3-7(微力)
甲板を踏み抜きそうに荒い足音は、扉のこちらからも聞こえた。
「ちょっとクリフ、駄目だよ! ナザリは今、」
止めようとしている声は、マシャだ。だが足音の主は止まらず、そのままの勢いでバンッと船長室の扉を開け放した。
「どういうことだよ、ナザっ……リ……」
船長室の様子を見回したクリフから力が抜けて、語尾が弱くなってしまった。室内に大きな変化が見られるわけではない。家具の配置に変わりはない。
ただ、ナザリが座っている丸テーブルの向かいにラウリーもいたことに、ひるんだだけである。
ラウリーは扉を背にして座っている。彼女は振り向きはしたものの目を伏せて、表情を隠している。
それを無視して、クリフはナザリにつっかかった。
「なんでラウリーを船長室に通わせてんだよ。彼女が戦争に参加するなんて聞いてないぞ」
「当然だ。言ってない」
ナザリは涼しいものである。足と腕を組んでいる姿勢を崩さない。
クリフを追って入室したマシャが、ナザリに「ごめん」と首を竦めた。
「ばれちゃった」
「仕方がない。毎日通っていれば、嫌でも分かる」
マシャに微笑んでから、ナザリはクリフに向いた。
「勝ちたいと言ったのはお前だ。勝てそうな要因はすべて使うのが、私だ」
確かに、最初の話し合いで“ラウリーを使うな”とは言っていない。だが自分に何かあっても彼女は帰してくれと約束したはずだ。戦争になど参加してラウリーに何かあれば……クリフは、また後悔する。
すると俯いていたラウリーが意を決したのか、顔を上げた。ただし、ナザリに向けて。
「私がお願いしたことです。“使う”なんて言い方は止して下さい」
「待てよ。お前まで参加するなんて知ってたら俺は、」
「俺は? 女は家で大人しくしてろって?」
ラウリーが横目でクリフを睨みつける。視界に、苛立つ青年が映る。
「そんなこと言ってないだろ」
言葉尻を捉えて反論したラウリーに、クリフも睨みつけてしまった。その顔に反応して、やっぱりラウリーも厳しい顔になってしまう。お互いにこのような表情でしか相手を見ることができないのが、悲しい。
それでも、まったく見られなくなるよりは良い。
ラウリーはクリフに怒りをぶつけられた時、2度とクリフと話せなくなったと覚悟した。そう思いながら彼を睨むラウリーの目には、自分でも知らずに情感がこもってしまったのだろう。先に目をそらしたのは、クリフだった。
「参加といっても剣を持つわけじゃないわ。ナザリが私の魔法を見込んでくれたから、それに応えたいだけよ」
あなたの力になれるように、などという言葉は言わないが。言えば、クリフはまた自分を拒絶するだろうから。
クリフは腑に落ちないような、苦い顔をした。
「抵抗はないのか?」
何にと指すものが分からなくて、ラウリーは思案した。魔法にか、戦争にか。
クリフの手が一体何人の血に濡れているのか、ラウリーには分からない。分かってはいけないのだろう、とも思う。ラウリーはクリフから目をそらさずに、ゆっくりと確認しながら言葉を紡いだ。
「大切なものができたから。しない後悔より、して後悔するわ」
自分は生き返ったのだ。クリフも同じはずである。
今のセリフで、クリフがそこまで読み取ってくれたかどうか分からない。だが兄を救えなかったことについて葛藤する自分を見せていたら、いつまでもクリフを苦しめてしまう。
押し黙ったクリフをマシャがつついて、退室を即した。ラウリーは目の前に、飲み物を置いているわけではない。火のついていない一本のローソクである。用事は話し合いなどではないのだ。
「可能な魔法かどうかを拝見しているところだ。理解できたら、席を外してくれたまえ」
ナザリが言葉で追い打ちをかけて、クリフを扉の外に押し出した。ラウリーは後ろ髪を引かれるような思いを持ったが、クリフも同じだったのだろうか、彼は戸口に手をかけて、少し立ち止まった。
「……勝手にしろ」
背中で吐き捨てて、振り向かずに行ってしまった。クリフの表情は想像もつかない。だが吐き捨てながらも、どこか暖かい言葉だと感じられたのは、なぜだろう。彼が本当は違うことを言おうとしたのではと思えたからかも知れない。
考えていても仕方がない。
ラウリーは閉じられた扉への思いを断ち切って、ナザリに向きなおった。
「始めます」
ナザリが頷いて、表情を変えた。
「クリフや他の者に戦略を伝えるのは、君がこの術をできるようになってからだ。できなければ他の手段を考えなければならない」
「できます」
できるか? と問われる前に、ラウリーは答えた。言いながら、座りなおす。
「呪文は完璧のようだな」
ナザリは立ち上がり、部屋の窓を閉めていった。木窓を密閉すると、部屋はかなり暗くなる。灯りが一つもない場所で、ラウリーは目前の白いローソクに集中した。
「寝言で言えるぐらい、憶えました」
ラウリーの真剣な顔で言われた冗談に、ナザリが口の端を上げた。再びラウリーの正面に着座する。
ラウリーはローソクに両手をかざした。本当なら手もない方が良い。だが慣れてないと、補助が要る。ラウリーは指の先を合わせ、手の中にローソクを覆った。
目を、すっと細める。口から、誰にも理解できない言葉が発せられた。神々にだけ聞き届けられる、古い言葉。
以前はそう感じる暇がなかったが、ラウリーは詠唱していると心が落ち着くことに気が付いた。意識を言葉に集中するためか、言葉そのものが『力』を持っているんだか……。
2度、魔法を使った。
最初は兄に。次に、ディナティ王に。
いずれの時も必死だったので考える余裕がなかったが、どちらの時も、そして今も、ラウリーは穏やかな気持ちになっている。自分の内面、心の奥底と向きあうような、それでいて世界に自分が同化していくかのような。些事にこだわらない、“個”を超えた自分を感じるように思えるのだ。
その空間の中から『力』を練り出す。
熱を生みだす。
ただ一点にだけ、集中して。
熱が炎に変わるまで、熱く。熱く。
だが……。
パンッという破裂音に驚いて、ラウリーは目を見開いた。途端、魔力が四散した。気絶しかけた。ラウリーは額の汗をぬぐった。“熱”の魔法だから汗を掻いたのか、冷や汗なのかは分からない。
『力』を放出した後の体は冷えていた。ナザリが立ち上がり、ラウリーの肩にショールをかけた。
ローソクに火は灯っていない。
失敗だったのだ。
「だが火花は見えた。きちんとローソクの芯に当てることができれば、炎が着いただろう。……もう少し大きい火花である必要もあるが」
ナザリの言い方は柔らかいが、まだまだ力不足だと言っているに等しい。ラウリーは肩を落とした。
そして気を取りなおして背を正し、またローソクに手をかざす。ナザリも口を閉じて、そんな彼女を見守る。
けれど、やり直せばやり直すほど……焦れば焦るほど、火花すらも出せなくなって来る。ラウリーの顔には段々と生気がなくなってきた。
「これまでだな」
ナザリが再び立ち上がり、窓を一つ開けた。潮の匂いを含む新鮮な空気が、室内を一掃する。午後になって、春の日ざしに暖められた海が匂い立っているのだ。潮も満ち始めたらしく、船が揺れた。
「後は夕食まで休みなさい。また明日にしよう」
「いえ。もう少し」
ラウリーは短時間で急激にやつれたにも関わらず、席を立とうとしない。ナザリは肩を竦めて、席に着いた。窓は開けっ放しである。彼はラウリーの顔を見すえた。
「良いかね、ラウリー。実際には、こんなに整った環境ではない。もっと人が往来しておりザワザワとうるさく、目障りなものも沢山ある。そんな中で君は、狙いを定めて一点にだけ火を灯さなければならない。しかも悠長に長時間、魔力を練っている暇はない。一瞬で点火しなければならないんだ」
「それは分かってます……けど……」
ラウリーは反論を出せず、尻すぼみになって俯いた。この術を練習しはじめて、もう5日目である。まったく成功できない自分に、ラウリーは焦りを感じていた。
「当日は、そんな疲れた顔をさせない。明日、体調を整えてから再挑戦するんだ。まだ2日ある」
「でも、もう2日しかありません」
泣きそうに目を潤ませて、ラウリーはナザリに訴えた。例え明日成功しても、明後日も、そしてその翌日である本番にも間違いなく成功するとは限らない。当日の環境が悪いというなら、せめて練習は体調が悪いぐらいで臨まないと、意味がない。
ラウリーはそう言って、練習の続行を願い出た。
「そうだな」
ナザリも観念したのか、同意した。
「私にはできないことを、やらせようとしているんだ。少しは君に従うべきだろうな」
ナザリは腕を組んだままだ。窓は閉めないつもりらしい。海に面している窓なので誰かが覗いてくることはないが、強い潮風が吹いてくる。肌を撫でられれば当然、気が散る。
ラウリーの視線に気付いても、ナザリは窓を閉めない。
「今日できなければ、ソラムレア正規軍への攻撃計画を変更する。君に、この戦争に勝てるかどうかが、かかっている。必ず成功しなければならない」
ラウリーはつばを飲んだ。だがナザリは容赦しない。
「負担か。重圧になるなら、もっと言おう。ラウリー、君の失敗は自分の身だけでなく、大勢を殺す。クリフも死ぬかも知れない。“ピニッツ”は壊滅し、ソラムレア反乱軍も滅び、ひいては世界が変貌する。たった一つの点火だけでな。一つ一つの行動はすべて無関係ではなく、その時に右足を出したか左足を出したかだけで運命が変わることだってあり得るのだ。……もう休みたまえ。別の計画は考えてある」
その言い方が柔らかかったので、かえってラウリーの顔つきが変わった。諦めではない顔へ。
椅子に座りなおす。目に輝きが戻る。魔法の詠唱が始まった。
本物の火を灯すことはできないナザリだが、まんまとラウリーを焚きつけたのだ。ナザリは彼女の意欲に、苦笑した。
「明日は気絶しないように、だな」
呟いてナザリは立ち上がり、落ちてしまったショールをラウリーの肩にかけた。
薄暗い部屋の中で揺れるローソクの炎が、机に突っ伏してしまったラウリーの顔を、暖かく照らしていた。
◇
目が覚めた後、ラウリーは着替えもそこそこにベッドへ倒れこんだ。マシャが夕食に誘ってくれたが、到底食べる元気などなかった。
「後で食べるって言っても、遅いよ。あの連中だもん、残らないよ」
事情を知るマシャが心配してくれたが、とにかく眠って体力を回復させないことには、水ですら喉を通らなさそうだ。きっと翌朝まで寝ちゃうから大丈夫と笑って、ラウリーはマシャを退室させた。
ナザリは、ラウリーを気絶させない。今日のように、いつも直前に手を叩いて現実に引き戻すのだ。今日、最後に気絶したのは、火がついたご褒美のようなものだ。放出しきって燃えつきてしまう方が楽なのだが、だからこそ、ナザリはそれを遮る。楽に逃げてはいけない。魔法を使っても、すぐ次の行動に移らなければならないのだ。
ナザリがラウリーに“火花”を要求したのも、そのためである。“炎”でなく。
『大きな力でなくて良い』
と、ナザリは練習の際に、ラウリーに言った。
「魔法が使えない、自分は無力だと言って嘆くのは、まったく力を持たないゼロの人間が言うことだ。例え100%、80%の力を持っていなくても、50、30で可能なことがいくらでもある。上を見て落胆する必要はない」
ナザリの言うことは分かる。正論だ。
けれど要求された内容は、一朝一夕でできることではなかった。
「疲れた……」
ラウリーはペッタリとベッドに貼りつき、起きあがれなくなった。まだ毛布を体に乗せていない。この状態で眠ってしまったら、風邪を引くだろう。おそらく自分は明日の朝まで目覚めない。いや朝になっても、起きられるかどうか分からない。
それでも今日はできたのだ。火が灯った。ナザリは、気絶した自分が目覚めるまで、ローソクの炎を守ってくれた。そして言ったのだ。
「君の力だ」
どれほど嬉しかったか。
努力がなかったといえば嘘になる。寝る間を惜しんで打ちこんだのだ。報われた、と思えた。この成功にあぐらを掻かず、明日は今日よりも成果を出さなければならない。
ラウリーはつらつらと考えながらも、眠りのふちに引きずり込まれていた。
「毛布……」
手を伸ばしてみるが、届かない。横になる前に毛布を手にしておけば良かった。そう思ったラウリーの願いが届いたのか何の魔法なのか、自分の体に毛布がそっと覆いかぶさってきた。
「?」
もう目を開けられないラウリーは、自分の側に気配を感じたものの、それが誰だか分からずに眉を寄せた。あるいは夢なのか。気のせいか良い香りまでする。食べ物の匂いだったが、食べたいとは思えなかった。腹を鳴らす元気もない。
ラウリーは、心配してくれたマシャが自分に食事を持ってきてくれたのかと思い、
「マシャ?」
小さく呟いた。声になっているのかどうかも自分で分からないほど夢うつつだったが、その者は気付いてくれたらしい。立ち尽くしているのを感じる。
「ごめ……ちょっと食べられ……」
手を伸ばしたが、届かない。なおも力なく揺れるラウリーの手を、その者が掴んで毛布の中へ戻した。眠れということらしい。
ラウリーは掴まれた腕の感触に、疑問を持った。柔らかで小さな手ではないように感じたのだ。ちょっと骨ばった男性のもの。けれど荒々しくなく、臆病と言って良い手つきのように感じる。ラウリーは気合いでまぶたに力を入れた。けれど、うっすらとしか開けられなかった。
赤髪の青年が見えた。気がした。
「……クリフ?」
久しく見ていなかった、睨み顔以外の表情。心配そうなのか憐れみか、それとも疑問か悲しみなのか分からない。
どれでも良いや。
ラウリーはふいに顔が緩むのを感じながら、離れかけた青年の袖を掴みかえした。青年は驚いたらしく、慌てて手を引っこめようとした。ラウリーの手が連れて行かれて、また毛布からはみ出る。それを青年がまた戻そうとしてくれる。それをラウリーが、また掴む。ひそやかな攻防に、ふわふわと毛布の衣擦れだけが音を立てる。
青年。
いや、多分クリフだ。
ラウリーはそう思いながらも何もできずに、じっとクリフの手を捕まえたままでいた。まるで、手から想いを伝えようとでもするように。
ラウリーが近付くとクリフが苦しんでしまう、むしろ憎んでくれと思っていたことが分かってから以降、ラウリーはクリフに話しかけていない。壊れたものは直らない。どんなに言葉を尽くしても同情や哀れみだと思われるなら、逆効果だ。
自分が以前、クリフの何を見ても聞いても苛立ちにしかならなかった頃と同様に。
ぶつけることはできても受け止められない、不器用な私たち。
『私、どうしたら良いと思いますか?』
数日前、ルイサを見かけた時。
ラウリーはためらいながらも、彼女に駆けよった。
「どうしたら良いなんて、私はクリフじゃないんだから分からないわ」
ルイサは呆れたものだった。
ごもっとも、だ。質問してしまった自分に後悔するラウリーに、ルイサはかすかに苦笑した。
「クリフなら何がして欲しいと思うのか……私より、よっぽど長く一緒にいるんだから。あなたなりに、やるしかないんじゃない?」
「分かりました。お手数おかけしました」
ルイサの周りには供をする男らがいたので平静を保ったつもりだったが、不愉快を隠しきることができたかどうかは分からない。ルイサから向けられる険のある言葉には慣れない。もっともルイサも、ラウリーを挑発するのが目的なんじゃないかと思える。
この人と仲良くなれる日は来ないのかも知れない。
だがルイサの言うことは、いちいち頷けた。
そしてラウリーは思う。
ラウリーも、クリフじゃない。
何がして欲しいのかというなら、まず間違いなくクリフはラウリーに戦争へなど参加して欲しくない、大人しくしていて欲しいはずだ。けれど、それがクリフに対して正しい態度なのかと考えると、疑問になる。
だからラウリーは、自分が尊敬する者を思い浮かべてみた。両親や兄、それに、あの人。母や兄は優しいが、芯に強さを秘めていた。父やあの人は寡黙だったが、いたわりをくれた。
誰に自分を当てはめても、答は一つだった。
「……」
ラウリーは睡魔と戦いながら、口を動かした。だが声にならなかった。声を聞きとろうとするクリフの顔が近くに寄ったような気がした。
その後に自分が何を言ったのかは、まったく憶えていない。言えなかったのかも知れない。声になる前に、眠りに落ちたのかも知れない。クリフは何も聞かずに去ったかも知れない。けれど構わない。
ラウリーは安らかに眠った。
──マシャに押しつけられた食事を置いたら、すぐに出ていくつもりだったのに……。
クリフが、彼女の手を振りほどいて飛びだした部屋の扉に背をもたせかけて、真っ赤な顔に手を当てて俯いていることを、ラウリーは知らない。