた。リュセスは内心、言葉を選び間違えたことに舌打ちしながら、侍女の腕に触れた。
「今から、それを探します」
「リュセス」
別の声が上がった。
今度は誰だと思いながらリュセスが目をやると、衛兵の向こうにイアナザールが立っていた。リュセスは思わず、さっと顔を赤らめた。一瞬でも不機嫌な顔を王子に向けてしまった自分を恥じたのだが、イアナザールの方は頓着していなかった。
その後ろにはイアナザール王子の親衛隊を取りまとめる隊長の顔もあった。確かノイエという名だったはずだと思いながらリュセスは、泰然としている軍人と王子に礼を尽くした。
「ご無沙汰しております、リュセス・ジェマです」
「ノイエ・ロズです」
中年の層を過ぎた頃の軍人は、丁寧な礼をした。イアナザールが前に進みでた。
「昨夜にも、同じ感覚があった」
「『魔力』です」
イアナザールの言葉に頷きながら、リュセスが答えた。
やはりイアナザールは昨夜の『力』も感じていたのだ。
イアナザールにも魔力がある。魔法を使う能力は持っていなくても、感知はできるのだ。彼が昨夜のうちにリュセスを訪れなかったのは、様子をうかがっていたためだろう。私兵であるノイエに待機を命じ、今朝の激動を感じて行動したのだ。
でなければ、こんなに朝早くにノイエがイアナザールと共にいるわけがない。
室内にある窓の隙間からと廊下全体に、朝の気配が漂いだした。光が強く差しこむ窓がなくとも、屋内であっても朝になると空気が軽くなり、どことなく明るい雰囲気になる。柔らかな光を感じて、皆、一瞬ほっとする。
その時。
「?!」
「ひっ?」
「わあっ」
その場にいた者が全員、めいめいに声を上げた。また同じ衝撃を受けたのだ。
同じ強さ。
同じ『力』。
朝の光が一瞬で闇に転じたように思えた。一度目には“不審”だった謎の力が、2度3度と続いて確定になる。皆が騒いだ。城内が一層、混乱を増した。廊下の向こうで複数の叫声が上がっているのが聞こえた。
その声の一つが徐々に近くなった。
新たにリュセスを頼ってきた者……と思って見ていると、それは王付きの侍女だった。
「殿下、こちらでしたか! 王が……ライニック王が!」
侍女は息せき切って、今にも彼女の方が倒れてしまうのでないかというような青ざめた顔で、王子にすがりついた。
『魔の気』にあてられたのだ。ただでさえ容態が良くなかったから。
「王様が奇妙なことを。この城内に禍々しい『気』があるとおっしゃられるのです」
父王の元に走りかけたイアナザールだったが、侍女の伝言に足を止めた。リュセスに視線を移す。リュセスは国王が気づいたことに複雑な思いを持ちながら、それを肯定しなければならなかった。けれど告げなければならないことだったのだ、国王のお墨が付いたと思えば、いくらか言いやすかったのも事実である。
「下方です」
諦めたような、怯えるようなリュセスの口調に周囲が戦慄した。
さらに、それを裏付けるように同僚の男も駆けよってきた。
「リュセス様、今……今この下から『力』を感じませんでしたか……?」
できれば自分を否定して欲しい、そんな問い。彼に是を与えるのは酷だったが、嘘はつけない。問うたミネカナの顔から、さらに血の気が引いた。
「場所は分かるか?」
「こちらです」
そう言いながらリュセスは、もう走りだしていた。消えかけている感覚が消え去る前に、場所を特定したかった。
イアナザールはノイエらにリュセスと共に行くよう命じて、父王の元へ向かった。
リュセスは階段をかけ降りながら、後方に説明した。
「魔力の波動は続いていません。すぐ消えてなくなってしまいます。また衝撃が来れば、また分かりましょうが……その時は城が崩れる時かも知れません」
リュセスの後に続いていた全員がどよめいた。不謹慎なと隊長ノイエが声を荒げた。
「訂正して頂きたい、リュセス様。魔法師様といえど発言に度が過ぎますぞ」
背後からかけられる非難の声を受けて、リュセスは一旦ふり返って素直に謝罪した。罰などは後でと言いおいて、再び駆け出す。自分の言葉が過ぎたなどと、リュセスはまったく思っていなかった。
城どころじゃない。
次にこんな大きな魔法が動けば、王都全体は消えてなくなっているかも知れないのだ。
などというセリフの方がもっと不謹慎で、もっと憤慨されるだろう。自分の謝罪一つで場が収まるなら、100回でも土下座ででも謝ってみせる。
慌てふためきながら城内を駆ける魔法師一行の様子に、異変を感じて騒然となっていた者たちも引き続いた。彼らの行く先に何かがあると、皆が感じたのだ。そこに辿り着いた時、リュセスたちの背後には20人ほどがひしめきあっていた。最初からいた衛兵やノイエが彼らに説明をして、場を鎮めようとしていた。そんな中でリュセスが彼らにふり向き、
「ここです」
と小さな扉を指さした。
確かに城内だ。だが使用人たちしか通らないような最下層の通路で、一番奥にある扉だった。誰も使ったことがないのではと思うほど、扉の金具に艶がない。侍女に鍵のありかを聞いても、誰も答えられないほどだった。
鍵束を侍女が取りに行った。その間リュセスは立つのも疲れてしまってノイエに支えられていた。気を張りつめていたためと、元凶が目の前にあって気分がすぐれないためだった。同じく魔法使いのミネカナも、青い顔をしていた。
鍵の束を持った侍女と共に、イアナザールが戻ってきた。
「国王様は」
腕の中に倒れてきたリュセスの言葉に王子は「大事ない」とだけ言い、
「ここか」
と扉を睨みつけた。
リュセスを支えたまま、王子手ずからが鍵を差しこんで行く。しばらく皆が息を詰めて見守った。
落胆の声は起きなかった。
多分一つも合わないだろうと想像できていたからだ。
ノイエがずいと前に出る。その手には斧が握られていた。全員が退き、輪を作って見守る中で、斧が高く振りあげられた。
バキン! と金属音が通路に響きわたり、侍女らは小さく悲鳴を上げて耳を押さえた。兵たちが扉に突進し、押し開けようとした。
だが奇妙な現象が起きたのだ。
「うわっ?!」
「痛っ」
突っ込んだ者らが同時に声を上げて、入り口に突きとばされたのである。
まるで入ることを拒絶されているかのように。
そこが壁であったかのように。
壁だったのか?
そう思って開いた扉を覗きこんだイアナザールの視界には、不気味な光景があった。
砕かれた錠前が石の床に落ちて、カァンと音を響かせた。響きわたるほど、全員が言葉をなくした。イアナザールが驚愕の声で、口火を切った。
「……地下だ」
呆然と言われた彼のセリフが何を意味しているのか、正確に分かる者はいない。イアナザールはこの時、脳裏の霧が晴れるような、ぼやけていた輪郭がくっきりと見えたような気分を味わっていた。
皆の目前に口を開けた空間は暗く、闇の中に石段を呑みこんでいて先が見えない。この城に地下なるものがあると、誰も知らなかった。憶えていなかった。忘れさせられていた。一体いつから──20年前から?
誰にも入って欲しくない扉だったのだ。
王族にさえも。
ラハウ。
浮かんだ名前に確証などなかったが、なぜかイアナザールは確信した。いなくなった宰相。存在すら知らなかった地下。拒絶する扉。消えたイアナの剣。自分に似た男がいた……気がする。
扉が開けられると同時に、イアナザールの記憶も変化したらしい。何かを思いだしかけている自分を感じる。平穏だと思っていた自分に、異変を感じる。
扉の向こうに伸びる、地下へと続く階段。
「どうすれば良いのでしょうか」
「扉は開いている。壁画ではないんですよね、そこの階段は」
先ほど入り口に突きとばされた2人が、泣き笑いのような表情で地下を指さした。信じられないものに遭遇した時、人は思わず笑ってしまうものらしい。かくいうイアナザールの口元も軽く引きつっていたことに、ふと気が付いた。
小さな声でリュセスが「ザール」と自分をいたわってくれて、イアナザールは「大丈夫」と腕の中にいる彼女に微笑みかえした。
おそるおそる、手を伸ばしてみる──すると。
弾かれた。
壁ではない。かといってゴムとも違う感覚だった。イアナザールの指先には、バチンと叩かれたようなしびれが走った。走ったと同時に、手がはね飛ばされたのである。かなり強い衝撃だった。手でこれなのだ、大の男が吹き飛んでも納得できる拒み方だった。
「こしゃくな!」
ノイエが扉を蹴破るように足を振りあげ、空間を蹴りつけた。
「よせ!」
「っ!」
制止が間に合わず、ノイエも吹き飛んだ。加える力が強いと、同じだけ返ってくるのだ。ノイエはしたたかに背を床に打ちつけた。金属でない奇妙な破裂音が、辺りにこだました。下っ端らしき兵が「隊長っ」とノイエをいたわった。
「何とする?」
イアナザールがリュセスを見た時、彼女は毅然と背を伸ばし目に力をこめた。
「伝令を出していただけますか。魔法使いと魔法師を全員、ここに集めて下さい」
リュセスがイアナザールの腕から離れて、扉の前にあぐらをかいた。疲れて座ったのではない。挑戦する顔だ。
「魔法なのか?」
イアナザールとて魔法の勉強はしている。だが、このような形は見たことも、文献で読んだこともない。リュセスが言った。
「“封印”の変形だと思います」
彼女は両手の平を合わせてダラリと下げ、すでに『気』を練りにかかっていた。その少し後ろに同僚の男も座り、他の皆はリュセスたちの気が散らないように、静かに退いた。
「開きそうか?」
「開けます」
リュセスはふり向きもせず、いつになく強い声音で言いきった。開けなければならないのだ。この奥のものを、そのままにはしておけないのだ。
「兵の用意をして下さい。この奥にいるものは……敵です」
人をすべて滅ぼそうとするかのような黒い波動が、微弱ながら流れてきている。廊下にあふれている朝の柔らかで爽やかな光は、地下からの闇に押しかえされ、そこにいる者すべてを冷気に包みこんでいた。