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3-3(覆水)

 船底の倉庫を飛びだしたラウリーは、甲板に戻った。

 本当は自室に閉じこもって泣きじゃくりたい気分だった。だがラウリーがクリフを追ったのを見た者は何人もいるし、その中にはルイサだって含まれているのだ、そんなみっともない真似はできない。彼女には自分の様子を察知されたくなかった。自室に戻るのは逃げだ。悔しくて戻れなかった。

「あ、良かったわ、まだ戦ってたのね」

「いい加減にしろよって感じもあるけど」

 などと周囲の者らと気軽に言葉を交わし、ラウリーは明るい声を出してギムたちを応援した。マシャがラウリーに気付いて意味ありげな顔を向けてくるので、ラウリーもおどけながら苦笑して見せた。

 皆の叫声に囲まれてはしゃぐラウリーの胸で、空虚になった部分にズキズキと痛みが響いた。

 無知という、自分の罪が痛い。

 我を押しつけて、結局はクリフの本当の辛さが見えていなかったのだ。彼の痛みがどんなに深かったのか、分かっていなかった。

 自分に都合の良いように想像し、期待していた。

 誰も、誰かの思い通りになんてならないのに。

「ギム、勝利!」

 マシャが喜び、ギムが吼えた。歓声が高く上がった。腕相撲の台にしていた樽の蓋が開けられて、昼間のうちから酒宴になった。皆の騒ぎが一層大きくなる。誰かが「待ってました!」と手を叩く。ラウリーも一緒になって満面の笑みを皆に贈った。

「はい解散、解散!」

 ひとしきり騒いだ末に、マシャが場を沈めた。皆が遊んでいる間にも船は動き続けている。手の放せない場所にいる者もいる。皆おどけながら笑いながらも、早々にめいめいの仕事へ戻っていった。

 マシャもなかなか忙しい身なので、ラウリーは一人で部屋に戻った。甲板の横につけてある低い階段を降りると廊下になっていて、そこに部屋が並んでいる。その一室、マシャの部屋に、ラウリーは同居させてもらっている。

 そんなラウリーのことを、彼女は待っていたらしい。彼女は、部屋の扉に背をもたせかけていた。ラウリーは痛みが増すのを感じた。

 仕事が終わらなければ、この通路には誰も帰ってこない。夕食にも間があるので、室内に仕事を持っているラウリーが反転するのもおかしい。用を足しに行くというのも、わざとらしすぎる。

 ラウリーは我慢して踏みとどまり、ルイサを見た。彼女の碧眼は、まっすぐラウリーを捕らえている。

「どうだった?」

 ルイサが言った。歯がみしたくなった。

 時間稼ぎすらも見透かされていたようで、悔しい。

「あなたは、」

「ルイサでいいわよ」

「……あなたは、分かっていたんですか?」

 ルイサは小声で「怖い顔」と呟いて、肩を竦めた。

「私が言っても無駄でしょ? 自分で気付かなきゃ」

 ラウリーは思わず目をそむけてしまった。ルイサの目がまっすぐすぎて見ていられない。怒るなと自分に言い聞かせるが、ルイサの声には神経を逆撫でされる。

 逆撫でされるのは、それが図星だからだ。

「おめでとうございます、これでクリフはあなたのものだわ。どいて下さい」

 そう言い放って部屋の扉に手をかけようとすると、それを遮っているルイサが、

「あら、いらないわよクリフなんて」

 と、コロコロと笑った。

 睨む目に力がこもる。ルイサはそれを、あっさりと受け流す。

「自分ばかりを責めることないわ。クリフも悪いのよ、あれは」

 ラウリーは眉をひそめた。腕を組んで微笑むルイサに邪気はない。

 間近で見ても、いや、間近で見ると彼女は一層美しかった。染み一つない、滑るような白い肌。神の念をまったく受けていない透明な髪。女なら誰しもが羨み嫉妬するに違いない彼女には、もっと意地悪な目をしていて欲しいのに。

 ルイサは慈愛の女神マラナの瞳で、ラウリーを見る。

「彼があなたに嫌われようとしていたことは、分かったんでしょう?」

「……ええ」

 ラウリーは敗北感を味わいながら、観念して呟いた。扉のノヴから手を放す。しょんぼりとしてしまった紫髪の娘を、ルイサは一度だけポンと撫でて、すぐ手を引っこめた。

「でも、それがわざとじゃなくて本当に嫌われたかったんだとしたら?」

「?」

「だから、あなたを傷付けたクリフも悪い」

 意味が分からない。好かれようと努力するならともかく、どうしてわざわざ、それを望むのか。ラウリーのためではなかったのなら、どんな理由が……。

 思いあたったラウリーは、泣かないよう腹に力を入れた。

 そんなに嫌われていても……当然かも知れない。

 ラウリーの複雑な顔を見て、ルイサは苦笑した。

「自分の罪をちゃんと責めて欲しいって時もね、あるのよ」

「え? ちゃんと責めるって……。普通は許して欲しいものじゃないんですか?」

 だからラウリーは早くクリフに自分の「許し」を伝えなければと思った。

 それに対してルイサは、ゆっくりと諭した。

「本当に理解してない人に良いよって言われても、嬉しくないでしょう?」

 疑問形で返されて、ラウリーは答に窮した。答が出なくて戸惑ったからではない。それが分かるから、言えなかったのだ。

 ラウリーの沈黙を承諾と見てルイサは、

「誰もクリフを責めないから。クリフは、あなたには責められたかったんじゃないかな。あなたはオルセイの妹だから」

 そっと言った。

 ラウリーの脳裏に、叩かれたような衝撃が走った。

 クリフを憎んで死ねなくなったラウリー。

 自分を憎ませて“役割”を持つことで死から逃れた、クリフ。

 死にたかったのはラウリーだけじゃない。

 皆に優しくしてもらったのは、ラウリーばかりではない。クリフだって丁寧に扱われた。崇め、奉られた。皆がダナの──オルセイの死を肯定した。助けてくれたと感謝した。結果的にはそうだ、ラウリーは、クリフはディナティ王を助けてネロウェン人を救い、世界を救ったことになったのだ。

 でも本当に救いたかったのは……。

「あ」

 ラウリーは慌てて目を強く押して、涙をぬぐった。

 それをごまかすために、ラウリーは再度ルイサを睨んだ。ルイサはそれを受けて、ゆったりと唇を引く。

「情を持たれるのも辛い相手なら、いっそ自分から断ち切った方が、気が楽だものね。けれど離れることはできなかった。あなたが、そんなだから。厄介だこと」

 ルイサはラウリーを見下ろして言った。諦めのような、「困った子ね」と言いたげな空気を感じる。

 ルイサがかかとのあるブーツを履いているせいもあるが、ラウリーの方が背が低いので自然と上目遣いに睨む形になる。ルイサは少し前かがみになって、そんなラウリーの顎をくっと持ちあげた。キスでもしそうな至近距離にある妖艶な笑みに、ラウリーの胸がドキリと鳴った。

「砂糖菓子みたいな、お雛さま。裸になってクリフの胸に飛びこんだら、ちょっとは分かるんじゃないかしら?」

 裸と言われて、ラウリーは瞬時に沸騰した。

「そ、そんな比喩、」

「比喩じゃないわよ。脱げって言ってんの」

「ルイサさん!」

 あまりの恥ずかしさに大声を出してしまった。そんなの考えたこともなかったのに……と言えば嘘になるが。好きだと自覚した日から、それなりには思わないこともなかった。

 けれど、どう考えたってできるわけがありません。

 ひそやかにくすくすと笑うルイサは、一歩退いてラウリーに道を譲った。それどころか「どうぞ」と扉を開けてくれるので、ラウリーは入らざるを得なくなってしまった。

「ようやく名前を呼んでくれたわね」

 すれ違いざま、ルイサが小さくため息をついた。

「安心なさい。別に私、今からクリフのところに行こうなんて思ってないから」

「……意地悪ですね」

 と、ラウリーが返す。するとルイサは口に手を当てて、ふふと笑った。

「あら、あなたが泣いて帰ってきたりなんかしたら、もっと苛めちゃうつもりだったのよ」

 ハートマークが語尾につきそうなほど軽やかに言われて、やっぱり敗北感を味わうラウリーだった。

 部屋に入って扉を閉められると、ラウリーはよろよろとベッドに沈みこんだ。だからラウリーは、ルイサが扉の外で、

「だから先にクリフに会って、頬の一発も引っぱたいておこうかと思ってたのにねぇ」

 と呟いたことを知らない。

 目は乾いていたが、喉もカラカラだった。

 クリフの態度を目の当たりにしただけでも痛感したのに、ルイサに聞かされて、それが確定してしまった。ルイサはクリフも悪いと言ったが、けれど最初に間違えたのは、先に傷付けたのはラウリーだ。知らなかったのだから、そこまで理解できなかったのだからと言い訳することもできるが、そんなのは役に立たない。

 お互いに、付けなくて良い傷を付けてしまった。

 いや。

 クリフの方は、そうは言えない。

 傷付けるつもりはなかった、など。嘘だ。

 クリフは彼女を怒らせ傷付けて、自分をおとしめることで罪を受けているような、これがお前の罪だと突きつけられて納得しているような気になっていただけなのだ。怒りや哀しみの矛先を持たなかったラウリーに自分を憎ませて、生きる力をつけさせてやることで贖罪としていた。

 そんなことは何の許しにもなりはしないのに。

 ラウリーと同じく後悔する男は、整理する手を止めて木箱に腰かけ、どっぷりと落ちこんでいる最中だった。船底の暗さが、一層、気持ちを落ち込ませる。

 情けないこと、この上ない。

 一生、吐露しないつもりだった決意の、何と脆かったことか。

 中途半端な、自分の本音を理解していない謝り方をされて、頭に血が上ってしまった。それこそ「俺の気も知らないで」だ。

 以前にラウリーが言った言葉を思い出す。

『クリフには分からないわ』

「ああ、分からんね」

 クリフは俯いたまま、声に出して呟いた。

 お前にだって分からんだろうが。

 なんて思う、こんな平行線はガキのケンカだ。

 そう思っていても、分かっていても、どうすることもできなかった。感情が先走ってしまった。ただ普通に悲しんでいたかった。自分の手がオルセイを刺したことを認めるのは、ちょっと辛すぎる。

 でも認めなければならない。

 そんな葛藤が、ずっとクリフの中にあったのだ。

 だから、ある意味でそれを割り切ることができたラウリーに、クリフは嫉妬を感じた。ラウリーの手は、誰も汚していないから。誰にも汚されていないから。

「おおい、クリフ。生きてるか?」

 天井から板を蹴り下ろす音と共に声が降ってきて、クリフは顔を上げた。

「生きてるよっ。今、行く」

 クリフは身を起こすと残りの片付けを適当にやっつけて、抜き出した食材の籠を胸に抱えた。

 その日の夕方、食堂に顔を見せた紫髪の娘に、クリフは少なからず安堵した。

 どうせ狭い船の上だ。一日中、部屋に籠もりっきりになられるより、なるだけ表に出てきて皆と話した方が良いに決まっている。自分から話しかけるのはわざとらしいが、もし話しかけられても平静を努めよう。

 そう思うクリフの顔は、食事途中から、すでにガチガチになっていた。

「おおい、クリフ。生きてるか?」

 向いに座るトートが、先ほどと同じ言葉を投げかけてきた。トートは小狡い顔つきで、舐めるようにクリフを見上げた。クリフはそれに気付かないふりをして、シチューに専念する。

「クリフォード様はあちらにお座りのお嬢さんを気にして、」

「干し肉にブーラを選んできたのは正解だったな。良いダシが出てる」

 トートの隣りに座る恰幅の良い男、ギムが彼の言葉を遮って笑った。テーブルの下で、思いきりトートの向こうずねを蹴飛ばしつつ。痛みに対してプライドを持つ“ピニッツ”の男は、声を殺して目を白黒させた。トートが無言で悶え苦しむ様を見て、クリフは肩の力を抜いた。

「そういやギムが勝ったんだっけ?」

 普通にロマラール語を使って、普通に通じる者たちとの会話は気楽だ。ギムが「おうともよ」とロマラール国南部の訛りを使って、笑って応えた。

「まだまだ、お前たちには負けないさ。クリフには借りがあるから対戦したかったが」

「借りって……ああ」

「そうそう」

 トートも同意した。最初に船へ乗せてもらうために仕組まれた、オルセイと2人で挑んだケンカのことだ。

 何を話していても、何かの拍子にすぐオルセイの顔が浮かぶ。20年の人生をほとんど一緒にいたのだから当然だろう。ケンカもしたし、よく笑いもした。オルセイは兄貴面をしてクリフを諭すこともあった。それがクリフには悔しくて、がむしゃらになったものだった。

 喜怒哀楽が次々に出てくる。

 そして最後に浮かぶのは、ダナだ。

 冷徹で、自分たちを虫けらのように見下してきた目と……そして最後に自分を襲ったものが何なのかも分かっていなかった、きょとんとした顔が残る。その顔がクリフの脳裏で、血に染まって崩れていく。

「クリフ?」

 呼ばれて、はっと顔を上げた。上げてから、自分が俯いていたことに気が付いた。

「ああ、すまん」

「大丈夫か? お前、あんまり寝てないんじゃないか?」

 クリフは凍りかけて、ぎこちない笑みで繕った。

 まさかギムに見抜かれると思わなかった。

 ジェナルム国の帰還からこっち、泥のように疲れでもしなければ眠ることができなかった。体が本調子でないうちからネロウェン国親衛隊に混ざって訓練などしていたのも、それが原因だ。

 夢はいつも、黒いか赤いかだった。

「早く“ピニッツ”の航海に慣れるよ。安眠できるように」

「そうしろ。乗ったばかりの頃は船酔いでゲロゲロ吐きやがって」

 ギムはクリフの顔色を見なかったかのように、ガハハと笑った。その横でトートも「だよな」とクリフを揶揄する。

 からかわれている方が気が楽というのもおかしなものだが、クリフにとってはそうだった。“ピニッツ”の空気がどんどんと自分に馴染むのを感じる。クリフは心の片隅で、ラウリーもそうであれば良いがと願った。

 そんな彼女は、クリフとは違うテーブルの端に着き、クリフに横顔を見せている。“ピニッツ”の食堂には、テーブルが2つしかない。けれど10人ぐらいが座れる長いもので、部屋はそれでぎりぎり座れる程度の狭いものである。30数人からなる船員は、交代に食事を摂る。船は常に波が高く天候も狂いやすい外海を走り続けている。夜であっても全員が休めることはない。

 だが、どう順番を違えても、ラウリーには常にマシャが共にいる。おかげで食事時のラウリーの周りに会話が途絶えることはない。ラウリーも、そんなマシャの気遣いを分かっているから食堂に来るのだろう。

 押しこまれた十数人は自分の取り分のみをキッチリと手にして、一口ずつ大事に食べる。だが、その食べ方や食事最中たるや、壮絶なものだ。人いきれで熱気の籠もる部屋に、食欲をそそる匂いと笑い声が充満する。皆が食事の、より美味しい食べ方を知っている。

 そんな中、食べ終えてしまったクリフは、さてどうしたものかと考えた。

 部屋を出る途中の席に、ラウリーが座っているからだ。通路としては、そちらの方が通りやすくなっている。わざわざ避けるのも変だろう。

 そう思いながらも躊躇が出る。クリフは周囲に挨拶をしながら勢いよく立ち上がって食器を厨房に返すと、ゆっくり出口へ向かった。図ったかのように折良く助け船が到着したのは、その時だった。

「クリフはいるか?」

 カヴァクだった。

 戸口に手をかけて、室内を覗きこむように見回している。クリフは彼の使うネロウェン語を熟知しているわけではなかったが、自分の名が呼ばれたことには気が付いた。

「何だよ、何か用か?」

 まだ戸口からずいぶん離れているのに、クリフは奥から声を上げた。そしてカヴァクを見たまま、近付いていく。カヴァクは思案してから、不慣れなロマラール語で言った。

「俺じゃない。船長が呼んでいる」

「ナザリが?」

 クリフの足が止まった。

 止まったすぐ側に、ラウリーが座っていた。

 彼女の横顔も固まっている。そりゃあそうだ、自分に気付いていないはずがない。

 横からマシャが口を出した。

「ナザリが人を呼びつける時は、ろくな話じゃないよ。覚悟しな」

「かと言って、逃げる場所もない」

 すかさず苦笑で返したクリフに、マシャはケケケと笑った。

「じゃあな」

 クリフはさりげなくラウリーにも挨拶して、一瞬だけ視線を交えてから立ち去った。戸惑いながらも明るく振る舞おうとする紫の瞳が印象に残った。

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