4-9(祈念)
船室はようやく暗くなっていた。木窓は密封にならないので、日の光がある限り船室も明るい。完全な闇にはならない。窓の隙間を覗くと目を刺すような強い光だったものが徐々に赤くなり、やがて色が薄れて闇が濃くなり一日が終わる。
そうなってから彼の目は覚めた。
「起きたか」
近くで声を出したが、彼は驚かなかった。いたのは知っていたと見える。気配だけでなく、閉めきった部屋に血の臭いも充満している。気が付いてはいたが、消えないものを気にしても仕方がない。
ランプに火を入れ、サイドチェストに置く。光に浮かびあがったクリフは、2段ベッドの上にいる彼を見あげた。クリフの外見はあるていど身綺麗になっているが、申し訳ていどである。彼の術は汚れまで落とせない。
彼が身を起こした。
黒い塊がむくりとそびえる。眠る時にも黒いフードを外さない徹底ぶりは、相手が彼でなければ異常にも思えよう。
サイドチェストにはランプだけでなく、パンとシチューの乗ったトレイも置いた。クリフは椅子に座り、エノアを見ながらトレイを指さした。
「霞しか食わんとか言うなよ」
素直にエノアの分だと言えば良いのに、余計な一ひねりが入る。エノアはベッドから、ひらりと飛びおりた。着地の音はない。フードを取る。翠の髪と瞳があらわになった。
「いただこう」
まともに顔を合わせることが少なかったクリフは、思わず目をそらした。悪態はつけても、慣れているわけではない。まさしく神の造形物と思える美貌は、直視できるものではない。エノアは意に介さずストンと下段のベッドに腰を下ろし、クリフと同じ目線になった。トレイを膝の上に置き、さっそくパンをちぎって口に放りこむ。
何げない動作なのに、妙に優美に見えた。
最初から男だと知らなければ見間違えていたかも知れない。華奢な体だ。ここから、あの『魔力』があんなにも湧き起こるのだ。
「それで足るか?」
一緒に旅していた頃に彼の小食ぶりは見ていたはずなのに、思わず聞いてしまった。
これから一世一代の救出劇をしなければならないのだ。魔力が出せないだの腹が空いただの言われては困る……とクリフは場違いなほど俗っぽいことを思った。一世一代と思える戦いが多すぎて、かえって現実味に溢れてしまっているのだ。常に全力で、極限まで力を出しきらないと乗りこえられない戦いばかりだった。
ふと、どこまで戦ったら終わりになるのだろう、とクリフの心がかげった。
明日のこれで思いがけず終わりになれば良いのに、などと思った。
オルセイが元に戻らない以上、終わりにはならないのだろうが。
あるいは俺が……終わりになるしか。
「足る」
クリフは顔を上げた。
あいかわらず、天から降ってきたような響きのある良い声だ。思わず現実を忘れる。今の場合クリフは、現実を忘れて我に返ることができた。そんなクリフにエノアがつけ加えた。
「美味い」
シチューを口に運びながら。
クリフは若干、笑みを浮かべてから、
「この船にいる料理人は最高だ」
と受け答えた。
「エノア。頼みがあるんだが」
返答はない。目も合わせない。だがエノアが聞く体勢になっている雰囲気が読みとれるので、クリフは続けた。
「あんたの術で、俺のことを皆に忘れさせて欲しいんだ」
明朝になれば、エノアの“転移”でクリフは消える。その後に戻って来られるかどうかが分からない、突然何もかもを放棄して去る自分が、クリフは心苦しかった。
彼らは……マシャなどは「すぐ忘れるよ、心配なんかするもんか」とケラケラ笑いそうな少女だ。けれど口で強がっていながら心配し続けるだろう、そういう少女だ。
いっそ忘れられた方が、気が楽だ──と思ったクリフに、エノアは冷たく言いはなった。
「できない」
「なぜ?」
「最初から憶えていないように、すぐ忘れるように施していないからだ」
クリフは不満に思ったものの、言われたことには納得できた。エノアが人前でフードを取らないことも関係しているのかも知れない。最初から記憶が薄ければ、忘れるのはたやすい。
道理でエノア以外の者を憶えており、矛盾していたはずである。エノアを当てはめなくとも違和感がなかった思い出もあったが……おそらく長く一緒にいたせいで、思いこみだけでは改ざんできない記憶が溜まってしまったのだろう。
「もっと強く施せば、何もかもを消し去れる。だが途中での魔力が足らなかったからな。術が完璧じゃなかった」
言ってからエノアはパンを口に運んだ。ふとクリフは、エノアが咀嚼する口元すらも整っているような美人だというのに、艶めかしさや色気といったものがないことに気づいた。それが余計に彼を人間離れして見せるのかも知れない。
とはいえ彼に人間味が出てきても、同時に色気をかもし出す……というのは想像がつかないが。この男は一人の女だけを愛するということを、しなさそうだ。常に人間を大きなくくりで見ている気がする。
そう思えるのは、自分が一人の女にこだわってしまったからだろうか。
ほんの、つい先ほどの言葉だ。
「惚れた女だ」などと言ったのは。
言葉は不思議だな、とも思った。
口に出したら、確たる真実になった。
「ずるいな、魔道士ってやつは。あんただけかよ」
クリフは苦笑した。
「忘れられるように、人の心に残らないようにするってのは、ずるいと思うぞ」
「お前も欲するのだからな」
一刀両断である。
「逃げんなよ」
クリフはエノアの澄んだ目をまっすぐ睨んだ。
「良いじゃないか。魔道士は実在します、7人いますって言っちまえよ。真偽を確かめに山に登ろうなんて馬鹿も減る」
「代わりに、脅威に思う者が出る。嫉妬する者が出る。滅ぼそうと思う者や、逆に我々を手駒にしたがる者、自分も魔道士になろうと思う者も増えよう」
黙していることと明かすこと。聞いた自分が馬鹿だった。
「だが」
とエノアはシチューに目を落としたまま、少し感情の見える声で呟いた。
「魔道士の存在は隠すが、魔法や魔力の存在が人々の心から消えることは、憂いだった」
クリフに罪悪感が湧いた。
「だって、なくても生きて行けるからさ」
「そうだな」
若干エノアが笑ったように見えた。気のせいかも知れないが。
クリフは「『誰が』憂いたのか」が、ぼかされたことに気づいた。
「あんたが憂いたのか?」
「いや。消えるなら、それも流れ」
「でも、それを憂いた奴が誰か、いたんだよな」
「意外だな」
「何がだよ」
「お前がこういう話に身を乗りだすとは思わなかった」
クリフは一瞬、拳を固めた。だが気を取りなおして手を開き、ぷらぷらと振った。エノアにケンカを売っても仕方がない。クリフは腕をだらりと下げて、足を投げだした。背もたれに体を預ける。
「殴りあいであいつが元に戻るなら、そうしてるよ」
「試してみたらどうだ」
「戻るか?」
「無理だろうな」
怒るより以前に、可笑しくなってきた。こういう奴なのだと割りきって会話を楽しむと、そう腹も立たないらしい。打てば響くエノアの皮肉は毒舌だが、そういう意味では先ほどの王女様やマシャに慣らされたのかも知れない。
「俺の望みは2つだけなんだ。オルセイを元のあいつに戻したい。皆で家に帰りたい。単純な望みだが、そこに複雑な事情が絡むんだったら、それを無視はできないだろ」
「お前は“元のオルセイ”と言うが……」
食べおわったエノアはトレーをサイドチェストに戻しながら、分からないように少しだけ、ため息をついた。
「今が本来のオルセイだったら、どうする」
「あいつは、あんなんじゃない」
はっきりと言いきった。
本当は、思わないでもなかった。オルセイの方にダナが降臨したことに特別な理由などない、と信じていたかった。オルセイのためにも……いや、自分のために? 言いきっておきたかったのだ。
クリフの強さに閉口して、エノアは話を打ちきった。
「術を整える。席を外してくれ。夜明け前に来い。すぐ飛ぶ」
「俺はどこに寝ろと?」
「考えろ」
横暴だ。有無を言わせない口調である。毛布を手渡されて、クリフは立ちあがらざるを得なくなった。微妙に全部の話題をはぐらかされたわけだが、それはまぁ良い。エノアにも考えるところがあるのだろう。
クリフと一緒にエノアも立ちあがり、ランプの火を消して、彼は部屋の中央にあぐらを掻いた。フードを深くかぶる。
「“転移”先は分かってるんだろうな」
「知ってどうする」
「知りたいだろ普通は」
普通じゃない奴との会話は、いちいち面倒だ。
「あの連中には伝えない方が良い」
“ピニッツ”のことを指しているのだろう。
「なんでだよ」
「クラーヴァ城の地下だからだ」
「……え?」
普通じゃないために、何やらとんでもないセリフだったとしても、あっさり、さらりと言われる。クリフの脳に意味が浸透するのに、少し時間がかかった。
クリフはクラーヴァ国がどんなところかを知らない。脳裏に浮かんだのは、ソラムレアの皇居とその地下だった。乾いた氷で造りあげられたような通路の奥に閉じこめられていた思い出は、消えていない。暗い、寒い場所だった。死の神ダナが潜むにはふさわしい場所だと思える、そんな場所がクラーヴァ城にあるという。
王族ってのは皆そういう後ろ暗い場所を持っているもんなのか? とクリフが思っても仕方がないだろう。そうした“地下”なるものを持っていなかったネロウェン国が、クリフの中でやけに清々しい印象に変わった。
ただ……と引っかかるものを感じた。
ソラムレア国の地下で出会った男がいたはずだ。自分に似た男だったように思う、彼はクラーヴァ国の王子だと誰かが言っていなかったか?
ダナ神の、あの暗い『気』に取りこまれる男だったようには思えないのだが……。
「確かに言わない方が良いみたいだな。問題になりそうだ」
国と国の争いには疎かったが、これだけ巻きこまれていれば少しは分かる。ロマラール国の密偵である“ピニッツ”に、クラーヴァ城のことなど、確証もないのに言ってはいけないだろう。
オルセイと会うだけではない、何かがありそうだ。
クリフは気鬱を払うように大きく肩を動かして、息を吐きだした。吐きながら、小さく「よし」と呟く。
「じゃあ明日。教えてくれて、ありがとな」
笑みを見せて、クリフは退室した。初めて礼を言われたエノアは一瞬止まったが、すぐ静寂になった室内に落ちつき、詠唱を始めたのだった。扉を閉めてしまうと、本当に小さなエノアの声はまったく聞こえなくなる。クリフは忍び足で、その場を後にした。通路は暗く、誰もいなかった。
ように見えた。
「!」
クリフは思わず声を上げそうになってしまった。甲板に上がる小さな階段の影に、人がいるとは思わなかったのだ。淡い光の中に出てきた顔は、マシャのものだった。怒っているような、今にも泣きそうな複雑な表情をしている。思わず触れそうになり……でも触れられない、壊れ物のような空気をまとっていた。
無言でマシャが階段を登り、クリフも後に続いた。全身が外の空気に触れたところで、マシャがふり返った。クリフは何を聞くより先に「ごめん」と言ってしまった。
「何でごめんなのさ」
「何となく」
「理由なく謝るなよ」
「あ、ごめん」
「はっ」
マシャは肩を竦めて、少し大袈裟に片手を振った。困ったような笑みを浮かべていた。
「あたしの方が“ごめん”なんだよ、クリフ。立ち聞きしたんだもん」
だろうなと思うと同時にクリフが抱いた感情は、不快感でなく驚きだった。皆が通る廊下なのに、扉一枚隔てただけの室内で話をしていた自分も悪いのだ、聞かれていても、それは仕方がない。クリフが驚いたのは、グール狩人である自分にマシャの気配がまったく分からなかったということだ。
やっぱり疲れているのかな? と思いながらクリフは、それは仕方がないと言いおいてマシャに尋ねた。
「何を聞いた?」
「多分、全部」
最初からクリフの後をつけてきたということか。
「気が付かなかった」
「“ピニッツ”を舐めるな」
にっと笑いながら、マシャは階段のそばを離れるために歩きだした。甲板の凹凸やロープなどを避けて、船首に向けてぶらぶらと足を進める。すでに、どっぷりと日が暮れていた。黒い甲板は星の光を反射しないから、闇の中を手探りで進むに近い。だがマシャはおろかクリフも、いつの間にか躊躇せず歩けるようになっていた。
マシャが歩きながらクリフの持っていた毛布を取りあげて、貯蔵庫への入り口にそれを放りこんだ。ここで寝ろ、ということらしい。船底だが、甲板で寝るよりはマシだろう。
船は切りたった崖に沿って停泊しており、そこに植わっている木々が甲板を覆うようにせり出ている。反乱軍と同じ港でなく、離れた入り江に身を潜めているのだ。
クリフは頭上の木々に手を伸ばしてみたが、届かなかった。届かない枝葉の向こうに、さらに届かない星々がちらりと輝いていた。明るかった。明日も良い天気のようだ。
甲板には点々とランプが灯っていて、船の修繕をしたり、ロープを整えたりしている者がちらほらと見える。もう名と顔が一致する者ばかりになった。それらの者たちとほど良い距離がある辺りで、マシャが足を止めた。
「ナザリには言わないよ。あたしは何も聞かなかった。クリフはソラムレア反乱軍と袂を分かって、ラウリーを探すために船を降りて旅立ってしまった……それだけだ」
「で、良いのか?」
「良かないけどさ」
マシャはケケケと笑った。面白いと思っている、という顔を作ってくれている。
「あいつは、あたしがいることに気づいてたみたいだから」
エノアのことだ。疑問は沸かなかった。あの男なら察していただろう。ただ少し、自分には分からなかったから、悔しかったが。
「別に聞かれても良いって思ってるってことでしょ。あいつが不安だったのは、クリフがクラーヴァ城のことをあたしたちに言うことで縛り上げられたり何かあったら厄介だなぁっていう、そういうことだと思ったんだけど」
クリフは閉口した。否定しきれなかったからだ。余計な口を利いて叱られるパターンは2度ほど経験している。
「あいつ、怖いね」
マシャがポツリと呟いた。
「見たこともない者が立ち聞きしてるのを、扉の向こうから察しただけじゃなくて、放っておいて大丈夫な奴だとまで判断されちゃったんだよ、あたし。普通あり得ないよ」
「普通じゃないから」
「みたいだね」
クリフが真顔で返したのがツボに入ったらしく、マシャがぶっと吹きだした。いや本当に普通じゃないだけなんだが……と思いながらもクリフは、マシャの笑みに安堵した。
「安全だと思われたから黙って引っこむんじゃないよ。下手に騒いでる間にラウリーがどうにかなる方が嫌だからさ。さっさと連れもどしに行きなよね」
「ああ」
マシャの笑みは、昔のラウリーを思いださせる。髪の短かった15歳の頃。今より、もっと気が強くてケンカっぱやかった、憎たらしくて困らされた、可愛い妹だった。
妹でない娘に成長していたことに気づいたのは、マシャがいたせいかも知れない。
「よう、マシャ。クリフ」
第三者の声が、前方から飛んできた。見あげると、ぐんとそり上がった船首の一番先を陣どって、3人ほどが光を囲んでいた。ランプを一つ灯し、食後の一杯をくみ交わしていたらしい。ギムにトート、カバクだった。親睦を深めていたのだろうか。
マシャが軽やかに足を速め、クリフも「よう」と手を上げた。
「美味いぞ、ヤフリナの麦酒」
「あの港町で買ったのか?」
「金だけ落としてくるわけに行かないからな」
礼儀正しい海賊だ。クリフは笑いを堪えながらジョッキを受けとり、カバクの隣りに座った。木箱が2人分の体重でみしりと鳴ったが、まぁ大丈夫だろう。カバクが嫌そうな顔をしたが、今のクリフにはそれも楽しいことだった。マシャも立てられた丸い樽の上にぴょこんと座り、乾杯、とジョッキを掲げた。
「つまみもあるじゃん。クリフ食べなよ」
クリフがハッと息を飲み、マシャも自分の言いすぎに一瞬だけ顔をしかめた。しかし皆は気づかずに、その場を流した。ギムが干し肉をクリフに差しだした。
「これは俺の口にも合ったぞ。なにしろ“ピニッツ”にいると舌が肥えちまうからな、少ない量でも美味くないと暴れたくなる」
心中では色々とツッコミを入れたいセリフだったが、とりあえずクリフも流しておいた。干し肉を受けとる。噛みしめて、肉のうま味と麦酒の心地よさが空の胃に染みこむのを楽しんだ。
エノアに与えたパンとシチューは、クリフの分だったのだ。
わざわざ自室で食べると言って食堂を出たクリフを、マシャが不審に思ったわけである。そういえば、とクリフは小さく声を出した。
「部屋に食器を忘れた」
「明日で良いよ」
マシャが苦笑した。引きうけてやるという意味の笑みだろう。クリフもちょっと苦笑して、ジョッキを掲げた。
「クリフ。その……ラウリーは……」
トートが言いよどんだ。気にしてくれているのだ。
「明日、行くよ」
クリフは躊躇せず答えた。
「連れもどして来る」
まるで近所のおつかいかという軽さで、クリフは言った。
「場所の目星はあるのか?」
「あるらしいよ」
ギムの問いにマシャがカラッと答え、ジョッキをあおった。少女のくせに、妙に麦酒が似合う子だ。美味しそうに飲む顔がどんな時より可愛く見える。頭を撫でてやろうかと思ったが、止めた。
「頑張れよ。すぐ、また会うかもな。“ピニッツ”は常に旅してるし、情報が満載だ。クリフがどこで立ちションしたかも分かるぞ」
「ギム、それは下品だ」
ロマラール語を憶えかけているカバクが、つたない言葉でギムを諫めた。渋面を作ったカバクの横顔は、なかなか良い男ぶりをしている。出会いからこっち、ずっと対立していた男だったので、違う話もしてみたかったなぁと今さらながらクリフは思った。
口には出さなかったが。
「世話になったな」
「貸しにしといてあげるよ」
「返しに来いってか」
「当たり前だろ」
「マシャの利子は高いぞ」
ギムが口を挟んだ。
「ラウリーと一緒に来ないと、3倍になるからね」
無事に助けだして来いという励ましらしい。クリフは「必ず」とマシャを見て微笑んだ。真っ向からの笑みに、マシャの方が目をそらしてしまった。
「クリフ、俺も……」
言いかけて、トートは口をつぐんだ。ずいぶん気に入ってもらえたものだ。口をつぐんだということは、察してくれたのだろうか。裏付けるように、トートは言葉を変えた。
「見送りさせろ。勝手に消えるなよ」
気に入ってくれた相手はラウリーだけでなく、クリフの方もだったらしい。だが見送られるのも無理だというのは、どう言えば納得してもらえるだろう。クリフの困った顔に気づかないフリをしながら、ギムがトートの後頭部を叩いた。
「俺はごめんだね。勝手に消えろ」
と、吐き捨てる。
「そんでもって、また勝手に来いや。こないだの腕相撲、お前とやってないからな」
ジョッキを干して、ガハハと笑う。気持ち良い笑い方だった。
腕相撲と聞いてクリフは「あっ」と声を上げて、木箱から飛びおりた。座っていた場所に、ガンと肘を突く。
「あれ不服だったんだよ、俺。また会った時なんて待ってられねぇ。カバク、もう一回ここで勝負しろ」
「お前な」
呆れながらも、カバクも立ちあがった。急に始まった戦いに内輪の3人だけでなく、外野からも人が集まった。
「俺は酔っている。これを2杯、飲んだ」
「2杯ぐらいで酔うかよっ」
外野から口汚い野次が飛んだ。そうだそうだ、と皆がはしゃぐ。それを抑えて、クリフがジョッキを掲げた。
「だったら、」
盛大に一気飲みをする。
「これでおあいこで、どうだ?」
「良いだろう」
観衆が沸いた。
口の端を拭いて、クリフが再び腕を構える。それをカバクが、がっしりと掴む。言葉を交わすよりも沢山のものが、手の平から伝わってくる気がした。久しぶりの感触だった。かつてはオルセイとも感じていたはずのものである。
言葉よりも確かなものが、ある。
「うらあっ」
「むっ」
かけ声をかけて、互いの手を押しあう。周囲の歓声が高く響く。いつの間にか、甲板の何カ所にもランプが吊され、すっかりお祭り騒ぎになっていた。皆、辛い戦いが終わったウサを晴らしたかったのだ。と同時に弔いの酒でもあった。振りしぼって叫び、声に乗せて魂を天に送る。
本来なら闇に潜んでいなければならない船なのだが、と思ったのはナザリだったが、この時ばかりは彼が室内に潜んで大人しくしていた。皆の声を聞きながら微笑みつつ味わう酒も、良いものだ。
「お疲れ様」
側でささやかれた声は、ルイサのものだ。ナザリがルイサの部屋に来ているのである。彼女はベッドに横たわったままだったが、骨が折れたりなどしていなかったので、比較的良い顔色をしていた。数日ゆっくり休めば、起きあがれるだろう。
ナザリがルイサに微笑んだ。
「あなたも」
ねぎらわれ、ルイサも微笑む。
「明日は良い天気かしら」
“ピニッツ”の騒ぎは朝まで続きそうなほど、暗闇を吹き飛ばそうとするかのように明るかった。
~5章「クラーヴァ行進曲」に続く~