4章・海上交響曲-1(奮闘)
「来た」
ナザリが声を上げると同時に、火の手が上がった。
船内で燃え上がった炎が出口を求めて、小さな扉から噴出したのだ。ランプが点々と灯っていただけだった暗い夜空を一瞬、大きな炎が昼間のように明るくした。
「合図だ」
言うが早いかナザリが走り、クリフもその後に続いて追いぬいた。町中に点在して潜んでいた男たちが、一斉に姿を現した。雄叫びを上げながら、炎を噴き出した戦艦に突っこんで行く。
同時に海からは、ソラムレア反乱軍の船が突進した。砲撃で見張りの船を撃沈して、入り江への侵入を試みる。
砲弾の爆発音は、眠っていた町を叩き起こした。兵らだけでなく町の人間も起きだして、逃げまどう人々で港が騒然となった。
港に積みあげてあった荷物によじ登って声を張りあげるのは、マシャである。
「落ち着いて、町民に危害は加えない! すみやかに非難して下さい!」
よく通る高い声が喧噪を貫いて、港に響きわたる。バラバラと戦艦から出現してきたソラムレア兵の何人かがマシャを見咎めて駆けよって来たが、その都度ソラムレア兵はマシャを守る“ピニッツ”の男に倒された。
そうしている間にもクリフや反乱軍たちは正規軍を主力艦に乗りこみ、次々に敵を討ちふしていった。
他の船から兵たちが出てきて主力艦を守ろうとするが、桟橋と船の入り口を押さえておけば、そう易々とはやられない。それに敵が主力艦を守ることに力を割いている間に、反乱軍の船が正規軍を襲う。
ソラムレア正規軍は、予想外の奇襲に泡を食った。
何しろ最高司令官も守りの壁たる魔力を持つ王女も、主力艦の中である。外の兵らには戸惑いが現れていた。
だが立ち直りは早かった。
元々、人数差がある。統率の取れた動きをされると、いつまでも食い止めておけないのだ。桟橋と港の一角にバリケードを作って敵の侵入を防ぎつつ内外のソラムレア兵を倒していく“ピニッツ”と反乱軍の者たちは、望みの者が姿を現すのを待ち受けていた。
「まだかっ」
クリフは叫びながら、主力艦の奥深くへと突進した。
炎のある方へと進んでいく。
炎はラウリーが生みだしたものであり、彼女らはそこから外へと出てくるからだ。
「ラウリー! ルイサ!」
多くの兵らと斬り結びながら、クリフは艦内の狭い通路を走った。熱気と煙が通路にたちこめており、叫んでいると喉がいかれそうだった。煙に巻かれて兵の数は少なくなったが、そうなるとこの先にはもうラウリーたちはいないのではと思えて不安になる。
通路は、これ一本ではない。
すれ違っている可能性もある。
クリフの頭上、甲板の方ではまだ叫声が響き、戦いが続いていることを教えてくれる。撤退の様子がない。ルイサとラウリー、それに王女が収容できたら、海から横付けした反乱軍の船に乗って退避する予定だ。女たちが甲板に出れば、喚声は歓声に変わるはずである。皆の声音が焦りに変わりはじめているように聞こえた。
「クリフ!」
通路の元きた方から、援軍が2人やって来た。“ピニッツ”の者である。クリフは、ルイサたちがこの中なのだと確信を持った。
行く手からも煙をかき分けて、ソラムレア兵がやって来る。クリフらに迫ってきたというよりは、煙の猛威から逃れてきた連中である。ほとんど体力の残っていない敵をいなすのは簡単だったが、こちらの体力も減るし、火の中にラウリーらがいるとしたら……絶望的だ。
煙がクリフの目にしみた。
強烈な臭いを放つ黒い煙。前が見えなくなる。呼吸も奪われる。体の自由も奪われる。思考が停止しそうになる。
「ラウリー!」
叫びながらクリフはふと、急に可笑しくなってしまった。
どうして自分はこんなに必死に彼女の名を呼んでいるんだか。人なんて、いつか死ぬものだ。まして、あいつは自分から火中に飛びこんでいった。俺が保護してやる義理などない。俺が彼女を守りたいのは、それがオルセイへの償いになる気がするからだ。構われるのはうっとおしいし、話がしたいわけでもない。あいつの口から出る言葉に、何の想像も期待もしちゃいない……。
──時に人は、これを『魔が差す』という。
戦いの興奮が一瞬、思考を麻痺させるのだ。
白濁した脳裏に、ふわりと声が浮かぶ。
『死なないで』
眠りに落ちる直前にラウリーが呟いた一言が、クリフの胸に残っている。小さく、柔らかく言われた。クリフが立っていると知っていてそれを言ったラウリーのまつげには、かすかに涙も浮かんでいた。
俺は何が聞きたかったんだろう?
「下だ!」
突然クリフの後ろにいた男が叫び、彼を現実に引き戻した。途端に喧噪と炎上する轟音が耳にこびりついた。
「下?」
「下から、音だか声だかが聞こえた。船底だ」
目覚めたクリフは足を速めた。袖で鼻と口を押さえて、姿勢を低くして一気に走りぬける。降りる階段を見つけるとクリフは、転げるように駆けおりた。
「恩に着るよ、キフセ」
「何?」
クリフに礼を言われて、わけが分からない“ピニッツ”の男は一瞬だけ戸惑い、クリフは少し微笑んだ。霧が晴れていた。
償いだろうが自己満足だろうが、それで良いのだ。
自分に分かることは、今これをしないと一生後悔するだろう、それだけなのだ。
クリフは階段途中から飛びおりて、踏みぬきそうなほど大きな音を立てた。
「!?」
クリフの立てた音に反応があった。通路の向こうからか、もう一段地下からか、何かしらの声がした。クリフは叫んだ。
「ラウリーっ!」
「クリフ!」
反応があった。通路の向こうだ。
火災現場がズレているためか、降りたら煙が減った。熱気が籠もっていて夏のような熱さだったが、先ほどよりは呼吸が楽だ。しかし上階で燃えた天井が落ちたらしい音も聞こえたので、ぐずぐずしていられない。
声のした方に到着すると、はしごがかかっているべき地下への入り口たる穴があった。人一人が通れるほどの四角い入り口である。誰かが外してしまったのだろうか、覗きこむとちょうど真下に、ラウリーとルイサが走ってきていた。さほど高さはない。だがしゃがんで手を伸ばしても、届かなかった。ラウリーらも、それどころではなかった。
追いつめられていたのだ。
ルイサがドレスの少女を背負って逃げており、その後に続くラウリーが剣を振りまわしてソラムレア兵を威嚇している。穴が小さくて船底全部は見えないが、少なくともクリフが見下ろしたところに3人はいる。戦いというよりは防戦一方で、痛めつけられている状態だった。
マントを引き裂かれたラウリーは、ほとんど裸体のような状態で声を張りあげている。敵と煙に襲われて、脱出に失敗したのだ。“ピニッツ”の到着を信じて踏んばっていたのだ。
かあっと熱くなったクリフは、穴に手を掛けて船底に飛びおりた。ラウリーに斬りかかろうとしていたソラムレア兵の脳天に足蹴を食らわし、一撃で気絶させた。クリフの後に続いてキフセらも飛びおりて、兵らをうち負かした。ソラムレア兵は見えていた3人だけだった。
「大丈夫か!?」
「クリフ」
胸が詰まって話せなくなったラウリーの代わりに、ルイサが返した。
「間に合うなんて、男を上げたわね」
2人とも焦燥の色濃い顔をしているが、大きな怪我はしていないようである。キフセがルイサから、王女様だろう少女を渡された。背におぶる。少女は気絶したままだ。
その間にクリフは胸当てと上着を脱ぎ、上着をラウリーに与えた。汗びっしょりになっている上着からは、嫌というほどクリフの匂いが立ち上っている。
「脱出だっ」
と叫んだは良いものの、倉庫の奥からも火の手が上がっている。先ほどクリフらが降りてきた場所も、すでに煙が巻いている。全員が飛び上がって上階に行くのは不可能と言って良いだろう。船底は大きく揺れている。沈むのも、時間の問題だ。
「底に穴を開けて、海に出よう」
誰かが提案した。
だが鉄で補強してある船底は無駄に硬いし水圧もあるので、クリフらが持っている長剣などではビクともしない。倉庫内に転がる道具や箱の中身なども漁ったが、使えそうなものが何もない。“ピニッツ”のもう一人、シュンギが「畜生!」と木箱を壁に投げつけた。炎がすぐそこまで迫っている。
「皆、なるだけ下がって」
ラウリーが深呼吸して、壁にひたりと両手をつけた。
「え?」
皆がきょとんとなった。
「吹き飛ばしてみる」
「はあ?!」
叫んだのはクリフだった。止めさせようとラウリーの肩に手をかけたが、すっと払いのけられた。払いのけて振り向いたラウリーの笑顔は、さばさばとしていて綺麗だった。
「熱を発生させるのも風を起こすのも、原理は同じだったと思うの。憶えた呪文を風に言いなおして、やってみる」
「やってみるってお前、そんな、」
「お願いするわ」
ルイサがクリフを制して、ラウリーに言った。ラウリーは微笑み、壁に向きなおった。すでに壊れてはきているので、あちこちに隙間ができて足元にも海水が溜まりだしている。海水のおかげで火の勢いが弱まるものの、煙に巻かれて窒息死するか、溺死のどちらが早いかという状態だ。
その時さらに厄介なことに、王女様が目覚めてしまった。
「きゃああ!」
詠唱しかけたラウリーの集中力が、悲鳴によって途切れた。だが、すぐに心を静めて言葉を紡ぎだす。その後の彼女はすべての騒音を無視した。
「どういうこと? これは何なの、ここはどこ!?」
キフセは暴れるお姫様を背負いきれなくなり、落としてしまった。王女は勢いよく水たまりの中に尻餅をついた。
「無礼者!」
元気の良い王女様である。
彼女は立ち上がるとドレスが濡れたのを気にしないかのように髪を直し、しゃんと立った。ぐるりと一周り眺めてから空気の臭いを嗅ぎ、状況を把握したらしい。彼女は迷うことなくルイサを指さし、
「説明しなさい!」
と怒鳴った。思わず全員一斉に毒気を抜かれた。
ルイサは苦笑しながら王女にひざまずき、ロマラールの敬礼をした。王女の目が少し見開かれた。ルイサの礼儀正しさにひるんだのだろう。
「申し上げます、ユノライニ王女。我々はソラムレア反乱軍の依頼を受けて、あなた様を保護しに参りました。ですが敵ソラムレア正規軍の攻撃と火の手に阻まれ、戦艦の船底で沈没の窮地に立たされております」
火事と激しい漏水、燃え落ちる音などを背景に喋る内容としては、かなり滑稽である。だがルイサの流暢な物言いが心地よいので、違和感すらも楽しめる。ユノライニは腕組みした後、その手を腰に当てて、
「つまり死にそうってことね」
と平たく述べた。
「左様でございます」
ルイサは頭を下げて笑いを堪えた。想像以上に肝の座ったお姫様だ。
ユノライニはルイサに立ち上がるよう言いおいた後、じっとラウリーを見つめて聞き耳を立てた。何をしているのだとは一言も発しない。発しないのにユノライニは、ラウリーの隣りに並んで手をついた。ラウリーはもう無我の境地に入っていて、隣りに立った少女のことが見えていない。
「何をなさるんで?」
聞いたのはシュンギだ。ユノライニは振り向き、
「お前、馬鹿?」
と、すかさず言った。クリフの脳裏に一瞬マシャが浮かんで消えた。この2人で毒舌合戦をしたら面白いかもと思ってしまったのである。
ユノライニは壁を睨んで言った。
「なぜ私を“保護”すると言うのか、お前たちがどんな戦争をしたのかは後でじっくり聞くわ。まずは風の呪文で穴を開けるのでしょう?」
言い終わるか否かのうちに彼女はクリフらに背を向け、ラウリーの声に合わせて詠唱を始めた。クリフは背筋に悪寒を感じて身を震わせた。ラウリーの詠唱には何も思わなかったのに、王女が唱えだした途端、空気が凍りついたように感じられたのだ。同時にラウリーとユノライニの周囲に壁でもできたかのように、遠く感じられた。何か大きな力が彼女らを取り巻いているのが分かる。
ユノライニから溢れる『気』がラウリーを包みこんで、ラウリーの『気』をも膨らませている……逆にラウリーの『気』もユノライニに働きかけて互いが互いを大きくしている。そんな感覚を持った。
いや、今、袖無しのシャツ一枚になったせいだ。
クリフはそう思い、そんな自分の感覚を一笑に伏した。
すぐ近くで天井が落ち、船が大きく傾いた。沈むらしい。上の方ではまだ戦っているのだろうか。分からない。声は聞こえない。聞こえるのは、船が崩れる音だけである。
落ちた材木が底を打ち、水をはね上げた。穴が開いたらしく、膝下に溢れる水の勢いが強くなった。なのに人は通れない。
「ちくしょ……」
シュンギが悪態をつこうとした時、それが起こった。
嵐。
爆発というべきだろう。
何もかもが轟音によって、吹っ飛んだ。
壁が破裂して風が一点から飛び出し、船内に吹き荒れたのだ。辺りの荷物や破片などが巻き上げられて、体までもが浮きかけて、皆が慌てて何かに掴まった。掴まってからラウリーらを見ると、大きく開いた壁の穴から、怪物のように巨大な水の塊が押しよせていた。
「危ない!」
「きゃあっ」
「ラウリーっ!」
様々な叫び声が上がった一瞬後には、すべてが水と闇に飲み込まれた。