3-2(吐露)
雲一つない真っ青な空が、水平線を境に海とつながる。遠くに消える青は海も空も、限りなく平らかで穏やかだ。傾き始めた小さな太陽と青以外には何もない、風もないように見える広大な空と海の間に、ポツンと一点の黒い影が歩くようにゆるやかに動いていた。
影の進む跡に、白い波が放物線を描いて広がり、溶けていく。近付くと、それは人を簡単に飲み込むほどの大きな波である。黒い影は帆船だ。かなりの速度で海を切り裂いて滑っている。まったく動いていないように見えて、その黒い船は少しずつ帆の向きを変え、微風を捕らえながら走っていた。
黒い帆に、黒い甲板。
だが船底までは黒く塗られていない。小さな窓から日が差したところで光量が足らない船底の倉庫は、ひんやりとしていて食料保存にちょうど良い。青く広がる景色なんて見えない暗がりで、その者は倉庫整理に汗していた。
整理をしながら、命じられた食材を揃えていくのだ。たった一人で作業に勤しむ赤髪の若者は、船底に慣れていない。彼は薄暗がりに足をぶつけたり目的の物がなかなか見つからなかったりなどして、悪戦苦闘していた。
「ちくしょ~……」
だが仕事の辛さとはうらはらに、クリフのぼやきは、どこか楽しそうに響いた。それは間違いなく屈辱的で悔しい作業なのだが、何も考えずに体を動かして一人で働いていられる環境が、気楽で良いのだ。
小さなランプ一つを箱の上に置いて、積み上がった乱雑な木箱をガサゴソと探る彼は、自分の背後に人影があることに気付いていなかった。
「……クリフ?」
声に驚いて頭をはね上げたクリフは、重なる木箱に後頭部をぶつけて、うめいた。
「いってぇ」
人影が、その反応にうろたえた。
「だ、大丈夫? ごめん」
クリフは頭を押さえた腕の下から、背後に立つラウリーを睨んだ。
もう船に乗ってから何日かたつ。ラウリーの格好は、簡素なシャツとズボンを身につけて髪も結んで、すっかり船での暮らしに慣れたものになっている。部屋に閉じこもりがちではあるものの病気や船酔いは軽く、徐々に元気を取り戻している、とクリフはマシャから聞いていた。
出航してすぐの時、小規模ながらも嵐があった。にも関わらず乗り切ったということは、ラウリーはかなり船に強かったらしい。なるほど久しぶりにちゃんと見るラウリーは、薄暗い中でも顔色の良さが分かった。
だがクリフの表情は、ラウリーに対して固い。
それに釣られて、ラウリーの顔もこわばった。気まずさを感じたラウリーは、クリフに「ごめん」と言った。
「手伝うよ。私のせいみたいなもんだし」
「いらねぇよ」
ボソボソと話す娘の申し出を、クリフは低い声で一蹴した。クリフはラウリーを見ない。その横顔に、ラウリーは少しムッとした。
「悪かったって言ってるじゃない。あんなところで声を出しちゃったから……」
怒ってるんでしょうまで言いかけて、ラウリーは言葉を消した。クリフから感じる空気が痛いものになったからだ。
怒っていないわけがない、とラウリーは思った。クリフはラウリーのせいで負けたのだから。
──ラウリーの言った“あんなところ”とは、午前中に開催された腕相撲のことだった。
「腕相撲?」
思ってもいなかったセリフに、ラウリーは素っ頓狂な声で応対してしまったものだった。
部屋へ呼びに来てくれたのはマシャだ。
ラウリーが相撲をするのでなく、男たちの応援に行こうと言うのである。
「男って単純でさ。こういう時に女が声援をかけてやると、なぜだか燃えるんだよね。“ピニッツ”の恒例さ」
「恒例ねぇ」
ラウリーは、目を離してしまって編み目の数が分からなくなってしまった網を、丁寧にかぎ針に戻した。かぎ針といっても、手に収まるような大きさではない。腰丈まである大がかりな器具だ。
室内でできる作業として、マシャがラウリーに与えてくれた仕事である。これを使って漁用の大きな網を作る。ラウリーは裁縫が苦手だが、網の目さえ間違えなければ、器具のおかげできちんとした網が編める。単調な作業であるという不満を除けば、役立たずを感じなくて済む、ありがたい仕事だった。
「ちょっとずつ慣れなよ。この先も長いんだからさ」
マシャが誰に慣れろと言ったのか、その真意は掴めない。ラウリーは反射的に脳裏にクリフを浮かべたが、理性で考えれば船員たちだ。一応の挨拶は交わしたものの、まだ親しくない。
「行くわ。ありがとう」
窓から見える天気が良いこともあって心が動き、ラウリーはマシャと一緒に甲板に出た。出航後の調子が整って順調に海を滑る船は、心なしか祭気分に包まれていた。すれ違う者や甲板にたむろする者が女性2人に気付き、陽気に声をかけていく。海賊とは思えない爽やかな笑顔に、自然とラウリーもはにかみながら笑顔になった。そのはにかみ具合がやけに気に入られたらしく、男たちの反応が優しい。
一緒に歩くマシャが唇を尖らせ、手近にいた男の耳をぐわしと掴んだ。
「あてててて、放してくれよマシャ」
「待てよ、こら。あたしはそんな扱い、受けたことないぞ」
「いや、そりゃあ俺たちだって女の子相手なら、って、おーっ!?」
盛大に引っぱられて、男がよろめいた。ラウリーは2人を見て、声を出して笑った。
「うわ、むかつくねぇ」
笑うラウリーを、マシャがからかう。
「聞いてるよ、オルセイから。ラウリーだって大した気の強さらしいじゃん」
マシャは物怖じせずにその名をさらりと言って、ラウリーの背中を叩いた。ラウリーは一瞬止まってしまったが背を叩かれたせいにして、すぐ体を起こしてマシャを睨んでみせた。
「マシャほどじゃないわよ。こんな大きな船の副船長様だなんて」
「しかも“副”ってよりも、事実上こいつが一番、最低最悪最強だから、」
「うるさいね!」
マシャは自分が耳を持ったままの男を蹴飛ばして、あっちに行けとわめいた。確かに最低最強だ。ラウリーはマシャがそのように振る舞える“ピニッツ”の、度量の深さを感じた。マシャは、ディナティの元にいた頃よりも伸び伸びとしていて、そして少しの憂いと女性らしさを持ったように見えた。
「どきなよっ。見たいんだからさ」
「俺たちだって見たいって」
この船にはこんなに乗組員がいたのかと思う甲板をかきわけて、マシャが先に立って輪の中心に向かう。20人ほどだろうか。船は動いているのだから、仕事をしている者もいるはずである。
周囲の男たちは悪態をつくマシャを微笑ましい目で見ながら、道を開けてやっていた。嬉しくなるような、羨ましいような視線だった。
その後に続いたラウリーが見たのは、ちょうど相撲真っ最中のクリフだった。
円柱状の大樽に肘を置いて睨みあう、2人の男。がっちりと堅く握手したその甲には、すでに青筋が浮いている。
右手で相撲をして、左手は樽の縁へ。同じポーズで一歩も譲らないクリフの相手は、乗船の時に同乗したカヴァクとかいう男だ。ツンツンと尖った頭をしているのに後ろ髪だけを伸ばして、縛ってある。黄土色に揺れる毛の先から汗が落ちている。クリフも汗びっしょりになっていた。
甲板は、マラナの月といっても常に海風にさらされているので、昼間でもかなり寒い。日が照るとそれなりに黒い甲板が熱くなるが、マットな色合いのせいか特殊な塗料なのか、黒くともさほど熱を持たない。マシャは腕まくりをしているが、ラウリーは長袖である。なのに樽を挟んで組みあう2人は、カヴァクが上半身裸になっていて、クリフが袖無しのシャツ一枚だ。思わずラウリーは「男ってバカだ……」と呆然とした。
クリフが兄とよく手合わせしていたのを思い出す、そんな光景だった。
2人の表情は真剣そのものだ。時折どちらかが声を出して勢いを付けるが、片方もその瞬間に気合いを入れて押し返し、なかなか決着が付かない。そういえば、とラウリーは黄土色の男が「決着をつけてやる」とクリフに凄んだことを思い出した。
平和な決着だ。
だが、だからこそ真剣なのだろうなぁと思う。
ラウリーはふと、そんなクリフの横顔を見ることに抵抗がなくなっている自分を感じた。むしろ目が離せない。
マシャのせいだ。
おかしなことを言うから。
ラウリーはマシャを睨め付けた。マシャはラウリーの視線にまったく気付いておらず、腕を振りあげ、身を乗り出して応援している。
「おらクリフ、行け! いつまでやってんだっ」
口が悪い。
クリフはそれを無視しようとしながらも気になったらしく、若干こちらを見た。一瞬だけ目があった時、柄にもなくラウリーの胸が鳴った。だがクリフもまた動揺したのか、力の均衡が崩れた。慌てて立て直そうとしたクリフに、ラウリーが追い打ちをかけてしまった。
「が、頑張ってっ」
思わず口をついて出てしまった弱々しい声援は、逆に彼の気を削いでしまったらしい。完全にバランスを崩したクリフは、右手の甲を樽に叩きつけられるだけでなく、そのままつんのめって、一回転しそうな勢いでひっくりかえってしまった。気持ち良い負けっぷりに、周囲から爆笑が起こった。
頭をさすりながら身を起こすクリフに、料理担当の男が意地悪く言った。
「じゃあクリフへの罰ゲームは倉庫整理な。夕食の材料を取ってきてくれ」
「そんなの分からねーよ、倉庫はやったことないぞ俺っ」
「慣れだ、慣れ」
「ちぇ」
あぐらを掻いて悔しがるクリフの背中を、誰かがポンと叩いていく。その頭をペシンと叩く者もいる。洗礼の終わったクリフは上着を手にして、決勝戦を見ずに甲板を降りていった。
「決戦は誰?」
マシャは祭り気分絶好調で樽の前に立ち、審判を務めそうな勢いだ。先ほど勝ったカヴァクと、マシャの右腕でもある男、“ピニッツ”一の大男ギムが前に進み出る。だがギムが「公平な力比べのために」と、カヴァクの腕を休ませるよう提案したため、しばしの休憩が取られた。
その休憩の間にラウリーが、船底へと足を運んだ──という次第だった。
とはいえ最初は、行こうかどうしようかと迷ったのだ。その時ラウリーの前を横切って、倉庫の入り口に行こうとする金髪の女性がいたため、ラウリーの足が動いたのだった。この船には3人しか女性がいないと聞いている。自分とマシャ、それにルイサだ。
「すみません」
ラウリーは名を知っていても挨拶を交わしたことのない彼女の名を呼んで良いものかどうかと悩み、結局、口をつぐんだ。
名を呼びたくない気持ちもあった。ラウリーは振り向いた彼女に対して、自分が一瞬嫌な顔をしただろうことを後悔した。
「あの……」
話しかけたは良いものの、上手い言葉が出て来ない。詰まってしまったラウリーに、ルイサはストレートに言った。
「クリフに会いに行くのよ」
ルイサはこれ見よがしなまでに、あでやかな笑みを浮かべる。男なら誰しもが溶けてしまいそうな濃厚な色気を見せつけられて、ラウリーはさらに詰まった。ルイサの、何もかもを見透かしているような笑みが気に入らなかった。
「私……。私、会いたいんですけど良いですか?」
「先に会いたいの?」
ルイサは余裕の笑みを崩さない。ひるみそうになるのを堪えて、ラウリーは頷いた。
「先に会いたいです」
ルイサはあっさりと引き下がり、ラウリーに道を譲った。居心地の悪さを味わいながらも、ラウリーは示された扉を開けた。地下に降りる階段が続いている。
すれ違う時にルイサが、ふいに呟いた。
「後悔しないようにね」
「?」
この女性には、いちいち心の平穏を奪われる。ラウリーは振り向きそうになったが、我慢して無視した。
扉を閉めて、階段を降りる。
そうしてラウリーは、ルイサにかけた以上の力を使って、クリフに話しかけたのだ。
光の少ない船底は甲板の喧噪に比べて、暗さに比例するように静かだ。階段の上から皆のはしゃぐ声が洩れてくる。その声は、じきに大きな歓声になった。決勝戦が始まったらしい。クリフからの返事を待つ地下の重い沈黙に比べ、その声は明るく爽やかだった。
耐えかねたラウリーが、自分の言葉を続けた。
「良い人たちね」
肩を竦め、微笑みながら。
「この船に乗って、良かった」
謝罪と感謝の意味を込めた。ようやく言えたラウリーは、胸のつかえが取れたように感じた。今まで迷惑をかけた分を、たった一言で解消できるとは思えない。ただ憎めなくなったから振り出しに戻ろうとして、その均衡のために言ったのだ。
と、ラウリーは思っていた。
クリフの返答を聞くまでは。
「そうか」
同意のはずなのに、低く硬い言葉はまるでラウリーを拒絶しているようだった。ラウリーは今の一言では通じなかったのだろうかと思い、不満と不安を感じた。
クリフは再び木箱に頭を突っこんで、もうラウリーを見ようとしない。彼女が落ちこんでどうしようもなかった時には親身だったのに、今になって態度が急変してしまったことがラウリーには怪訝だった。
嫌われることに、憎まれることには強靱だったくせに、私が立ち直ることは気に入らないんだろうか?
ラウリーはしばらく立ち尽くしたが、やがて意を決して近付いた。
「ありがとう、助けてくれて。私、分かってなかったわ」
けれど、やっぱりクリフは頭を上げない。何かを言いかけて口を開いたものの、そこから言葉は出なかった。いつもは少しかき上げてある前髪が、俯いているので前に落ちて、表情が見えない。ラウリーは覗きこんででも話を続けるべきかと躊躇した。
だがそんな距離での沈黙が辛かったのは、クリフも同じだったらしい。彼は体を起こすと髪をかき上げ、上げきれずに落ちた髪の間から、ラウリーを一瞥した。すぐに視線が逸れた。冷たい目だった。
「分かったんなら、もうお互いに構うことないだろ。俺のことは気にするなよ」
ラウリーの知るクリフらしからぬ言葉に、らしからぬ低い声。
「ちょ、ちょっと待ってよ、どうして? その言い方はないじゃない、どうしたら許してくれるの? 私、直すわ。努力するから……」
「そのままで良いよ」
木箱の縁に手を突いて体重を預ける格好でクリフは、疲れたように言った。口調は少し柔らかかった。苦笑混じりで、ラウリーが欲しい言葉に聞こえた。けれど、このままで良いわけがない。
ラウリーは困惑しながら「良くないわよ」と訴えた。
「だってクリフも辛かったんだって私、ようやく気が付いたの。平気なフリをしてくれてたんでしょう? クリフは立ち直ったの? 兄さんは戻って来ない。クリフが言ってくれたのよ」
「ああ」
「ねぇ、わざと私を挑発したんでしょう?」
ラウリーは胸の動悸を押さえて、クリフに一歩詰め寄った。
「あなたを嫌いになって、気になって、だから死ねなくなった。クリフが兄さんの仇だったから私は、」
「ああ!」
荒くなったクリフの叫びが、ラウリーのさえずりを断ち切った。ラウリーはびくりと肩を縮めた。
クリフは口を引き結んで、それ以上の言葉を我慢しているようだった。ラウリーは肩を竦めたまま両手を胸に当てて、そんな彼から目を離せずにいた。
怒っているようなクリフの顔は、怒ってるんじゃない。悲しみを堪えているのだ。泣きそうな、やりきれない痛みをたたえた目が急に少年に見えて、ラウリーを釘付けにした。子供の頃、父親を亡くしたという虚勢を張っていた少年の顔が、そこにあった。
「俺が殺したんだ!!」
悲痛が響いた。
──堪えて、堪えて、堪えて。とうとう吐き出してしまった一言。誰もが知っているその事実は、クリフの口から出た瞬間に、ラウリーに重い罪を見せつけた。
ラウリーは胸を押さえる手に力を込めた。こわばった唇を、一生懸命噛んだ。血が出そうなほどに強く噛んでいなければ、涙が出そうだった。泣きたいのはクリフの方だ。だが泣かない。泣けない。嘆けるような立場じゃない、と自分を責めている。
言葉も、それ以上はもう出せない。「ごめんなさい」なんて容易く、今は言えない。クリフを抱きしめたかったが、おそらく余計に彼を傷付ける。だが去りもできない。見捨てたくない。ここにいたい。けれど。
動けない。
このようにラウリーが詰め寄らなければ、クリフは言わなかったはずだ。そう思うと詰め寄って良かったのだろうかとも思うが、代償があまりに大きかった。
吐き出したクリフは苦い顔をしたが、すぐ思いなおしたようにラウリーに向きなおった。
先ほどまでは自分が詰め寄ったのに、クリフに一歩近付かれると反射的に逃げたくなった。クリフは歪んだ笑みを口元に浮かべて、ゆっくりと言った。
「嫌悪の次は、同情か」
見開いたラウリーの目が、ガラスのように固まった。