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3-6(俘虜)

 ――それは儚い夢だった。

 ナティの月が始まる頃には、本格的に空気が柔らかく暖かくなり、花々も美しく咲き誇る。その神にふさわしい輝きを誇示するがごとく、世界が華やかに彩られる月だ。優しいマラナの月が人々を癒して春を出迎え、ナティ神がさらに笑みをもたらす。

 ソラムレア宮殿の庭も、様々な花が開いて香しい薫りを放っていたものだった。

 少女は無邪気に駆けまわったものだった。

「ほら見て、父王様」

 自分の庭を自慢して駆けまわる幼い彼女の世界が壊れたのは、たった一日のできごとだった。彼女はすべての花が赤く染まった日のことを忘れない。

 赤は、血と炎の色。

 目前で惨殺されていった人々の顔は、一人も忘れない。首だけになった父王の白い目玉に宿っていた恨みは、自分の瞳に宿らせた。

 荒れ狂うゴーナの群れに潰されていく人々。まるで試し切りか何かのように、殺されていく人々。王族を守ろうとして死んでいった者たちは、あなたと同じ平民だったはずなのに。

 タットワ・バジャル。

 私を殺さなかったことを後悔させてやる。

「……様。王女様っ」

 彼女はふいに体を揺らされて目を覚まし、びくりと体を震わせた。大きくのけぞる。

 彼女の戦々恐々とした大袈裟な表情に、触れた者が尻込みした。

「申し訳ございません」

 彼女に触れた青年は、膝を折って丁寧に謝罪した。ソラムレア軍の服装。付いている紋章から見て、上等兵のようではある。

「うなされておいででしたので、お目覚めいただくべきかと判断し、声をかけました」

 まだ若いだろう男だったが、言葉遣いは綺麗だ。一応、彼女の元へ訪れるにふさわしいと思われる者をよこしてきたわけか……と悪夢から目覚めた、王女と呼ばれた彼女は、男を値踏みした。

「よろしかったら、おくつろぎ下さい」

 さしだされたものは、陶磁器の中でたゆとう紅茶だった。

 長椅子の上で体をずらし、手を伸ばす。

 小さな、けれど技術と芸術がふんだんに詰まっているテーブルの上に、一つだけ置かれている紅茶。彼女のためだけのものである。

 細く小さな白い指が、陶器を持ちあげる。

 その手を覆う袖は白いレースを重ねて作られたものだ。一目で高級と分かる華美な装飾が、繊細な糸で織られてある。ドレスは、まっすぐ伸びた長い髪と同じ生成り色で、要所要所にすべて白のレースが縫い込んである。腰や襟、裾などに施されたリボンは黒で統一されていて、それらをまとう彼女は人形さながらだった。襟のリボンと一緒に装着された青い石のブローチが、さらに彼女を引き立てる。

 顔形も人形のように整っている。

 薄い茶色の輝きをおさめる双眸は、目尻がややつり上がっているが、長いまつげをたたえた二重まぶたが、その鋭さを補ってあまりある。小さいながらも筋の通った鼻と、その下で引き結ばれている可憐な唇には、意志の強さが滲み出ている。

 だが彼女の強さは、やや間違った方向に発揮されている……と、彼女に関わる者は皆、口を揃えて影でぼやく。

 彼女は受け皿にカップを戻し、青年を見た。

「まずい。私に何を飲ませるのよ」

 嫌悪を込めた、はっきりとした口調には容赦がない。ドレス姿にふさわしい可愛らしい姿で放たれた、情の微塵もない言葉に、青年はぐっと顎を引いた。怒りを堪えたのだろう。

「申し訳ございません」

「ここに来て、もう何週間になると思うの? ちっとも、まともなお茶が出て来ないじゃない」

「……精進します」

「お前がいれたの?」

「はい。あ、いえ。何度かいれてみて、できたと思ったものをお持ちしました」

 だが青年の格好は召使いでなく、軍服である。カップに茶を注ぐ手つきもおぼつかなかった男だ、きっと厨房には失敗した茶の葉が山積みになっているのではないだろうか。

 いつもは雇われ女中が来るのだが、あまりに彼女が駄目出しをするので、とうとう人材が尽きたというところらしい。

 ふうんと一人ごちてから彼女は、すいと立ち上がった。

「これ片付けておいて。艦長のところに行ってくるわ」

 足取りも軽やかに歩きだした彼女に、軍人らしき青年は慌てた。

「困ります、ユノライニ様。アムナ・ハーツ艦長様はご多忙です。用件なら私が伝えますので、あまり艦内を勝手に歩きまわらないで下さい」

 青年の言葉に呼応するように、室内が揺れた。

 緑色の絨毯と白い壁で高貴な風情をかもし出している部屋だが、その下は海なのである。港に停泊中である。大きな船だが、港も大きいので沖に停泊しているわけではない。桟橋に横付けされている。しかし、それでも少しも揺れないというわけには行かない。まぁ地面だって時折は揺れるものだが。

 けれども彼女は、さすが「何週間」と言うだけあって、たおやかな肢体にもかかわらず、部屋が揺れても動じない。

 ユノライニと呼ばれた彼女は戸口に手をかけたまま振り向き、青年を一瞥した。

「この私が艦長と言葉を交わすのだって、本当は異例よ。お前ごときが伝言などと、分をわきまえなさい」

 そう言うと、ツンと顔をそむけて部屋を出ていくのである。軍人青年は「ごとき」と言われて憤慨したため、一歩出遅れてしまった。

「ま、お待ち下さい、ユノライニ王女っ」

 ──ソラムレア王朝、最後の王族。若干13歳の王女ユノライニである。

「アムナ・ハーツ!」

 勢いよく開け放たれた扉は、艦長室のものである。彼女はこの部屋まで、艦内を一度も迷わずに到着できるようになっていた。

 だが中にいる人間は、この来客に対して快く思っていないらしい。奥の大きな机に座って書類と格闘していた男は、まったく感情のこもっていない笑顔で彼女を迎えたのだった。

「これはご機嫌うるわしゅう。王女と思えぬほど、いつもお元気で何よりです、ユノライニ様」

 さすがに、ここまで露骨に言われて気付かないわけがない。怒りを覚えると逆に冷静になるらしいユノライニは、すうっと周囲の温度を下げるような蔑んだ笑みで、この挨拶に応えた。

「あなたもあいかわらずね。あら、そうでもないわ。会わなかった3日の間に、また薄くなったかしら?」

 ユノライニが“薄い”と指して言ったのは、彼の頭髪である。この海軍内において最高権力者である艦長アムナ・ハーツに対して、誰もが思ってはいても口に出せないその暴言を平気で吐くのは、ユノライニだけだ。

 アムナは表情こそ抑えたものの、こめかみと耳がピクピクと動き、頬が紅潮しかかった。頭皮まで赤くなっているのが、特に頂上がよく見える。

「ユノライニ様。“おいた”もほどほどになさいませんと容赦いたしませんよ。私はこれでも多忙な身なのです」

 さすがに『子守をしている暇はない』とまでは言わなかったが、そこまで聞こえそうな口振りだった。そんな彼は、それ見よがしに山積みの書類から皮紙を一枚手元に引きよせ、内容を熟読してペンを走らせた。

「用がないなら、お部屋にお戻り下さい」

 だが少女も負けていない。

「お前、馬鹿なの? 用があるから来たんじゃない」

 アムナは立ち上がりかけたが、机に肘を押しつけて息を整えた。ユノライニは彼が何やら自分を蔑む呪文を唱えているらしいのを、無視した。

 部屋を眺めてみる。本棚に、簡単な食器棚。机。ソファ。確かに仕事をしている卓上には皮紙や本が山積みだが、それはいつものことだし、部屋全体は綺麗なものだ。小娘一人の相手もできないほど切羽詰まっているようには見えない。

「命じておいた報告がまだ来ないから、私から直接ここに来たのよ」

 夢見が悪かったからだ、などとは言わないが。

 ユノライニの言葉に、アムナは立ち上がることで舌打ちをごまかした。

「王女様がお命じ下さった件は、すぐ分かることではございません。今しばらくのご猶予をいただきたく、」

「お前にとっては先月のことも、まだ“今”というのね。偵察艇の一隻ぐらい、3週間もあれば往復できるのではなくて? 少なくとも私に経過報告をすべきだわ」

「これは失礼をいたしました」

 素早く直角にまで腰を折って謝罪したアムナからは、誠意がまるで感じられない。だが一応の体面を見せた以上は許さないわけに行かない。ユノライニは彼に、顔を上げるように言った。

 アムナは気まずそうに言い淀んでから、口を割った。

「実のところ偵察艇は戻りましたものの、先だっての海戦もあって混乱しており、充分なことをお伝えしている余裕がなかったのです。ユノライニ様が一番知りたがっておられました魔法使いラハウ様の消息も不明でございますれば、お耳に入れるのは酷かと思い、黙っておりました」

「ラハウ様が消息不明なのは、“念話”が不通なんだから分かり切っていることです。例えお亡くなりになられたと聞いて悲しむとしても、何の連絡もなく待たされる苛立ちと、どちらが健康的かしら?」

 ユノライニの言い分はしごくもっともだ。二の句が継げなくなった中年艦長は黙り込んだ。もちろん彼は、少女を悲しませたくなくて報告を控えていたわけではなく、かといって忘れていたわけでもない。

 アムナは速攻で、脳裏でシナリオを立て始めた。

 彼女を守るべき、この艦隊の親玉でもあった皇帝タットワが死んだことを、この王女に言っても取り乱されない言い訳を。反乱軍が──国民が決起したことを聞いたら、この小娘は国民に寝返らないとも限らない。

 13歳ながらもユノライニには魔力がある。潜在していた『力』を具体的に使えるまでになったのは、師匠がラハウだったからだ。

“念話”は力さえあれば、遠く離れた者とでも意志の疎通ができる。ユノライニはその力を増幅させるものとして、宝物庫から引っぱりだしてきた魔石を身につけている。それが胸のブローチだ。青く輝く、マラナ神の力を有した石。本当に効いているのかどうかは分からない。お守りのようなものだ。と、彼女は周囲に吹聴している。

 ユノライニはそのブローチの上から胸に手を当てて、なるだけ低い声で、

「言いなさい」

 と凄んだ。まったく迫力のない可愛らしい凄みに、アムナは失笑しかけて咳払いした。そして急に表情を変えた。

 アムナは「お可哀相なユノライニ様」と呟いた。そこには憐憫らしき色が見える。唐突な豹変に、少女はたじろいだ。

「私は悲しまないわよ。ラハウ様がお亡くなりになられるなら、それもきっと必要な死だったのでしょうから」

「いいえ。ラハウ様のことではありません」

 アムナは少女の前に立ち、すっと片膝を突いてユノライニの手を取った。白く華奢な手の甲へ、唇を当てる。ユノライニは、そのこと自体には何の感情も持たず、ただ彼の頭がよく見えるなと思った程度だった。

「申し上げましょう、王女様。……反乱軍どもが、あなた様を保護して下さっていた皇帝陛下を討ち取り、今度はあなた様をも亡き者にせんと、この艦に攻め入っているということを」

「え?」

 あまりに予想外のことを聞かされたユノライニは、口を半開きにして固まってしまった。アムナは膝を突いたまま、そんな彼女を支えようとするかのように、彼女の手を握りしめた。

「タットワが、亡くなった……?」

 嘘、と呟いた声は、声になっていなかった。人生の目標と言っても過言ではなかった相手が亡くなり、ユノライニは体から力が抜けるのを感じた。

 だが、もう一つの目標が途絶えていない。そして厄介なことになっている。

「私を亡き者に? ……そんな」

 国民が。国民のために生きよと言われて歯を食いしばってきた自分を、国民が殺しに来た、と。

「辛い報告ですが、いつまでも逃れられませんので申し上げます。王女様。先だってこの艦を攻めてきた蛮族は、あれは我がソラムレアの民、反乱軍だったのです」

 少女は目を見開いた。

「馬鹿な! 国民相手に闘うなんて。反乱軍とは和解して国力を上げる約束だったじゃない、なぜ私を間に置かなかったの?! 私は、」

「ソラムレア王朝のユノライニ王女様です」

 少女の言葉をひったくり、アムナはまっすぐ彼女を見上げた。

「だからこそ彼らの前にあなた様を出すわけに行かなかったのですよ。タットワを殺して王都を制圧した連中です。問答無用ですから、きっとユノライニ様が現れたりなどしたら恐ろしいことになっていたでしょう……」

 アムナは語尾を濁して目を伏せた。

「あなた様は最後の王族であらせられます」

「言われずとも分かっているわ。お前の君主タットワ皇帝が、私の身内をすべて斬首したのですからね」

 ユノライニは憎しみを感じさせる強い口調で、不安をはねのけようとした。アムナの手も振りほどこうとした。だがアムナは、彼女の手をしっかりと掴んで放さない。

「どうかお考えをお改め下さい、姫様。皇帝は王族の血を絶やさず国を治めるために、苦汁のご決断をなされたのです。その血を完全に絶とうとしているのが反乱軍、愚考の愚民なのです。いいえ、ほんの一部ですよ。多くの国民はあなたをお慕いしているはずです。一部の国民が反乱軍と化し、皇帝を斬首して王都を乗っ取っているのです」

 アムナは自分の言葉が彼女に浸透するのを待ってから唇を舐めて、続けた。

「考えてもごらんなさい。民主制などと言って自分の地位を欲する者がわざわざ、また自分の上に目障りな王を据えたいと思いますか? タットワがあなたにひざまずいたことがありましたか?」

 アムナは皇帝を呼び捨てにして“皇帝も平民だった”ことを強調した。実際には評議会にも参加していた、爵位を持っていた男なので、平民と呼ぶには抵抗がある。だが、どんなに偉くとも王族の血でなければ、すべてが平民である。アムナはユノライニに流れる“王族の血”に訴えたのだ。

 幼い彼女が持つ生きる拠り所はソラムレア王朝を復活させることだけだと、アムナ・ハーツは知っている。

 ユノライニは軽く唇を噛んだ。

 確かにタットワはユノライニにひざまずいたことなど、なかった。下にも置かぬ扱いをされてはいたが、ユノライニはタットワに指一本触れさせはしなかったし、彼がユノライニに頭を下げることもなかった。周囲の者すべてに、壁があった。

 父王が生きていた頃は、もっと皆が近くにいた。遠ざけたのは自分だが、彼らもユノライニに近付こうとはしない。今こうして自分の手を放さず親密げな顔をした男ですらも、やもすればタットワより遠い。

 唯一、近いと思えたのは黒い魔法使い。ラハウ様だけだった。

 そんなユノライニの思考を、アムナの粘着質な声が現実に引き戻した。

「あの者たちは王族であるユノライニ様を邪魔に思うと共に、畏怖しているのです。あなた様の持つ『魔力』は特別です。その力をもって支配されることを恐れ、亡き者にせんとしております。ラハウ様のように」

「やっぱり……」

「離れのラハウ様の私邸がガレキになっていたとのことです。おそらく、その下敷きになられたのでは、と、」

「それは聞けないわ! 憶測で言わないでちょうだい」

 今度こそユノライニは手を振りほどき、一歩退いた。アムナの鼻先に、ふわりと花の香りが舞った。アムナは立ち上がりかけて、手を伸ばしかけて、それをぐっと我慢した。見上げる目には一種異様な情念が宿っている。獲物を追いつめる肉食獣のような光があったが、アムナはそれを少女に見られる前に素早く切り替えた。哀れで頭髪の薄い、下卑た男の顔に。

「失礼いたしました、後半の言葉は撤回いたします。ですが、それ以降ラハウ様がどこにもおられませんことは、隠さず報告をさせて頂きます」

 アムナは言い終えてから、再度ユノライニに頭を下げた。

「どうか、この船をお守り下さい。あなた様を守れるのはこのアムナの戦艦だけであり、同時に、艦隊をお守り頂ける力も、あなた様にしかないものなのです」

 ユノライニは不安げな面持ちで顎を引き、大きな瞳をさまよわせた。

「王女様」

 再び言われて、ようやく「分かってるわ」と声を絞りだした。

「戦争の怖さも、群衆も、魔法の怖さも。嫌というほど……」

 尻すぼみになった自分の呟きを振りきるように、ユノライニは顔を上げた。強くアムナを睨みつける。

「事情は分かりました。今後どうするのか、どうなるのかの見通しはあるのでしょうね?」

「ありますとも」

 アムナは余裕たっぷりの笑顔で立ち上がった。

「検討し、内容が固まりましたら報告させていただきます」

「……」

 ユノライニは分かったとも何も言わずに反転した。スカートのレースが浮き上がる。その影に見える細い足首が、下卑た男の劣情を誘う。だが彼女はまったく気が付いていない。

「ああ、そうそう」

 そんなユノライニが無邪気に振り返ったので、アムナは慌てて頭を下げた。

「私にお茶をいれた男だけど。あの者を私の従者にしてちょうだい。毎日毎日、違う者がまずいお茶をいれるのでは、気持ちが悪くなるわ」

「今日の者は、お気に召されましたか?」

 ユノライニは斜めにじっとりとアムナを睨んでから、

「精進すればね」

 とだけ言って、さっさと退室した。

 残されたアムナ・ハーツは鋭い視線で扉を一瞥し、ユノライニを掴んでいた手の香りを確かめてから、ゆっくりと席に戻った。

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