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5章・クラーヴァ行進曲-1(予兆)

 剣の城──“ケッサ・ギュステ”は、その名の通り剣を模して建てられた城である。鋭い形の塔が6本、建っている。だが、その外観は決して冷たいものではない。

 剣の柄に相当するフロアには華やかな装飾が施されていて、文化の高さがうかがえる。敷地内にも庭と畑が配置良く整備されていて、施設も揃っている、絢爛な城である。クラーヴァ国王都の誇りだ。

 そんな城に住む王族なのだから、さぞかし豪華な暮らしをしているのだろうと思われるが、実際にはさほどでもなかったりする。平民や庶民からすれば、確かに豪勢である。朝起きて顔を洗い、食事は一日、3食だ。普段着から宮廷着に着替えて政務をおこない、日が落ちたら夜着に換え、そして風呂に入って床につく。この中で庶民に可能なのは起床と就寝だけである。

 今は雪解け水で増量している季節なので、さほど水には困らない。王都の近くには大きな湖もある。それでも人々は毎日風呂に入るなどという贅沢ができない。

「東方の国では湯を用いず、熱した砂を体にかけて汗を出すことを風呂というとか」

 と言う女性の声は柔らかく、優しい。

 まだ20(はたち)そこそこといった風情である。肩でまっすぐ切りそろえられた黒髪が持つ艶は、毎日風呂に入れる者だけが持ちうるものだ。前髪も眉の辺りで揃えてあり、少し丸顔の彼女を幼く見せている。だが、その下で光る紺の瞳には、壮年かと思うほどの沈着さがある。

 彼女が話しかけた相手は、この国の王子だった。

 彼は夕食会を終えて就寝にいたる少しの合間を、くつろいでいるところだった。女性は長衣(ローブ)に身を包んでいるが、王子はガウン姿である。

 近頃は父王の体調がかんばしくないためもあり、王太子としてイアナザールが公式の場に出ることが増えた。いつも解放されるのは夜になってからだ。そして、また翌朝からは一瞬たりとも気の抜けない職務が始まる。

 黒髪の女性は、王子の自室に入ることを許されている人物である。

 けれど彼女はそのことを傲るでもなく恐縮もしない。占領しているのはイアナザールのソファだが、ゆったりと茶を飲む風情は堂々たるものである。イアナザールはその側に別の椅子を引っぱってきて座っている。木製なので座り心地は今ひとつだが、彼女がソファに座りたがるので仕方がない。仕方がないと思いつつ、イアナザールの顔はつい微笑んでしまう。

 彼にとって“落ちつける場所”は自室の、しかも“彼女の前”に限定されていた。

 つられて彼女も微笑んだ。

「何か?」

「砂の風呂を想像したんだ。さぞ熱いだろうなと。ネロウェン国だろう?」

「多分。私も又聞きなので、確かな話ではありませんが」

 イアナザールはそうかと呟いて、遠い目をした。

「いつか見たいものだ」

 東方の激動は耳に入っている。それがために忙しくもあるのだ、知らないわけがない。

 だが詳しいことまでは分からない。そのうち自分で確認に行く必要がある、そういう意味を込めて、イアナザールは言った。女性はイアナザールの含めた意味をくみ取り、複雑な顔をして頷いた。

「迂闊なことはなさらないで下さいませ、殿下。あなた様が長くご不在だったこと、あなた様に記憶がなくとも、私にはあるのです」

「リュセス」

 イアナザールは彼女の名を呼び、苦笑して見せた。赤茶の髪をかきあげる。

 イアナザールが不在だったと主張するのは、城内にいる者の一部だけである。

『殿下は一ヶ月近くも行方不明だったのです』

 だが当の王子には、その経験がまったくない。誰かにさらわれたという憶えもない。

 一つ異変があったとすれば、長年務めていた宰相ラハウが先月その地位を降りて、消えてしまったことと重なる。だが彼女は人知れず、こっそりと消えた。父王によれば、彼女は誰にも看とられずに死ぬのが望みなのだと漏らしたことがあるらしい。彼女の消え去り方はやけに彼女らしいと皆が納得したものだった。

 仮に、もし。

 もしラハウの失踪とイアナザールの行方不明が合致しているとしても。そこに何の関係があるのか、さっぱり分からない。

「君も迂闊なことを言わないでくれよ。私の記憶がないのは確かだけど、不在だったと証明できるものもない」

「そうですね」

 リュセスは微笑んだものの、目線はかげった。

 王子の不在を主張している一部の者とは、王宮お抱えの魔法使い、魔法師たちである。それも力のある者に限られる。リュセス・ジェマは親子揃って王宮に仕えているほどに力のある娘だ。父親ネイサム・ジェマが魔法師ジェマの名で通っているので、彼女は名前の方で呼ばれているが、力のほどは彼女の方が大きいのではと噂されている。

 かの宰相に次ぐのでは、と。

 だがリュセスは知っている。

 宰相ラハウの力は比べるなど到底できないほどに強大だった。

 でなければ、いつ彼女が消えたのかがリュセスの記憶にないわけがないのだ。故意に消された記憶の断片は、自分のものであるにも関わらず、思いだすことができない。“忘却”という魔法。知っていても使うことなどできない、大きな魔法だ。

 王子には言えない。

 いや、王宮の誰にも。父にすら言えない。

 ラハウが“忘却”を使ったらしいことまで気づいているのは、リュセスだけなのだ。

「すまない」

 王子の声が降ってきた。顔を上げると、すぐ近くに彼の顔があった。イアナザールはリュセスが座るソファの背もたれに手を突いて、リュセスを覗きこむように見おろしている。

「はなから否定しているわけじゃないんだ。けれど不確かな話には尾ひれがついてしまう。今は隣国も不安定だ、下手に我が国が浮き足立つことは避けたい」

 申し訳なさそうな顔をして、リュセスに触れないぎりぎりの距離を保っているイアナザールに、リュセスはくすりと笑ってしまった。見あげて首を伸ばし、自分からイアナザールに触れた。ふわりと唇が触れあう。一瞬のぬくもりがすべてを解かしたかのように、2人は笑顔になった。

 再度、イアナザールから唇を寄せた。リュセスも目を閉じた。

「これも浮き足立っている事柄になりませんか?」

「というよりは舞い上がっているというべきかな」

 イアナザールは少年のような笑顔で、リュセスの言葉を否定した。だが対照的に、リュセスの顔はまた少し曇った。

「本当に私で構わないのでしょうか」

「君以外の誰もが、君を推しているが?」

 謙虚は尊ばれるが、あまりに気弱すぎると慇懃になりかねない。イアナザールは身を起こして腰に手を当て、ため息をついた。

 折りよく扉が叩かれた。

 少しだけ開いた隙間から、侍女の声が投げ入れられた。

「お時間でございます」

「今、行く」

 そう言ったのはイアナザールだったが、行くのはリュセスだ。城に内勤中の時は就寝時間も仕事のうちになっている。リュセスだけでなく王子の眠りもまた、国務である。

 わずかな時間をこのような区切りで終わらせるのは心苦しかったが、色恋にかまけて仕事を放りだしたと言われたら、それこそことだ。翌朝に失態でもしようものなら、リュセスの責になってしまう。

「この話は週末、(りょく)の日にしよう。半日空けたから私がジェマ家に行く」

「恐れ多い!」

 リュセスは目を見開いた。どうも“仕える”という感覚が強く、交際を始めて5年が過ぎようとしていてもなお、自分がイアナザールと対等などとは思えない。イアナザールは苦笑した。

「行くよ。ネイサムとも話しあわなければならないからね。君が望まないのなら無理強いできないが」

「イアナザール様」

 分かりきった質問をして、恋人を困らせて楽しむ。少し意地悪になってしまうのは、この従順なようでいて実は芯が強い彼女の心を、それこそ芯まで、自分のことで埋めつくしてやりたくなるからだ。

 彼女は常にイアナザール以外のことも念頭から外さない。

 外さない、外れないから、表情がかげる。

 完全に明るくしてやることができない。

「妹のことかい?」

 図星だった。

 リュセスが俯いた。

「考えても仕方がないと自分に言い聞かせるのですが、姿を見ないことには落ち着かなくて……」

 リュセスは言いよどみながら、茶を置いて立ちあがった。扉まで進んでから反転し、イアナザールに深く礼をする。イアナザールも歩き進み、彼女が顔を上げると同時に抱きしめた。

 彼女の言った“姿”には2つの姿がある。生きている姿と、死んでいる姿が。

「すまない。私のせいだ」

 リュセスはイアナザールに包まれて、肩の力を抜いた。

「ザール」

 親しく呼ぶ時だけ、神名を外して略名で呼びかける。その呼び方が許されている者は少ない。

 背中に手を回す。青年の体はリュセスよりも、ずっと熱かった。彼が内に秘めている熱さが体温になって現れているかのようだ。その胸に頬を当てて、リュセスは小さく笑った。

「もう、お休みになって下さいませ。まるで眠気をこらえている子供のように、熱い手をしてらっしゃいますわ」

 体を離し、名残惜しそうに自分の肩を持ってくれている王子の手を、両手で包みこむ。

「殿下のせいではありません。あの子は自ら、去りました」

「連れ去られたのだ。魔法に縛られて動けなくなり、塔から飛びおりた」

 そして自分は、それを見送った。

 自分のせいなのだ。

 父王はあの娘を逃がすつもりだった。用意されていたゴーナ、中途半端な拘束……。数日だけ城に滞在していた奇妙な娘は、リンを連れて去ってしまった。

 リンがリュセスの妹だと知ったのは、つい最近である。それまでは姿を見たこともなかった、ラハウの秘蔵っ子だった。幼くして生き別れた妹をリュセスは、同じ城内にいると知っていて、黙って見守っていたのだ。ラハウに引き取られた子供だったから。

 自分さえ、もっとちゃんと紫髪の娘やリンを捕まえていたら、逃げられなかっただろう。そう思うイアナザールは、どうして自分が彼女らを見送ったのかを憶えていない。娘の顔もあやふやだ。あまり記憶にない。

 だが、それらが夢でない証拠がある。砕かれた塔の壁は、自然に砕けたものではない。その穴から飛びおりて逃げた彼女の後ろ姿は、おぼろげながらも一番強く憶えている。何の躊躇も感じられない、気持ち良い跳躍だった。

「いいえ。あの子は自分で選びました」

 言いきるリュセスの目に、迷いはない。

「私がこちらに来いと言った時、彼女はためらいました。何の利益もないはずの方に対して、心残りを示したのです。それだけで、あの子が彼女について行くには充分でした」

 そのような微妙なやり取りが、あの短い中にあったとは。イアナザールの記憶には、まったく残っていない。だが少女の鉄仮面ぶりは忘れられないものだった。あの能面が少しでも崩れるなら、印象に残るのは当たり前だろう。

 まして姉であれば。

 リュセスは言った。

「あの一瞬だけ、私には妹がいるんだと実感しました」

 寂しげながらも、どこか安らかな顔だった。彼女がそんな顔のまま扉を開けたのでイアナザールは慌てたが、引き止める理由がない。扉にかけた手を放す。

 黒髪を揺らしてふり向いたリュセスは、柔らかく微笑んだ。

「週末を楽しみにしております」

「忘れろと言える立場ではないが、気を楽に持ってくれ」

「お気遣い、感謝します」

 年下のくせに、リュセスはイアナザールとの距離を保って、礼を尽くす。イアナザールは彼女の他人行儀なほど丁寧な礼儀に苛立った。去りかけた彼女を引きよせ、一度だけ強く唇を吸いあげた。リュセスが声を抑えるのが聞こえた。顔を離して見おろすと、リュセスは濡れた目を伏せて真っ赤になっていた。

 溜飲を下げた王子も柔らかく微笑み、彼女の耳元で小さくささやいた。

「愛しているよ」

 リュセスも必死で「私も」と口を動かしたようだったが、あまりに小声で息しか洩れていなかった。だが言葉は受けとった。

 イアナザールは扉に手をかけて、大きく開け放した。見ないふりをして待つ侍女が動揺していた。彼女まで真っ赤な顔をしている。イアナザールは苦笑をかみ殺して、侍女に命じた。

「貯蔵庫のテナ酒を持ってきてくれ」

「かしこまりました」

 女性2人がぎこちない礼をして去るのを見送り、イアナザールは扉を閉めた。一人になった室内は自分の部屋なのに、どこかよそよそしかった。配置を戻してみたが、やっぱり少し寂しかった。ソファに残るぬくもりのせいかも知れない。

 ぬくもりを残した彼女の方は、半ば困ったように半ば夢見心地で、侍女の前を歩く。縦に並んでいれば顔を見られないで済むから良いかと思うものの、後ろから見られているかと思うと恥ずかしい。リュセスはまだ火照りが冷めず、俯き加減で歩いた。

 近頃やけに王子が自分に執着してくれているのが分かる。

 沈んでいるせいだ。

 沈んでいる理由を、イアナザールはただ「妹が連れ去られたせい」とだけ思っているようだったが、実際の事態はもっと複雑である。彼のなくした過去は「忘れた」では済まされず、消えた宰相ラハウは「消えた」で済まされる人ではない。ところがそれが済んでしまい、皆が普通に生活している状態なのだ。ラハウの消えた穴が一ヶ月やそこらで埋まってしまったということは、彼女がもっと前から去る準備をしていたということに他ならない。

 女として気にかかる事情もあった。

 イアナザールはさらりと流していて忘れてしまったようだが、リュセスは憶えているのだ。憶えているから尋ねたいのに、問いに答えてくれる者が誰もいないことが、ひそかな苛立ちになっていた。今のイアナザールを見ていれば、そのような不安を覚えなくとも良いのかも知れないが、王子の消えた記憶に何が刻まれていたのかを知りたくてたまらない。

 あの紫髪の女性は、誰だったのですか?

 リュセスの記憶も怪しいのだが、あの娘が滞在していた時期、王子は行方不明だったはずだ。だが彼女が去る時、早朝だったにもかかわらずイアナザールが室内にいた。しかも入室した自分たちに驚きながら、彼は彼女をかばうように立ったのだ。

 あの場で知りあったのか以前からの知りあいなのか分からない。どういった間柄なのかが想像もつかない娘だっただけに、余計、心に引っかかるのだ。魔力があったようだが国に登録してある魔法使いではなかったし、貴族という振る舞いでもなかった……ように思う。

 あの時の記憶が怪しいということは、あの場面にも“忘却”が使われていたのだろうか? だとすれば、あそこにラハウ様もいた……?

 考えても仕方がないと思いつつも、リンのこともあるので頭から離れない。

 リュセスが歩きながら頬を押さえて俯いた、その時──。

「きゃっ!?」

 あまりの衝撃に、思わず声が出てしまった。

 地面が揺れたように感じたが、そうではなかったらしい。一瞬だった。だが膝が折れた。突然その場にへたり込んでしまったリュセスを、侍女が不思議そうな目で見た。外的な力でなく、リュセスの内面を叩く力だったらしい。とすれば、この衝撃の正体は『魔力』だ。強すぎて一瞬わけが分からなかったが、波が引いたら『魔の気』の感覚が残った。

 誰か、大きな力を使った者がすぐ近くで動いたのだ。

 町一つをつぶしそうな、人を何人も殺しそうな黒い気配が感じられた。

 リュセスは何とか立ちあがると、自分の腕を抱きしめた。先ほどまでの火照りが冷めて、全身に鳥肌が立っていた。

 とてつもなく近い、それこそ隣りに立つ侍女が力の持ち主だと言われても納得できそうなほど間近に思える近さだった。けれど侍女がそのような者でないのは、明らかだ。彼女はキョトンとしているし『気』の方向も違う。

 城の奥なのか……いや、そんなわけがない。外だ。城の背後には森がしげっている。だが森の奥には王都の水をまかなう湖があり、離宮が建っている。いざ戦争になり危険が迫ったら、山に籠もることができるのだ。そこから谷を越えて隣国に亡命できる。

 このように大きな『気』が城内にあるなど信じられない。それに魔力の爆発は一瞬だったのだ、自分の気のせいだったのかも知れない。城内には別の魔法使いも勤務しているし、イアナザールだって力を持っている。気のせいでないなら、皆、感じたはずだ。

「ごめんなさい。取り乱しました」

「お一人で部屋にお戻りになることができますか?」

 通路の奥はT字路になっていて、貯蔵庫への道とリュセスの部屋への道が異なる。リュセスは侍女の気遣いに礼を言って別れた。

 今日はもう遅い。

 明日も感じるようなら、無理を言って使用人を連れて、離宮に行ってみよう。

 そう思いながら部屋に戻る彼女は翌朝、早々に飛びおきることになる。

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