1-6(混乱)
半島の国ロマラールは、東西と南の3方向を海に囲まれ、北に深い山脈をかかえ、他国との交流が難しい土地だ。
しかし代わりに、戦争などで攻め入られることも少ない、平和な国である。半島のほぼ中央に王都があり、国王が君臨している。のどかな国王は争いを好まず、税も厳しくなく、国民はのんびりと暮らしていた。
土地を開発していくこともなかったので、町を一歩離れると緑の多い深い森がいたるところに残っており、かろうじて国交のために必要な港町から王都に続く町々が、石造りの街道でつながれている程度だった。その道すらも整備できていない道もあり、近隣諸国に比べるとロマラールはまだまだ“田舎”だった。
そんな田舎の枯野に突然現れてみても、そこには何の手がかりも見あたらない。
「どこだ? ここ……」
赤茶の髪をぐしゃりとかき回して、クリフはしかめ面を作った。乱暴に扱ったので、髪が指にからまり、頭皮がツンと痛んだ。
「いて」
指を抜いて手ぐしで直し、前髪をかき上げておく。ちょっと長めの髪が首に触る。無精をして切らないからだ。
クリフは草原のど真ん中に仁王立ちになって、周囲を見回してみた。コマーラ家はおろか、村の影すら見当たらない。普段過ごしていた麓とは、まったく別の場所に放り出されたようだ……というぐらいは把握できた。
とりあえずクリフに分かることは、自分が生きていることと、これが夢ではないらしいことだけだった。茶色い草場が、さわさわとクリフの足元を撫でる。いつも感じる草の匂いと空気の感覚は、慣れ親しんだものだ。少なくとも、先ほどまで自分たちを打ちすえていた攻撃的な風よりは『日常』である。
クリフは足元を見おろした。
その非日常を巻きおこした張本人が、倒れている。二人一緒に飛ばされたらしい。それとも、この男が自分をここまで放り出しやがったのか。クリフには分からない。
顔は馴染みの者だが、先ほどまでは間違いなく別人だったオルセイ。今この男を起こしてみて、そこにいるのが「オルセイ」かどうか。クリフはしゃがんだが、彼に声をかけることをためらった。
何なんだ、一体。
クリフは舌打ちした。
誰からの何の説明もなしに、突然くり広げられた闘い。そう、あれは闘いだった。「オルセイ」と魔道士は、確かに闘っていた。説明をしてくれるとしたら、魔道士だっただろう。彼は、事情を知っていたに違いない。
何せ誰にも姿を見せず、魔道士を探そうとした者たちをすべて殺してきた非道の輩だ。むろん、彼らが単なる人間嫌いの世捨て人だとは、いくらクリフでも思っていない。彼らは彼らなりの理由を持って山に籠もり、人世との関わりを絶っているのだ。その辺りの知識は、口すっぱくラウリーが何度も教えてくれたものだった。
『いーい? 魔道士様っていうのはね、人間を止めて神様に近くなった方々なわけ』
人差し指を立てて説明する、紫髪の娘の顔が思い浮かんだ。
そういえばラウリーは大丈夫だったのだろうか、とクリフは思った。オルセイと魔道士の間に立ちはだかっていたが。そう思ってから苦笑した。立ちはだかる、という動作がいかにもラウリーらしかった。あんな状況というのに。ただ伏せって泣いているような、ラウリーはそんな娘ではないのだ。
「多分、大丈夫だな」
クリフは口に出して、呟いてみた。根拠はないが、口に出した方がボンヤリと考えているだけより、考えがまとまる。ラウリーは、大丈夫だ。そう思うことにして、自分の中の心配ごとを減らそうと試みた。
何せ、自分自身だってどうすれば良いのだという状態なのだ。
クリフはオルセイを起こさずこのままにしておいて、とにかく自分の村に戻る方法を考えるか、それとも一か八かでオルセイを起こすかで、悩んだ。
「……」
幼なじみである。
一つ屋根の下で暮らした、兄弟だ。
オルセイを置き去りにしてノコノコと帰ればラウリーにどやされるだろうし、自分の寝覚めも悪いに決まっている。クリフはため息をつくとオルセイの肩に手をかけて、揺らした。
「オルセイ。オルセイ、しっかりしろ」
強く揺らしてみる。
ふと気付いて、彼の口元に耳を近づけ、呼吸音を聞いてみた。正常だ。眠っているだけである。魔道士を呼んでくる前に眠り続けていた、冬眠の状態とは違う。
冬の冷たさを含んだ風が、葉を揺らして吹き抜けていった。まだ今は日が照っているし、クリフは上着を着込んでいるので少しマシだが、オルセイの方は寝間着一枚だ。このまま夜を迎えては、風邪をひくだけならまだしも、凍死してしまうかも知れない。
「起きろよ、くそ!」
クリフはオルセイの頬をはたいた。
オルセイが顔をしかめた。
「おっ。起きたか」
しかしまたすぐに顔つきが眠りのそれへと変わるので、クリフは乱暴にオルセイの胸ぐらを掴んだ。
「寝るな! 死ぬぞ!」
そう叫んでみてから、クリフの脳裏に雪山がよぎった。あの時は本当に死ぬなと思ったものだ。あれだけ辛い目をしてようやく魔道士に会えて、オルセイが目を覚ましたかと思ったら、今度はこの有様だ。
クリフはだんだんと、このオルセイがオルセイでなかったとしても、叩き起こして一発ぶん殴りたい気分になってきた。昏睡状態だって充分迷惑だったのに、起きたと思ったら部屋は滅茶苦茶にしやがるし宙に浮きやがるし戦いだすし、別人だわ笑うわ、こんな場所だわ。
「あーもう、くそ! あっ」
ゴン。
あまり強く振りすぎて、手が滑った。
「……」
オルセイがうめいた。先ほどよりさらに顔をしかめている。当然だろう。
彼の手が動き、後頭部をさする。その仕草や表情は、長年見てきた旧友のそれだった。それだけで何が分かるのかと言われそうだが、先の「オルセイ」とは何かが違うことが、雰囲気で感じられるのだ。
そう思うクリフの顔が、心ならずとも喜びに緩んでしまった。ついさっきの“一発”もすでに忘れてそうである。
「大丈夫か?」
「う……」
オルセイの目が開いた。紫の瞳が、クリフの髪をとらえた。それから、その顔をしげしげと眺めている。
「……クリフ?」
オルセイの声はいぶかしげだった。視点が定まっていないのもあるだろうが、どちら様でしたっけとでも言いたげな顔つきだ。クリフはあっと思い、顎を触った。無精髭がぼうぼうに密集している。
とことん不精者の自分ではあるが、日頃の髭は毎日ちゃんと剃っていた。あまりにラウリーが嫌がるので仕方がなしにだったのだが、母親も皆がその方が良いと言うので習慣になっていたのだ。オルセイがこちらの顔を見慣れていなくても無理はない。クリフは剃っている暇がなかったなぁと思い、苦笑した。
オルセイは上体をゆっくり起こし、頭をさすりながら周りを見渡した。
「ここは……?」
「俺にも分かんねぇ」
クリフは肩を竦め、ため息をついた。
「オルセイ、何も覚えてないか?」
オルセイはきょとんとした。記憶はないらしい。
「何かあった……んだろうなぁ」
「そりゃもう」
クリフは、何も知らない様子の、諸々の根元たるオルセイに、何をどう説明すれば良いのかと思い、頭を悩ませた。しかし急いで移動を始めなければ、日も暮れてくる。今は冬で、日も短い。
「すまんが、詳しい話は後だ。俺たちはある事情で、見も知らない場所に飛ばされちまって、ここがどこかも分からない。夜になる前に、どこかの村なり小屋なりを探さないといけないんだ」
クリフはそう言い、オルセイを立たせた。オルセイは少しよろけたが、すぐに自分の足で立つことができた。力は衰えていないらしい。あんなにも長く眠っていたとは思えない、まったく通常のオルセイだった。
オルセイはクリフの言葉をじっくりと呑みこんだようで、そして自分の格好を見下ろし、ぼんやりとだが頷いた。
「その“飛ばされた”ってのは、どういうことだ?」
「歩きながら話すよ」
クリフは空を見上げ、指を濡らして風にさらした。
「こっちから風が吹いてる。じゃあ、とりあえずこっちか?」
ここがどこであれ、草が生えているということは、草が生える地域なのだということだ。その草が枯れていて風も冷たいさまは、ついさっきまで自分の感じていた“冬”そのものである。太陽を見れば、風が北から吹いていることが分かる。
クリフのいた村は、国のほぼ最北端に位置している。だから風が吹く方向に向かって歩くというのは、得策ではない。この場所がもし村より北なら、歩いていっても何もないはずだからだ。
「ロマラール国は、南の方が栄えている。南に歩いた方が、村や町に出くわす可能性が高いと思うんだ」
オルセイより状況を掴んでいるクリフは、そう分析し、風下に向かって歩くことを提案した。しばらくその意味を思案したオルセイは、
「まあ良いだろう」
と言った。
その言い方に内心少しムッとしたクリフだったが、
「ここが国の最南端や、もしくはロマラール以外の、同じような気候の国でないことを祈るよ」
というオルセイの言葉により、
「あ」
気付いたのだった。
そもそも、一生を自国で終わる庶民がほとんどで、海外という概念などいらない生活なのだから、他国の気候や生活様式が違うことも、知識として少しは知っていても、見たことはない。顔の形や肌の色もむろん、想像したことすらないのだ。
だから、オルセイの言わんとするところを理解したとはいえ、クリフはいまいち腑に落ちない顔をしていた。
とはいえ、このまま立ち止まっていてもらちは開かない。
「いや、クリフの案で行こう。とにかくどこかには行かないと。このままここにいても、例えばさっきクリフが言った“飛ばされる”ってやつが、また起こってくれるとは思えん」
「そうだな」
クリフは、いまだ脳裏に新鮮な、その悪夢の記憶を追い払うかのように首を振った。
「それに……」
とオルセイが何かを言いかけて止めた。
「どうした?」
「いや、何でもない。行こう」
オルセイもまた何かを振り切るかのように首を振り、そして2人は歩き出した。
「なあクリフ。その“飛ばされた”ってので、俺は頭をぶつけちまったわけか?」
「……すまん、それは俺だ」