1-7(旅立)
その頃コマーラ家では別口で、厄介な悶着が繰り広げられていた。
立ち去るという魔道士なる黒い男を、ラウリーがしっかと掴んで放さないのである。玄関先に引き止められたまま動かない男のマントから、母親がラウリーを引きはがそうと試みていた。
「ラウリー! ラウリーお止めなさい、この方にはこの方の事情があるのでしょうから、」
「嫌よ!」
母親のおろおろとした口調をラウリーは、強く遮る。そして魔道士に言うのだった。
「お願いします、私を連れていって下さい! 兄を追うのなら、お役に立つはずでしょう?」
直立不動の黒い男が何を思慮しているものか、未だ窺えない。だが振りほどこうと思えば、すぐに振りほどけるはずだ。男はラウリーの必死さをフードの奥から値踏みしているかのように、動かずにいた。
母親はこの男を恐れていた。さきほど起こった一連の騒動が息子一人によるものだとは思えず、この魔道士にも原因があるのでないかと思っているらしい。彼女のおののきは、ラウリーにはそのように思えた。
おそらく母親にはあの影が見えなかったのだろう、とラウリーは思う。自分だけが見えたものだったのかどうかは分からないが、錯覚と呼ぶには鮮明すぎた。兄オルセイが兄でなかったこととは関係が深く思える。
突然消えた兄。
「オルセイがまだ死んでいないとおっしゃいますなら、あなた様におすがりします。どうかあの子を助けて下さい。けれどラウリーは連れて行かないで下さい。何があるかも分からないなどという、そんな旅にこの子まで連れられては……」
クリフだって消えたのだ。
一緒に育った息子娘をすべて一度に失っては、寂しくないわけがない。ましてラウリーは若く未婚の、たった一人の娘である。行かせたくない親心は当然だろう。
だがラウリーにだって言い分がある。
「私、私の力で兄さんを救えるかも知れないことが、嬉しいの。だから、行きたいの」
ずっと役に立たなかった自分の魔法が通用するかも知れないと分かったのだ。この機会を逃すわけに行かなかった。きちんと最後までやり遂げられなかった悔しさや、中途半端に祈りを止めてしまって魔道士に「まだだ」と叫ばれた一言はラウリーの胸にこびりついた。
救わなければ、払拭できない。
兄のためにと思いながら結局は自分のために祈ったようなものだった、その志がよこしまだったから祈りが中途半端だったのではないか──とラウリーは表情を暗くして言った。
「家族を助けるのは当然でしょう? お父さんやクリフが死にかけながら連れてきてくれた魔道士様よ、今度は私の番だわ」
つまり命を賭してでも、と彼女は言うのだ。
「ば、」
「馬鹿なことを言うのは止めなさい」
母親の泣き声に、どっしりとした怒声が重なった。気絶していた父親が目覚めて、玄関先で言い争う3人に割って入ってきた。
「ベッドに縛り付けてでも行かせるわけには行かん、ラウリー。この方に任せろ。お前なんかが手出しできるものじゃない」
父親は心のどこかで「この事件はとてつもなく大きいものだ」ということを嗅ぎとっているのか、そのようにラウリーを説得しようとした。魔道士という存在すら希有なものだというのに、その彼があのオルセイを追うというのだ、それはきっと凡人では対処できないことなのだ──。
「だからラウリー、ここにいて、大人しく待っているんだ。お前にできることは何もない」
冷たい最後通告だったが、彼は娘のために言い切った。望みがある限り食らいつく子だということを、父親は熟知していたのだ。彼がどんなに魔法勉強を止めて普通の花嫁修業をしろと言っても、絶対に聞かなかった娘なのだから。
彼はよろけながらもラウリーの近くにまで歩き進んで、魔道士に向かって、
「頼む」
と言った。
「娘を返してくれ」
「父さん……」
ラウリーの手が緩んでしまい、だが彼女は慌ててそれを掴み直した。放すわけには行かない。おそらく放せば、この人は消えてしまう。
魔道士が消えた後に兄と会える予感が、ラウリーにはなかった。ここで一緒に行かなければ一生、兄にもクリフにも会えないような気がして仕方がなかったのだ。魔法による予感ではないとは思うのだが、魔力でないとも言い切れない。ともかく自分にそこまで何かを感じる力などがあるとは今まで思えなかったが、今回だけは何かと不可解な現象が多い。
すると、そんなラウリーにだけ聞こえるような小声で、その魔道士が低く言った。
「過酷な旅になる」
「構いません!」
ラウリーはぱっと顔を明るくして即答した。
「ラウリー!」
両親が同時に声を上げた。おぼつかない足取りながらも父親が、魔道士に掴みかかろうとした。
「お前はわしらから息子をだけでなく、ラウリーまで取りあげるつもりかっ」
「父さん!」
今度こそラウリーは魔道士のマントから引き離されてしまった。床に転がりそうになり、母親に支えられる。その間にも彼は黒い男に殴りかからんとしていたのだが、
「父さん!!」
それは叶わなかった。
「?!」
寸前に迫った父親は、ふつっと糸が切れたかのように気絶して落ちてしまったのだ。
「あ、あな……た?」
それと同時に、ラウリーを掴んだ母親までもが突然意識を失い、倒れてしまった。うろたえるラウリーに、魔道士が「心配ない。眠らせただけだ」と言った。
「彼らが起きぬうちに準備を」
「あ、え……でも……」
「これも“過酷”の一部だ」
「あ」
言われて、ラウリーの胸が痛んだ。過酷という言葉の意味が急にのしかかってきた。手を振って見送ってもらえる道ではないのだ。
ラウリーはぐっと左胸に右拳を当てた。魔道士のフードを睨むようにして、彼女は「お願いします」と承諾をした。
「兄を救いたいです」
ラウリーのそれはロマラールの騎士が行う敬礼なのだが、重要なことなどを話す時の癖になっているものだ。それを見た魔道士は何か呟いたのか、フードが少し動いた。その後に彼は、先ほどより少し温度のある言葉で、
「長旅だ」
と言った。
「慣れてます」
応えてラウリーは微笑み、床に落ちた両親に心を痛めながらも自分の部屋や我が家に別れを告げた。兄と共に、クリフも一緒に3人で戻ってみせると思いながら……。
そんなラウリーが魔道士にどこへ行くのかと訪ねると、彼は、
「東」
とだけ言ったのだった。
家を飛び出したラウリーの頭上には、どこまでも広がる空が果てまで雲をつなげていた。
――2章「金の踊り子」に続く(一部は全8章です)