4-3(選択)
ユノライニは港から現れた男にぎょっとして、足を止めた。先ほど船底で一緒だった男だろうかと思ったが、暗いし、顔が血に濡れていて定かでない。
「あいつらは俺を捕らえて、利用しようとしてた。あんたもそうじゃないのか? 反乱軍は……カーティンは、あいつらとは違う」
一瞬どこの言葉か分からず、ユノライニは眉をひそめた。彼女は言語学の良い生徒ではなかった。
だが、すぐに先ほどのロマラール人だと分かったのは、彼が小脇に抱えている女性が紫の髪だったからだ。王族でも、ここまで神色を有した者は少ない。
それに、この男も。
ずぶ濡れになった男の髪は、赤い。濡れているから色が強く見えるのか、血のせいで赤く見えるのか。
ユノライニには、女の方が魔力を使い果たしているのが分かった。顔色が悪い。下手をすれば目覚めずに、このまま死んでしまうかも知れない。
「あ……」
「王女様!」
立ち尽くしたユノライニに、正規軍と反乱軍が一斉に走った。港を揺らす怒濤の叫び声と足音が少女を襲う。さすがのユノライニも悲鳴を上げた。
「くっ」
歯を食いしばって、クリフが走った。走りながら反乱軍に向かって誰にともなく「ラウリーを!」と叫ぶ。縁石に横たえられた紫髪の女性と王女に向かって、群衆が二手に分かれた。
反射的に逃げようとした少女を、クリフが捕まえる。
少女は、水を吸った重いドレスにもかかわらず、じたばたと暴れた。
「放せ無礼者! この!」
小脇に抱えられたユノライニは、クリフの腕に噛みつかんばかりの勢いである。いい加減に疲れ切っていて倒れそうになりながら少女を抱えているクリフは、押し迫る敵襲から早く逃れたいこともあり、ユノライニを睨みつけて怒鳴った。
「やかましいっ!! しまいにゃケツ引っぱたくぞ、ガキ!」
通常ならもっと言葉を選んだだろうが、そのような余裕はない。
何と言ったのか分からないはずなのに、暴言だと理解できるのは、なぜだろう。ユノライニは歯噛みしたが、いつもの威勢の良い反論が出せなかった。赤い男が見せた迫力に、圧倒されたのである。
男が走りだし、ユノライニは彼の腕にしがみついた。汗と血と海水で、滑って落ちそうになる。
この異常な状況のせいで、本調子になれないのだ。ユノライニは必死でしがみついたまま、そんな風に思った。見上げると、鬼気迫る男の形相がどこかタットワ皇帝に似ていた。同じ赤い目だからだろうか。
それでいて、タットワより優しい。
赤毛の男はそのようにひどい怒鳴り声を上げていながら、ユノライニを抱えた時にはフワリと持ちあげたのだ。締めつけず、かと言っておざなりにもしていないのが分かる。抱えた左腕に気を遣っているのが伝わってくる。
ユノライニは、できれば横抱きかおんぶが良かった、と明後日なことを考えた。
もう少しで砦に入るという直前、背後から彼の足を止める声が上がった。
「逃げる前に、これを見たらどうだ」
王女を奪われて立ち止まった正規軍が、一頭のゴーナを囲んで整列している。前に進み出たゴーナに乗って手綱を握っているのは、大将らしき身なりの男である。振り向いたクリフは、彼を凝視した。
見覚えがあった。
かつてオルセイと共に、ルイサの“おつかい”でテネッサの屋敷を訪れた時だ。殺されそうになって逃げだして、クリフだけが捕まった時……クリフのことを『ヤンナズィーレ』と呼んで捕虜にした男は、間違いなく彼だった。
だが彼の方はクリフのことが分かっていないらしい。さすがに自国へ連れかえった捕虜と、ここで再会するとは思っていないのだろう。
彼は一人で、ゴーナに乗っているのではなかった。
彼に向けて矢を射かけることはできない。
同乗の彼女に当たるから。
「ルイサ!?」
「エヴェンさ、が、もが」
思わず“ピニッツ”の誰かが声を上げてしまったのを、他の誰かが慌てて押さえた。敵側、正規軍はテネッサ・ホフムがロマラール国の密偵エヴェン侯爵と取引していたことを知っている。エヴェンが誰なのか──“ピニッツ”という海兵団がどんな連中なのかを知られるわけには行かない。
知られるわけには行かない“ピニッツ”とルイサがそれでも危険を冒したのは、一重に勝ちたかったからだ。
ゴーナ上でアムナの前に座らされているルイサは、目覚めてはいるものの憔悴しきっていて、肌の色も悪い。嫌というほど水泳をした挙げ句に正規軍と戦って捕虜になり、濡れたまま、裸同然で夜風にさらされているのだ。ボロボロになった踊り子の格好が、通常よりも哀れだった。後ろに座るアムナがほとんど無傷で、服も乱れていないので、余計に目立つ。
その後ろには、反乱軍や“ピニッツ”の者たちも何人かが捕まっているのが見える。反乱軍側には捕虜などいない。殺すか、こちらが逃げて立てこもるのが精一杯だったのだから。
「この女、仲間だろう? 欲しければユノライニ王女と交換だ。しかも今日は見逃してやる。呑めなければ死を賭して一斉攻撃、お互いに華々しく散ろうではないか。良い提案だと思うが、どうかね」
砦の中にいる者が皆、反乱軍や“キエーラ・カネン”の有志までもが固まった。場が硬直してしまうほどに、敵方に捕らえられた女性が重要な者だということが空気で分かったのである。
その沈黙を破ったのは、弱々しいが甲高い、金髪女性の笑い声だった。
「あたしと王女様を交換? 嬉しいわね、そんなに見こんで頂けるなんて」
ルイサは嘲った口調で精一杯声を張りあげつつ、目では反乱軍や“ピニッツ”に強く訴えていた。
『行け』と。
だが皆、号令が上げられずに躊躇していた。
「なかなか良い声だ」
アムナは砦を睨みつけたまま、ルイサの首と顎をぐいと掴んで仰向かせた。片手でゴーナをなだめつつ、片手はルイサの首から鎖骨、胸へと舐めるように降りていく。縛られているルイサは身をよじったものの、嫌悪感をおくびにも出さず、あまつさえ薄く微笑んだ唇から熱い吐息すら出してみせた。
「助けてよ、あいつらのことなら何でも喋るわ。こんな生活が嫌なだけなの、言うことを聞くわよ」
冷ややかな顔をしていたアムナだったが、彼がルイサの髪に吹きかける息は熱を帯びた。
途端、
「早く逃げなさい!」
ルイサは叫び、身をよじった。
舌打ちしたアムナが手綱を持った方の手でルイサの腰を抱え、もう一本は彼女の口に突っこんだ。指を3本入れられて自決を阻止されたルイサは、彼の指を思いきり噛んだ。だが一本なら食いちぎれただろうが3本では無理だ。しかも皮の手袋をしている。
ぐいと口の奥にまで指を突っこまれて、ルイサは吐きそうになった。その寸前で指が退き、頬を掴まれた。舌を噛みたくても噛めない。叫んでも言葉にならない。
ルイサの秀麗な顔を何とも思っていないのか、それともルイサの顔だから乱暴にするのか。アムナは恍惚とした表情にも思える、満足げな顔をした。
一瞬の間に起こった攻防は、皆を逃がすには至らなかった。何より王女を抱えたクリフが動けないでいたのだ。彼はユノライニを降ろして、走りだそうとしていた。
「か、こ、こぁーっ!!」
ルイサは利けない口で罵倒しまくったが、それに気付くクリフではない。
「ルイサっ!」
「馬鹿者」
するとルイサの心中を察したかのようにツッコミが入った。降ろされたユノライニが、クリフの足を引っかけて止めたのである。つんのめった彼の前に、ユノライニが立ちはだかった。それを見た正規軍の弓兵が、躊躇して手を下ろした。
「おい?」
クリフは自分の前に立った少女に手をかけようとしたが、途中で止めて引いた。ユノライニが立ち止まったままだからである。
「おい、そこの者」
ユノライニは腰に手を当てて、軍勢に向かって指さした。さした先には、つい先日ユノライニ付きの従者に任命されたばかりだった青年がいた。紅茶入れに精進を強いられることになった男である。
暗がりにもかかわらず彼を見つけることができたのは、他にユノライニが記憶している顔がないからだ。それに最前列にいるということは、彼は真っ先にユノライニへ向かって走っていたということだろう。
彼は指をさされて、ビッと敬礼をした。
「お前、私に向かって怒鳴れる?」
「は?」
青年は何を言われたのか分からず、目を丸くした。他の者らも皆、きょとんとした。今の状況をまったく理解できていないかのようなユノライニの質問を、アムナが鼻で笑った。
「ユノライニ王女、戯れ事をおっしゃられている暇ではございませんよ。さぁ、こちらにいらして下さい」
「あ、お前でも良いわ。叱れる? でもアムナは私に、とっても嫌そうな顔をするから好きじゃないけど」
歯に衣を着せない少女の物言いは辛辣である。最初に指さされた青年は弱り、どこで口を挟もうかと視線をさまよわせた。けれど青年の口が言葉を発する前に、頭上から怒号が降りたってしまった。
「怒鳴れとおっしゃいますなら、いくらでも叫びましょう、ユノライニ王女! いい加減になさらないと反乱軍どもを見逃すこともできなくなりますぞ」
「艦長っ」
気持ちよく放たれた上司の暴言には、正規軍の半数ほどが肯定の意を示し、半数ほどが戸惑った。お茶くみ青年も戸惑った方である。
青年は慌てて走りだそうとしたところを同志に止められつつ、もがきながら言葉を絞りだした。
「怒鳴りなどできません、王女! あなたは我らの希望、大事なお方なのです。ご希望は呑みましょう。反乱軍との和解を試みましょう。だからお戻り下さい! お願いです」
青年が必死で紡いだ言葉に、皆の手が緩んだ。青年は、もう走りださなかった。じっと立ちつくし、王女が自発的に来てくれるのを待っている。胸を広げて堂々と立つ姿は、少女を懐柔できたように思わせた。
事実ユノライニも、少し歩きかけた。
だが。
「どっちも外れね」
ユノライニの声に、わずかな寂しさが感じられた。
と同時に。
ユノライニは胸のブローチを引きちぎると、アムナ・ハーツに向かって投げたのである。
「目を閉めろ!」
ユノライニがクリフに向かってクラーヴァ語で叫んだ。クリフは頭では戸惑ったが、体が即座に反応した。
投げたその手を、弧を描くブローチに向ける。ユノライニの口から、どこの国のものでもない言葉が放たれた。
一瞬、彼女の目が強く光った。
だがアムナがそれを見たのは、本当にほんの一瞬だった。
次の瞬間には、世界が真っ白になったのだ。
昼間のように、などという生やさしいものではない。ブローチから放たれた光は、すべての輪郭を消し去ってしまった。反乱軍も正規軍も、全員が目を潰されてうめいた。実際には白い光が舞いおりた時間は短く、すぐにまた闇夜に戻った。
しかし、そのわずかな間に形勢は逆転した。
「このおっ!」
目を閉じたまま走ったクリフが、光がなくなると同時にアムナに襲いかかっていた。手綱を取られ、飛びあがってきた男に蹴りとばされたアムナは、ルイサを手放してゴーナ上から転げおちてしまった。
クリフはアムナが座っていた場所にまたがり、ルイサが落ちないように抱えて、ゴーナの腹を蹴った。ユノライニはもう反乱軍の砦に向かって一人、走っていた。
「撤退だ!」
誰かが叫ぶ。
「矢を射てーっ!」
という言葉がクリフの背中を追ってきたが、それを誰かが止めているらしき声もした。ユノライニ王女に当たるからだとか何とか言っているのだろう。クリフは必死に逃げる頭の隅で『王族ってのは、そんなに大事なのかねぇ』とかすかに思った。
自分と似ていた男も王族だった。
ヤンナズィーレ。いや、イアナザールだったか。
魔力を強く持っているがために利用された男だ……とは、誰が説明してくれたものだったか。本人から聞いたものか? だがあの時は、それどころではなかったように思う。
神名を受けつぐ、王族の名前。
本来は名と共に『力』も強く受けつぐものなのかも知れない。
ネロウェン国の少年王が魔力と無縁の者だったので、そのように感じたことがなかったが。考えてみたら、この王女もイアナザールも強い力を持っている。とは言っても自分たちだって魔力があるらしいのだ、今となっては王族云々というのも伝説に近いのかも知れない。ソラムレア国などは王族が消えようとしているのだし。
消えつつある魔力。
魔法。
「クリフっ」
ルイサに呼ばれてクリフは、自分の手が緩んでいたことに気付いた。惰性で走っていた。思い出したように、くしゃみが出た。全身が濡れそぼったままの挙げ句に、袖のないシャツ一枚だったのだ。
目前に砦があった。皆はそれを越えて逃走を始めている。ユノライニもソラムレア兵の一人に抱えられて、砦に手をかけていた。飛び移ろうとしている。王女のくせに、おてんばなことだ。上にはナザリが立って、皆を指揮していた。目立つのは嫌だと言っていたはずだが、それどころではないわけだ。マシャがいて、ラウリーも見える。まだ目を覚まさない、青ざめた姿で。
クリフはふいに、正規軍らの方にふり向いてしまった。
ゴーナがたたらを踏み、2人を落としそうになった。
「?!」
驚いたルイサが、ゴーナの首に倒れこんだ。後ろ手に縛られているので、しがみつくことができないのだ。
そこには叫声を上げてクリフらを追ってくる正規軍がいた。
だがクリフは、一斉攻撃の、その怒号に驚いてふり返ったのでない。
違和感。
直感。
悪寒。
戦慄が走った。
ふいに体内を、電気がつらぬいたのだ。
『こちらを向け』と言われているかのような気がした。
向いた先にいたのは、中年の艦長だった。クリフに蹴り落とされて立ちあがり、即座に走りだしていたのだ。
だがクリフが見たのは、その男ではない。
艦長アムナ・ハーツの目前に立った男がいたのだ。
闇夜よりもなお暗い、真っ黒な姿で。
その者は突然そこに出現した。
中空に。
一瞬、空間が歪んだかのように思えた直後、存在していた。
仰天したアムナが、黒い者にぶつかりかけて足を止めた。皆がどよめき、隊列を乱した。
黒い者は、黒い長衣を着ていた。その裾を揺らして、彼はふんわりと地面に降りたった。
「これに吊られたのか」
その者は素っ気なく、つまらなさそうな声を出した。
生きている者の声だった。
声が示したのは、アムナの前に転がっている青いブローチだった。拾いあげ、「ふぅん」と呟きながら眺めている。
その彼を凝視したまま、クリフは声が出せないでいた。
言葉が浮かばない。
逃げるのか、近寄るのか。体が動かない。
思考がまったく働かない。
感情すらも出てこない。
喜び。悲しみ。怒り? それとも恐怖……。
代わりにルイサが呟いた。
「オルセイ……?」