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2-9(出航)

 クリフとラウリーが国外追放という扱いになったのは、あまり世間に知られないところとなった。

 毒殺事件のあった会食が比較的内輪のものだったこともあるし、王は毒に打ち勝って助かったのだと強調され、しかも毒を盛った娘は誰かに陥れられたらしいということまで王宮内で噂になったので、この件を下手に蒸し返して騒ぐと自分が犯人にされかねない空気ができてしまったのである。噂を流したのはもちろん王派の工作だが、紫髪の娘が王弟マラナエバの名を叫んだのが皆の記憶にあったので、この噂にはかなりの信憑性が生まれた。

 それでもマラナエバが尋問されなかったのは王弟という立場ゆえであるし、拘束されなかったのは証拠がないためだ。マラナエバは毒殺失敗のショックと、自分の後ろ盾になるはずだったヤハウェイサームが死んだことで失意し、すっかり、なりを潜めてしまったらしい──というのは、後から情報網を使って“ピニッツ”が得た話である。

 だが、フセクシェル家の巨大な巣窟はヤハウェイ男爵一人の殺害で完全に消えるわけがなく、マラナエバはそこから力を借りて、また懲りずに虎視眈々と王座を狙っているらしい、というオマケも付いていたりする。

「本当に懲りないよねぇ」

 この話を呆れた声で話すのは、言わずもがなのマシャである。

 彼女はヤフリナ国商人の格好をして顔を黒く塗り、港町シアマンヌに到着したクリフとラウリーを迎えに来たところだった。

 シアマンヌに到着するまでのクリフたちは十数人によるキャラバンに囲まれていたのだが、今はそのキャラバンとも別れ、出航までを宿で待機している状態にある。

 国外追放という判決ではあったものの諸事を考慮されて、2人は丁重な見送りをされた。あくまで王の立場に泥を塗らないようにという外観を繕ってのものなので、どうにも居心地が悪かったのだが、けれど、その中にはディナティ個人からの気遣いも見えるので、2人は大人しく厚意を受けた。さすがにディナティも直接は、罪人と化した2人を見送れない。会えない分だけ、沢山の配慮が施してあった。

 クリフらは、持たされそうになった土産の数々については、それを受けるようなことは何もしていないと言って断った。荷物になるので扱いに困るという理由もあるのだが、貰ったところで気が重いというのが本音だ。

『では、これだけを』

 と、出発直前のクリフらに対して左大将アナカダが差しだしたのは、クリフに対しての一振りの長剣と、ラウリーに対しての一冊の魔法書だった。先の戦いで使われた長剣を手入れしなおしたものと、本は、ラウリーがディナティを救った時のものだ。心憎い演出に苦笑した2人は、さすがにそれだけは受けとらないわけに行かなかった。

「じゃあ私からは、これを」

 ラウリーがアナカダに手渡したのは、小さなペンダントだった。

 柔らかい水色の魔石を彫って、ロマラール国の紋章にしたものである。

「あなたが?」

 アナカダがラウリーに問うた。ラウリーは頷いた。

「お守りです。良かったらディナティ王様にお渡し頂けませんか」

 出発前夜の遅くまでかかって、ラウリーはこれを仕上げたらしい。ラウリーが侍女に魔石と彫刻用のナイフを所望していたことは、仕事柄知っている。その風情を読み取ったアナカダは、内緒話のように声をひそめた。

「……魔法か?」

「“気”を入れたことになっている、効いてるんだか効いてないんだか分からないようなものですけど」

 肩を竦めたラウリーに今度こそアナカダは何も聞かなかったが、その時の目は暖かく微笑んでいるものだった。

 ペンダントの形は7角形。かつてクリフが魔道士に会わんとして雪山に挑んだ時に、ラウリーが持たせてくれた木造のものと同じ形状だった。クリフは端でアナカダとのやり取りを聞いていて「大丈夫、効くさ」と声をかけようかと思ったが、口をつぐんだ。

『魔法』というものを平気で想像できるほど、まだお伽話にはなっていない。

「クリフ~」

 少女の声に、クリフが我に返った。

「寝てるの? 人の話、聞いてる?」

「あ、ああ。聞いてる聞いてる。ナザリが殺した男爵の話だろ」

「おーまーえーなーっ!」

 帽子を吹き飛ばす勢いでマシャが立ち上がり、麦酒を片手に持ったままクリフに蹴りを入れた。足元がおぼつかない。よろけるマシャを支えてたしなめたのは、なぜかそこに同席している国王軍親衛隊長のサキエドだった。

「大丈夫だ、俺は何も聞いてないっ。だから座れ」

 すっかり慣れたロマラール語で、サキエドがマシャを制する。マシャが鼻息を荒くしながら、元の絨毯にドッカリと腰を下ろした。そんな3人を気にかける者は、誰もいない。

 日の落ちた宿には、沢山の旅人がたむろしている。いくつかのランプが照らす土造りの食堂で、皆がめいめいに点々と敷かれた絨毯に座って食事をし、言葉を交わしている。ネロウェン語が主だが、訛りがひどかったりヤフリナ語が混じっていたりする。そんな中にロマラール語が入っても、音の羅列にしか聞こえていないことだろう。クリフには周囲の言葉が意味不明なのと同様に。

「でも誰が聞いてるんだか分からないのに簡単に名前言いやがって、本当に馬鹿なんだから、このクリフはクリフはクリフはっ」

「分かったよ、喋らなきゃ良いんだろ」

「喋れ!」

「あのなぁ」

 気持ち良く酔っている。

 そんな彼女の杯に手をかけて「飲み過ぎるなというのに」と制するサキエドも、どことなく楽しそうだ。

 彼だけはクリフとラウリーが無事に港町を離れるまで2人の護衛をするようにと王ディナティの名で左大将アナカダに命じられて、残っているのだった。アナカダの思いとしては、ロマラール語に長けたサキエドに情報収集してこいというつもりで命じたのかも知れないが、サキエドの方にはまったくそんな気がない。

 お咎めを受けるかも知れないがなぁ、などとサキエドは呑気に酒を口にする。

 そんなサキエドを、マシャがからかった。

「最後まで損な性格してるよね、あんた」

「そうか? 利益はありますよ」

「利益ぃ? おごらないよ」

「そういう意味ではありません」

「分かってるよ」

 2人の漫才めいたやり取りを聞きながら、クリフもくつろいでいた。ネロウェン式にターバンを巻いてはいるものの、クリフの格好は今までの華やかさを払拭して、この上なく地味に戻っている。それも彼の気を落ち着けている理由の一つらしい。

 そんな、解放されたと言わんばかりのクリフの顔に、思わずサキエドは笑ってしまう。

 サキエドは嵐のごとく言葉を繰り出そうとするマシャを制して、ネロウェン語で言った。

「利益というのは不謹慎かも知れないが。お前たちに会えて良かったと思っているよ。おそらくは王とて、そう思っていらっしゃることだろう」

 突然サキエドが真面目にコメントをしてきたので、マシャは膨れ面をして赤面をごまかした。残りの麦酒をぐいとあおる。

「まぁ、ディナティが汚いヤツらをどのぐらい操れるのか、見物してるよって言っといてよ」

 生意気な小娘は話の最後をそう締めくくって顔をそむけ、宿の女将に向かって「酒っ」と叫んだ。

 サキエドがクリフに、耳打ちした。

「大丈夫ですかね?」

「明日、船にさえ乗れれば文句ないけど」

 クリフはそう言って微笑した。出会って以降、徐々に良い顔になってきたロマラール人に、サキエドは内心安堵した。

「気を付けて」

「君たちも」

 男たちが別れの言葉を交わす中、マシャはよれよれになりながら「寝る」と言って手に杯を持ったまま立ち上がった。

「あ。お前、ちゃんとサキエドに挨拶しろよ」

 クリフが咎める。明朝も会えないことはなかろうが、妙なところで妙に律儀なクリフも、やっぱり少し酔っているらしい。サキエドは苦笑して、そんなクリフの肩を叩いた。

「構いませんよ。あれがマシャだ」

 サキエドは、千鳥足になりながら食堂を離れて宿の階段を登る少女の背中を見つめ、微笑んだ。それから、クリフに杯を掲げる。あなたも、これがあなただ、と思いながら。

「マシャはラウリーさんの様子を見に行ったんでしょう。あなたは気兼ねなく飲めば良い」

 サキエドの言葉にクリフは、嫌そうな顔を作って睨んだ。サキエドはそんなクリフの表情を、軽く受け流す。

「私はあなたより、10年ほど余分に生きています。少しは分かります」

 ほら、という風にサキエドがクリフに杯を持たせ、無理矢理、乾杯させた。

「あなたは悪くない」

 クリフは彼の気持ちに応えるべく、苦笑して見せた。

 一緒に酒を酌み交わすべきこの場に、ラウリーは最初からずっといない。上階にある客室に籠もり、先に休んでしまっているからだ。

 いや正確には、クリフが放りこんで来たのである。

 だがサキエドが心配してくれるほど、実はクリフは気にしていない。むしろ、いつになく穏やかな気分だったりする。

 またラウリーと悶着したものの、無事に港へ辿り着いたのだ。今のクリフは、それだけで満足だった。例えラウリーから強烈な拒否反応が自分に向けられていても、それを心地よくすら感じられる。

 自分がラウリーからの“憎しみ”を欲したのは、ラウリーのためじゃない。

『クリフと一緒にだけでなく、あの人も一緒の船だなんて! 乗りたくないわ。マシャには悪いけど、私は自分で生きて行くから放っておいて』

 そんなセリフでラウリーが癇癪を起こしたのは、つい先ほど、夕方のことである。

 ディナティを救った一件からこっち、ずっと落ち着いていたのに、到着して“ピニッツ”のことを詳しく聞いた途端に怒り出したのである。一週間を経て魔法による衰弱が回復したためもあるのだろうとクリフは思っているが。

 ラウリーが“あの人”と言ったのは、ルイサのことだ。

 クリフが“ピニッツ”という船は王宮に来た金髪の踊り子が指揮する船なのだと説明したことに、ラウリーの反発が起こったのである。

「踊り子といっても、ただの踊り子じゃない。ロマラール国の偉いさんで事情があって、“ピニッツ”も実際は国の船なんだ」

 と言い聞かせても駄目だった。逆に説明すればするほど、ラウリーの機嫌は悪くなった。

「ロマラール国に帰れる船は、これ一隻なんだぞ。もうディナティ王の元にも戻れない。一人で生きるなんて甘いんだよ、できるわけがないだろうが」

「そんなの、やってみなくちゃ分からないわ。いつまでも子供扱いしないでよ、あの頃とは違うのよっ」

 夕刻の宿屋で通路に突っ立って問答をするには、派手な言い争いである。だが、クリフがラウリーを部屋に押しこもうとしても彼女がそれをはねのけるので、仕方がなしに他の宿泊客を無視してケンカするはめになってしまった。

 いつものラウリーなら、もっと配慮を持っているだろうにと思う。が、クリフが関わると頭に血が上るらしいところは昔からではないかと言えば、そんな気もする。食欲が失せるほど落ちこまれているよりは、噛みつかれる方が良い。

 だからクリフは、遠慮せずにラウリーをやり込めた。

「子供だよ、親のことをかえりみずに。父さんは……ジザリーとシィレアは待ってるんだ」

 コマーラ家の両親を名前で呼び直して、それでようやくラウリーが黙った。言葉をなくして言い淀んだラウリーを、彼女の背後にある扉を開けてその中へ放りこみ、「逃げても無駄だ」と念押しして扉を閉めた。

 閉める直前に、

「逆らうなら縛って、猿ぐつわを噛ましても良いんだからな」

 と捨て台詞も残した。

 その瞬間、破裂音が鳴り響いた。

 ラウリーが手を振りきっていた。

 扉の隙間で、クリフは片頬を赤くしていた。綺麗にラウリーの平手打ちが入った頬をさすりもせずに、怒りとも笑みともつかない奇妙な表情を残して、クリフは扉を閉めた。

 通路の隅でクリフを待つサキエドに「そこまで言うことはないでしょう」とたしなめられたが、クリフは、これに苦笑を返しただけだった。

 かくして今に至る。

 痛む頬に嫌悪のオーラを感じるとしても、仕方のない話だ。

 そんな放りこまれ方をしたのに、にこやかに皆と食事を交わす気分にもならないだろう。まして大嫌いな男が同席するとなれば、見たくないどころか同じ空気も吸いたくないに違いない。

 ──そんなラウリーは狭い2人用の客室で、物を壊す勢いで暴れたくとも腹に力が入らず、ベッドに突っ伏してふてくされているところだった。

「もう……!」

 悔しさともどかしさ。苛立ち。クリフへの負の感情を込めて、ラウリーは枕を殴った。

 ようやく一発は引っぱたくことができた。

 だが念願の一発は、期待したほど気持ちの良いものではなかった。それに最初の頃に憎かった気持ちは、ずいぶんと変化してしまっている。感情としては当初よりも単純になっている。ただの嫌いになった。無視をしたくともできないような、顔を見れば怒りが沸いてしまうような安い感情になった。

 長衣(ローブ)がなくなったせいだろうか? とラウリーはふと思う。

 王都に到着して、喪服であったローブをクリフに引き裂かれたあの日から、自分が急に我が儘になってしまったような気がする。我が儘になり周りが見えなくなったから、だからあのような事件を起こしてしまったのだ。

 だが逆に我が儘になったことで、自分の何かが楽になった気もする。

 とはいっても他人に迷惑をかけたのだから、やっぱりそんな楽はあってはいけないとも思う。

 いつしか思考の沼に陥って動きを止めたラウリーは、ベッドに突っ伏したまま石のように堅くなって、カーテン越しの夜空を凝視していた。ガラスも何もはめ込まれていない大きな窓は、カーテンを揺らして少し冷たい春の風を入れてくる。だが我慢できない寒さではなくなった。

 窓側に顔を向けていたので、ラウリーは扉が開いたことにすぐ反応できなかった。今までずっとカギが必要ない生活だったので、カギをかけ忘れていたのだ。不特定多数の者が出入りする宿には、ネロウェン式の建築ではあるが、ヤフリナ式に“扉”が用いられている。クリフがバンと扉を閉めたのに、気付いていなかった。

「誰?」

 だが鋭い声を上げたラウリーは直後、脱力した。

 赤い顔をしたマシャが麦酒の入った杯2つと料理が乗った皿を手にして、へろーんと立っていたのである。

「宴会、宴会。乾杯、乾杯。ネロウェン国、最後の夜だよ」

 言われて、ラウリーは肩の力を抜いた。

「そうね。サキエドさんに悪いことしちゃった」

「あ~。いいよ、あれは」

「あれって……」

 だがマシャの物言いは、ラウリーの気を軽くした。ラウリーは明朝に挨拶すれば良いかと思いなおしながら身を起こして絨毯に座り、マシャから麦酒を受け取った。マシャが「乾杯っ」と妙に明るい声でジョッキをゴツンと当てた。雫が絨毯に落ちた。

 それを一口含んだところでマシャは、だしぬけに核心をえぐった。

「ラウリー、クリフが好きなんでしょ」

 思わずラウリーは盛大にむせてしまった。

 むせながら、せっかく治まった怒りがまたこみ上げてきた。

「あ、あのねぇマシャ! あんな、あんな男、」

「可愛くないよぅ」

 マシャはラウリーのセリフを奪い、人差し指でラウリーの唇をちょんと触った。そのしぐさに、ようやくラウリーは彼女が相当酔っていることに気付いた。

 マシャの、人に無頓着にしているように見えて実はとても気遣っている性格は、よく分かっている。クリフにも同じところがあるからだ。ただしクリフのそれはやたらと不器用で、マシャはそつのないものという違いがあるのだが、今はその細やかさが若干酔いに負けているらしい。だが酔いのおかげでかえって、思いやりが表面に出ているようだ。

 ラウリーは怒りを鎮めて、言葉を飲みこんだ。

 絨毯に座ったまま、ちびちびと麦酒を舐める。そんなラウリーを覗きこんで、マシャは満足そうに微笑んだ。

「素直になりなよ。クリフがわざと憎まれ役してるってのも、本当は分かってるんでしょ」

「……」

 飲みこんだままの言葉は、喉に詰まって出て来ない。それを肯定したら、何かを失いそうな気がして言えなかった。

 その代わりに、言えば何かが手に入るというのに。

 言葉のないラウリーの代わりに、マシャが続けた。あ~あと言いながら、絨毯に足を投げだして。

「ラウリーさぁ。ディナティを殺しそうになったじゃん?」

「ぶ」

 ラウリーはまたむせた。酔っぱらいの口から出る言葉は、予想がつかない。咳きこみながらラウリーは胸元に落とした雫を手で払って、簡素な服で良かったと明後日なことを考えた。

「聞いてるよ。ビスチェムも……って、あの禿げたオッサンね。彼も一晩中あそこにいた人だったから、しきりにラウリー殿は凄かったって褒めてたってさ」

「そうなの?」

 自分についての噂など一言も聞かなかった。誰とも、ゆっくりと言葉を交わす余裕がなかったので仕方がないという話もあったが。ラウリーは、ネロウェン兵は無骨な人が多いんだなと改めて感じた。だが無骨だが、その分とても沢山の温もりをもらった、と思う。

「王都を出る前に会えれば良かったな」

 するとマシャは、ううん、とかぶりを振った。

「ビスチェムは会わなかったんだ。ラウリーがオルセイの妹だから」

「え?」

「あいつ、オルセイを死にかけまでボコボコに殴ったことがあるんだ。オルセイが王様を襲ったと勘違いしてさ」

 初耳である。

 というか、皆がラウリーに余計な話を入れないように気遣ってくれたのだろう。一つ知るごとに、一つ悲しみが深くなるから。

 ラウリーはふと、それを深く悲しんでいない自分に気が付いた。兄の容態より先に、ビスチェムという男の気持ちを想像したのである。

 トロンと目を伏せながら、マシャが静かに言った。

「人を殺すって、怖いよ」

「……」

 マシャが言わんとするところを何となく察して、ラウリーは「そうね」と小さく呟いた。

 自分の手がディナティ王を、あんなに良くしてくれた親しい少年を殺すところだった時、ラウリーの頭は真っ白になった。自分のことも周囲のことも何もかもが消え去って、ディナティが息を吹き返す瞬間をしか願っていなかった。

 数週間を共にして情が移った少年でさえ、そうなのだ。

 それが十数年を共にした親友ならば、一体どうなるというのか。

 ラウリーは今までずっと避けていた思考に、とうとう手を伸ばしていた。

 それを考えるとクリフを憎めなくなってしまうから、兄の死が軽くなりそうで、心に蓋をしていたのだ。無意識に。

 マシャの一言にこじあけられてしまった。

 泣きはしなかったが、もう怒ることはできなくなってしまった。

 唇を噛んで頭を振ったラウリーは、救いを求めるようにマシャの名を呼んだ。もう一言、何かを言って欲しかった。だが頭を上げたラウリーは、再び拍子抜けするはめになった。少女は麦酒と料理の側で、大の字になって眠っていたのだ。

「もう」

 ラウリーは吹きだして笑ってしまった。

 おそらくは兄が死んで以降、初めて。

 兄の姿が消えた日から、一ヶ月と半分が過ぎていた。

 ラウリーは寝こけた少女をベッドに入れて、一人で飲みなおした。

「……美味しい」

 マシャが持ってきてくれた料理はもう冷めていたが、ラウリーは一口ずつゆっくりと噛みしめた。


           ◇


 一行はそこからさらに南に下り、町も何もない海岸で別れたのだった。

“ピニッツ”は小島に隠してあって、砂浜から小舟を出して乗りこまなければならないのだ。迎えに来てくれて“ピニッツ”に折り返したその小舟には、男爵ヤハウェイの家で剣を交わした男も乗っていた。サキエドはその男を知らないので、それを無視して帰路に着いた。

 男は「カバクだ」と短く自己紹介をして、クリフに「いつか決着をつけてやる」と凄んだ。そんな言葉を訳して聞かせるマシャも物好きだが、それに対してクリフもわざわざ「構わねぇよって言ってくれ」と挑戦を買うのだから、似た者同士だろう。

 そんなマシャなのに、帰路に着くサキエドには結局「皆、元気で」という以上のこともそれ以下も言わなかった。

 近々、ネロウェン軍はフセクシェル家と衝突しなければならないだろう。南東の孤島で計画されている密輸と、ソラムレア海軍との関係もつぶさなければならない。ディナティには、さらに、ジェナルム国の再建と事後処理、内政の建て直しと課題も多い。マシャは、そのすべてを自分から切り離したのだ。

 選んだ道のために。

 雄々しく育ったネロウェン国王が、大きく黒い猛獣を率いて戦場を駆ける『グール王』と呼ばれることになるのは、もっと後世のことになる。その時の彼に、水色の瞳を持ったナティ神の化身がごとき女性が寄り添っていた──などという記述は存在しない。だが彼が「自分は幸運の女神に生かされて、ここに在る」というのを口癖にしていたのは、有名な話である。

 後の史実に幻の女神として名を残す少女は、今はまだこまっしゃくれた顔をして、2日酔いの頭を抱えながら、黒い甲板の先頭に立っている。大きく輝く瞳に少しだけ“良い女”の片鱗を見せながら、彼女は叫ぶのだった。

「出航!」

 綺麗なロマラール語で叫ばれたそれは、高く澄みきって響き、波を飛びこえて広がった。


 ~3章・ヤフリナ狂想曲に続く~

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