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2-6(突入)

 朝一番の玄関掃除をしていた女中は、自分に向かってくる団体にぎょっとして、思わず立ちつくした。

 黄土色のモヤを振りはらうように押しよせてくるゴーナの群れは、娘に悲鳴を上げさせるのに充分だった。

「だ、旦那様ぁっ!」

 下働きの女中は箒を放り出して門を叩いた。彼女がいるのは正門であり、女中が通って良い場所ではない。だから中から開けてもらうしかないのだ。まだ門番の出てくる時間でもない。彼女は地団駄を踏んで、門が開くのを待った。

 その目が、見開かれた。

 自分の後ろ、通りに背を向けた自分の背後に、ゴーナの群れを感じたのだ。娘の顔がこわばった。下女でも知っている、このゴーナに乗った連中は国王軍の制服なのだ。

 娘は青ざめた顔で、バンッ! と反転して背中を門に貼りつけた。

「娘。開門を要求する」

 先頭の男が厚みのある声で、娘を威圧した。下働きの女中はそれだけで、へなへなとその場に座りこんでしまった。あまり綺麗でなかったスカートが、一層砂に汚れた。平伏した彼女は、小さな声で「お許し下さい」と呟いていた。

 門が開いた。

 その音を背中越しに聞いた女中は這いつくばったまま、あたふたとその場から離れた。

 門を開けたのは、彼女が呼んだ「旦那様」でなかった。若そうな使用人はしかめ面で現れたが、意外な来客に尻込みして、すぐに表情を変えた。

「な、何用で……あっ?!」

 使用人もその場にへたりこんでしまった。

 彼が門を開けた途端に、国王軍が動いたのである。兵が2人、ゴーナから飛び下りて門をこじ開け、そこに一頭が突進したのだ。兵を乗せているにも関わらず、ゴーナは使用人の頭上を軽やかに飛びこえた。

 それと同時に、先頭に立ったままの初老の男が怒号にも似た口上を述べた。

「ここに小姓が捕らえられておるはず。捜索させて頂く」

 使用人は驚いて座りこんだものの、勇気を振り絞って侵入者を威嚇した。

「お、横暴ですぞ! 取り次ぎも待たずに、フセクシェルの屋敷を荒らすおつもりですか!」

 声の震えは怒りのためか恐怖のためか分からない。先頭の男、左大将はそんな声には動じない。

「お前が男爵に取り次ぐというのか? 執事はどうした」

「せ、先日、暇をお取りになられました。今は私が執事代理ですっ」

「ならば伝えろ」

 と言うと同時にアナカダは、自分の横に立たせている男に手をかざしたのである。同じくゴーナに乗っている男は、他の兵らとは違う服装、鎧を身につけている。燃えるような赤い瞳が使用人を捕らえた。その髪も赤い。男は思わずイアナ神と呟いていた。それを聞いてアナカダは、すかさず言葉を続けた。

「我が王の賓客が、同じロマラール人の存在をここに感じておられる。この要求を退けるは王を退けるも同じ。逆賊として捕らえるも辞さぬ」

 そして間髪を入れずに、右手を高く挙げて叫んだ。

「突っ込め!」

「クリフ!」

 先に門へ入った兵、隊長キャナレイがロマラール語で賓客の名を呼んだ。赤い髪の男が雄叫びを上げて使用人を飛びこえた。ゴーナも高くいなないた。

「うひゃあぁっ」

 使用人は腰を抜かしたままその場を退き、中庭に転がった。哀れにも彼は昨日の今日やっと手に入れた地位での初仕事で、敗北を記したのだった。挽回しようにも、駆けるゴーナの群れを避けるので精一杯である。本来の執事がいたなら、このように安易に軍を通さなかったかも知れないが、しょせんは付け焼き刃の代理でしかなかった。

 だが、その間にも屋敷の奥から、騒動を聞きつけた男爵の私兵らしき男たちがわらわらと出てきていた。執事代理は愚かでも、迎え撃つ準備は万全だったということだ。

 私用にしても多い人数が国王軍と衝突し、中庭が混戦状態になった。

 いちはやく抜けたのはキャナレイとクリフである。2人はゴーナに乗ったまま中庭を突っ切り、屋敷の奥へと走り抜けた。皆が2人を援護して走らせたのだ。

「“オルセイ”!」

 キャナレイが走りながら、一緒に連れてきたグールを呼んだ。グールは兵らの間から飛びだして、キャナレイとクリフのゴーナに平行して疾走した。黒グールはすっかり大きくなっていて、もうゴーナに乗れる大きさではなくなった。代わりにその足は、獲物を狩る者としての強い力をもって、ゴーナよりも速くなった。

 クリフはキャナレイの声が聞こえなかったかのように目をそむけ、雄叫びを上げる。ゴーナに乗ったままの剣は使い慣れていない。飛びだしてくる衛兵の大半はゴーナで蹴散らしながら走った。

 クリフがヤハウェイの屋敷を攻めることになったのは、アナカダと取引をしたためだ。一緒にマシャを助けに行って活躍すれば、ラウリーの罪を不問にすると言われた。

 マシャが何やら働いていたのは知っている。だがマシャはその内情をクリフには教えなかった。信用されていないのか余計な首を突っこむなと言いたいのか……どちらにしろ不快なことには違いない。それで何やら捕まったというのだから、してやったりである。助けてやるから教えろとでもいうものだ。それでラウリーも救えるのだというなら、やらないわけがない。

 踊らされていると分かっていても、拒むより踊る方が楽だ。

 そう思いながら剣を振るうクリフに迷いはない。ゴーナを降りて剣を血に濡らしても、その勢いは変わらなかった。相手が退いてくれないのだ、仕方がない。仕方がないと思いながら、クリフの中の何かが、自分でも抑えられないほどに高揚していた。

 中庭を右に見ながら、屋根のある回廊を走る。

 クリフの前にはキャナレイがいる。

 そのキャナレイの前には、グール“オルセイ”が走っている。

 そんなクリフらに続いて国王軍も、数人が追ってくる。中庭での小競り合いは各所にばらけていた。ヤハウェイの私兵は3,40人と多かったが、親衛隊精鋭兵には敵わなかったようである。徐々に国王軍が回廊と屋敷正門とを封鎖しつつあった。

 左大将アナカダは、そんな回廊の方にいた。クリフらを追う一群の中だ。だが通路を走り、奥の階段を登ろうとしたところで、男爵の衛兵らに遮られた。

「あっ」

 気が付いたクリフが振り向き、アナカダに手を貸そうと剣を構えた。だがアナカダは行けと叫んだ。ネロウェン語だったが、その程度ならクリフも分かる。彼は頷くとすぐに前を向いて、階段の中に消えた。

 アナカダの前に残ったのは、ヤハウェイの衛兵数人である。まさに斬り結ぼうとした時、それを止める声が上がった。

 兵士らしくないいでたちの男が一歩踏みだし、双方の剣を収めにかかった。水に打たれたように、周囲がシン……と冷たく静まりかえった。石畳に、堅い踵の音がコツリと響いた。

 男は短剣しか持っておらず、それを抜いてもいない。きらびやかな、貴族の格好。

 アナカダは若干、顔を歪めた。

「早々に真打ちの登場とはありがたいですな。男爵……ヤハウェイサーム・フセクシェル殿」

 彼の鋭い視線と高飛車な口髭は、忘れられるものではない。さすがに大御所自ら早急に姿を現すとは思わなかったので少したじろいだが、アナカダはそれを微塵も見せないように務めた。

「覚悟!」

 血気盛んな国王軍の一人がヤハウェイに斬りかかろうとしたが、

「止めんか!」

 アナカダが、そんな兵を殴って止めた。双方が睨みあう形で動きを止めた。それと同時に、周囲の音も徐々に収まった。厚い皮の鎧がザンと切れる音も、剣のガチンと鳴る音も。その音が余韻を残し、沈黙の中に奇妙な響きを漂わせた。

 その沈黙を見計らって、ヤハウェイが口を開いた。

「乱暴きわまりありませんな。少年王は名の通り、少年でございましたか」

「我が王を愚弄するは国に背くも同じですぞ、男爵殿」

 この言葉にヤハウェイが失笑した。だが何も言わなかったので、アナカダは言葉を続けた。

「先日、我が王宮に勤める小姓がこちらに来たはず。今朝になっても戻らぬゆえ、ヤハウェイサーム・フセクシェル、お前を捕らえる」

「異なことを」

 話ながら剣を収めたアナカダに、ヤハウェイは慇懃なほどに腰をかがめて礼をした。周囲の兵らがお互いの大将を守るように動き、囲んで立った。いつの間にか散らばっていた兵らもここに集合している。2階にまで上がれた国王軍の兵は、キャナレイとクリフだけだった。

 顔を上げたヤハウェイは、アナカダに微笑んだ。

「もし、その方が当家にいらっしゃるとしても、それで私が捕らえられるとは勝手きわまりない理屈。私こそ左大将様、あなたを訴えますぞ。不法侵入に侮辱罪、殺人……。私の部下が不当に殺されたと世間に広まれば、ディナティ様の名は地に落ちるでしょうな」

「もし、とは。しらを切る気か?」

「切っても、小姓殿が行方不明という事実を盾にして私に罪を着せるのでございましょう? だったらおりますと答えますよ。私が捕らえたのは、私どもに無礼を働いた子供一人です。それが小姓殿だとおっしゃいますなら、私こそ国王様に謝罪を頂くべきでしてね」

「図に乗るな」

 勝手な言い分はどちらだと言うのか。アナカダは煮え立つ胸の内を抑えて、低く言い放った。

「お前が暗躍していることも、こちらはすべて調べてあるのだ。テネッサ商会とつながりがあることも分かっている。小姓ごときが一件と思うな、抵抗は許さぬ」

 アナカダが手を挙げると、国王軍が男爵に迫った。

「言いがかりを付けて逮捕する……。偉い方がよく使う手です」

 それに合わせて、ヤハウェイの手下たちも動いた。再度剣が斬り結ばれるかという緊迫感が生まれた……が、ヤハウェイ自身がこれを止めた。

「?」

 剣にかけた手をほどいて、アナカダは策士を睨んだ。策士ヤハウェイは、大人しくアナカダの兵に手を取られている。

「どういうつもりだ」

「従ったまでです」

 ヤハウェイはまた微笑んだ。笑っていない目をして。

「今、私をお連れ頂くなら、それも結構。2階に走って行かれたあなたの部下は、止める者のない私の用心棒に殺されてしまうことでしょう。先に屋敷を荒らしてきたのは、あなたたちだ。私は、私の屋敷を守っただけですからな。私の妻、王族の第2皇女様もここでお暮らしだというのに、思いきったことをなさる」

「戯れ事を。それこそ確固たる罪が重なるだけだぞ」

「それはどうでしょうか?」

 決して崩れない余裕の笑みがアナカダを苛立たせ、不安にさせる。こっちは国王軍だ、いくらでもヤハウェイを処罰できる。糾弾する材料は揃っている。なのに。

「さて、取引と行きましょうか」

 アナカダの焦燥が極まった瞬間に、ヤハウェイが切り札を突きつけた。

「国王様に毒を盛った犯人を、お知りになりたくないですか?」


          ◇


 屋敷に入った通路の奥にある、2階へ上がる階段。疾走する丸い動物は、その階段を迷いなく駆け上がった。主人の匂いを辿っているのか自分の記憶に頼っているのか分からないが、どちらにしろ驚嘆すべき野性の勘だ。これで間違っていなければ。

 そんな失礼なことを考えてしまったためか、グールに続いて階段を登ったキャナレイは後悔するはめになってしまった。

「“オルセイ”!」

 キャナレイは慌ててグールを呼び止めた。

 だが、それよりも自分の足を止めるべきだった。階段の上に頭を出した彼女に、剣が襲いかかってきたのだ。

「うわっ?!」

「キャナレイ!」

 階段途中で剣を受けたキャナレイにクリフが叫び、その向こうへ剣を突きだした。キャナレイを襲った男の腹に、クリフの剣が入った。だがキャナレイも剣を肩で受けてしまい、血を流した。

 クリフは自分の手から剣を放し、その男の手元を掴んだ。腹を刺された男は容易に剣から手を放した。それをクリフがもぎ取る。キャナレイを後目に階段を登りきり、吼えるグールを斬ろうとしている大男に向かった。

 大男の剣とクリフのそれが重なり、甲高い音と共に火花を散らした。

 クリフは若干退き、歯がみした。掴んだ剣が慣れない形をしているのもあるのだが、大男の剣は強いものだった。さらに横から、別の手の者がクリフを襲う。クリフはこれを蹴飛ばして避けた。

 2階に待ちかまえていた敵は4人だった。

 そのうちの一人は今、クリフが腹を刺して倒した。大男が相当の手練れであることは、一度斬り結んだ剣と肌で痛感した。威風堂々とした男だった。この男が真ん中に立っているだけで、通路が狭く見えるほどだ。

 これだけの腕を持つ者が上階で待ちかまえていたということは、そこに何かがあるということである。

 大男の第2刀を避けると、すぐ後ろが階段になってしまった。クリフは再び前に出て剣を繰り出し、男を押した。

「行け、キャナレイ!」

 クリフの叫びとほとんど同時に、グール“オルセイ”が走った。黒いグールは育ってしまった自分の身を縮めるかのように頭を低くして、男らの脇をすり抜けた。

 さすがに股の下を通るような図体ではなくなったので避けきれずにぶつかってしまったのだが、グールは男にせき止められるどころか、逆に男をはね飛ばしてしまった。後を追って走るキャナレイは内心、強い兵士に育ったものだと思って笑ってしまった。

 体勢を崩した男を、キャナレイが撃つ。

 肩からの血が飛んだが、かばってはいられない。

 だが快進撃はそこまでだった。もう一人の男がゆらりと動いてグールに白い刃を突きつけ、その背中を斬りつけたのだ。

「ギャンッ!」

 獣の悲鳴が廊下に響きわたった。

「オルセイ!」

 クリフも動きを止めてしまった。が、グール“オルセイ”に付けられた傷は浅いものだったようで、彼はすぐ機敏に動きだした。避けたらしい。

「脅かすな手前ぇっ」

 悪態を突きながらクリフは、迫ってきた大男の剣を受けた。気が散って仕方がない。加えてキャナレイが対峙した最後の敵も相当の手練れらしく、形勢が悪化していた。

 しかもグールに突きとばされた小男がクリフに向かってくる。ただの2対1でなく、大男は5人分の働きをしそうな強者である。

 受け止めた剣も、自分が振るう剣も重かった。

 クリフは自分の体を本調子だと思っていたのだが、こうして戦ってみると痛感させられた。満足に動けない。ソラムレア国で捕らえられた時も、長い牢獄生活だったので体調が悪かった。

 だが、あの時はイアナの剣があった。自分の手によく馴染んで、疲れを憶えない剣だった。気を抜く最後の瞬間まで力が充実していた。

 クリフは余計な思考を振りきって、目前の剣に没頭した。狩人の勘を取り戻すべく、大男をグールだと想定した。褐色の肌をしているので、黒さを想像するのにちょうど良い。恐ろしい勢いで突進してくる、頭の良い森の主……。

 緊迫した命のやり取り。

 殺すか殺されるしかない世界。

 互いが、自分の生を守るために。

 大男が若干ひるみ、もう一人の男もたじろいだ。

 クリフは彼の躊躇を逃さずに剣を振った。まずは小男の方から。弱い、邪魔な奴から消していくのが鉄則だ──。

 燃える瞳に気押された小男は、呆気なく倒れた。しょせん雇われ人である。気迫の差が出た。だが同じ雇われ人だろう大男は逆に、クリフの闘志に喜びの表情を示した。

 大男の向こうでキャナレイが最後の一人に苦戦しているのが見えたが、助ける余裕はクリフにもない。小男を倒して体勢の崩れたクリフに、すかさず大男が斬りかかってきたのだ。

「くっ」

 歯を食いしばって受ける。

 何度か鋭く剣の音が響いた。慣れない円月刀が手に馴染まない。また大きく斬り結んだ後、クリフは一旦離れて剣を構え直した。大男の構えを真似てみる。いつも使う長剣と、この円月刀では剣の太刀筋が変わるのだ。それを見て大男がニヤリと笑った。しっぽのような長い後ろ髪が肩にかかったのを背中に払いながらも、焦点はクリフから外さない。

 こいつも戦いを好む男だ、とクリフは悟った。悟ってから、ふと思った。好む(・・)?

 黄土色の後ろ髪が、男の動きに合わせて揺れた。

 突進してきたのだ。

 男が大きな円月刀を横に振ってきた。リーチが長い。クリフは飛びのいたが、避けきれずに胸を少し斬られた。真一文字に赤い筋が走り、切れた服がだらりとぶら下がった。

 後がなくなった。

 クリフの足元は、もう階段の端だった。攻めるしかない。だが男には隙がない。男もまたクリフの隙を窺い、じりじりと足をずらす。

 通路の奥から、叫び声が聞こえた。気がした。

 クリフが先に動いた。大男が後方の音に気を取られたからだ。

 だが、大男のそれは大した隙ではなかった。

 男は舞にも似た仕草で、クリフの一撃を避けた。

 クリフが突きだした剣をからめ取るようにして、大男の円月刀が生き物のようにクリフの胸を這い、首に迫ってきた。薄く鋭い刃がしなり、朝の光に輝いた。クリフに戦慄が走った。

「退け!」

 だが、その刃を止める声が上がった。

 クリフはその一瞬に対して、剣をねじ込んだ。大男の円月刀がはね上げられ、クリフの首がすんでのところで守られた。

 声は、少女のものだった。

「マシャ!」

 クリフとキャナレイの叫びが重なった。キャナレイはまだ戦っている。大男の背中に隠れて、通路の向こうにマシャらしき人物の頭が見えたのは床すれすれの位置だった。故意か無意識か大男が体をずらし、クリフの目に、縛られた格好で通路に転がり出てきたマシャが映った。マシャの後ろから黒い影が飛びだした。

 がおぅと猛獣の叫びをあげて、その黒い影がキャナレイの相手へと飛びかかる。手練れだっただろうに、だがその男は思わぬ第三者にひるみ、戦意を消してしまった。そこをキャナレイが斬りつけ、男は床に伏してしまった。

 大男が何かを叫んだ。

 仲間の死に逆上し、再びクリフに向かってきたのだ。

 けれど彼は再度、少女の声に止められてしまった。

「その者を斬ると大罪になるぞ! 国王の面前で絞首刑になりたくなければ、剣を収めろっ」

「……何?」

 大男が初めて喋った。

 その間に少女は、手の空いた女戦士に拘束を解かれている。自分が捕らえておくように命じられていた少女を奪われて、平気ではいられない。だが──国王?

 そう思った男はこの時になって、赤髪の男と女戦士が国王軍の鎧を着ていることに気付き、顔色を変えた。だが角ばった無骨な顔は元から表情に乏しいようで、さほど驚いた風には見えない。

「中庭にディナティ王ご自身がおいでのはずだ。そこから覗いてみるが良い」

 大男は胡散臭げな顔でマシャを一睨みしてから少しずつ手すりに近付き、階下を見おろした。大男に狼狽が生まれた。ベランダ下、中庭に面した通路に自分の雇い主が捕らえられている姿を見たのだ。

 その隙につけ込んだのは、クリフではなかった。

「む?!」

 振り向いたが遅かった。

 大男は、自分の剣が宙に舞うのを呆気に取られて眺めてしまった。右手首が痛い。突然飛びこんできた男に、手を蹴られたのだ。

 飛びこんできた男は、自分が見張っていたロマラール人だった。銀髪の男。これ以上ないほどに痛めつけて弱らせたと思っていたのに、と大男は思った。

 昨晩までは顔の形すら変わっていたはずなのに、男は最初に会った時とほぼ変わらない面持ちに戻っていた。いや。痣はある。血の跡も残っている。頬も腫れているし、雑巾のように破れた服の間から見える肌には、ムチを打った赤い筋もある。

 表情が戻ったのだ。

 拷問を受けている間、決して口を割らなかった堅固な意志をそのまま表現したかのような、尊大な顔。昨日までの弱った眼は演技だったのだと、はっきり分かる顔だった。

 大男は銀の男に呑まれた。

 宙に舞った円月刀が床に落ち、キィンと鋭い鳴き声を上げた。それを拾いながら、銀の男が声を響かせて男に言う。

「私はナザリ」

 ナザリ。

 男は思わず心中で反芻した。

 そんな男の状態は、自分でも気付いていないのだろう、とても無防備になっていた。クリフやキャナレイが、打ちこむのをためらうほどに。だがナザリから感じる気配が、2人に動くことをも許さない。2人は剣を退くことができず構えたまま、このやり取りを見守った。

 マシャはナザリの側近がごとく、彼の横にピタリと貼りついている。彼女もいたぶられたのだろうと分かる傷を負っていたが、眼の力に衰えはなかった。

 次にナザリの放った言葉は、皆をも仰天させた。

「お前は強い。私の元に来い」

「え?」

「お前の雇い主ヤハウェイサーム・フセクシェルに明るい未来はない。あの男の命令通りにお前が私たちを斬ったとしても、報酬がないどころかお尋ね者になり、一生、国王軍から身を隠して生きなければならなくなる。盗賊になるしかない」

「マシャ」

 小声でマシャに話しかけたのは、キャナレイだった。彼女はこの屋敷から救うべき人物はマシャと民間人の2人だとしか聞かされていなかった。自分が一体誰を解放したのか不安になったのである。到底、民間人と思えない気迫である。

 だがマシャはキャナレイの声を無視した。ナザリが言葉を続けていたからだ。

「嘘だと思うなら、階下の顛末を見守るが良い。ヤハウェイは国王軍に捕らえられて、ここから去る」

 ナザリはそう言いながら歩きだした。男の横をすり抜け、クリフの肩にポンと手を置いてから優雅に階段を降りる。

「同じ賊なら、狭い国内でケチな盗賊をするよりも海賊の方が面白いぞ。その気があるなら、南の港町シアマンヌで“ピニッツ”はどこだと尋ねろ。運が良ければ乗れる」

「ピニ……ツ?」

 聞いたことのない名らしい。

「今憶えないと一生後悔するよ」

 男の疑問を受けて、マシャがふんと鼻で笑った。足を痛めたのか、彼女は片足のつま先を上げた妙な歩き方をした。それでも顔はあいかわらずの生意気な表情でもって、軽やかな素振りをしている。ナザリについて歩くそんなマシャをいたわるように、グール“オルセイ”が後を追う。その後を、剣を構えたままの2人が大男を見たまま階段に退く。

 だが男は、すっかり戦意を喪失していた。追ってくる気配もないらしい。当然だろう、円月刀を取られて、彼は丸腰である。

「おい……どうして」

 そんな男が階段下に消えかかるナザリに疑問を投げた。

 ナザリは円月刀をもてあそんでいた手を止めて、少し振り向いて眉尻を上げた。

「マシャをかばってくれたからさ」

「あ。ちょっと待て、お前」

 キャナレイが目を覚ましたように、素っ頓狂な声を上げた。

「その剣を渡せ。どうしてお前が先頭を歩いてるんだ、マシャとどういう関係なんだっ」

 ナザリは肩を竦めて目を細めたが、すぐに何もなかったかのように前を向いた。

「待て、行くな!」

「することがあるのでね」

 キャナレイの叫びに応じておどけた物言いをし、ナザリは急に走りだした。キャナレイは慌てて追ったが、間に立ったマシャとグールが邪魔をしてナザリに追いつけない。

「待て! マシャ、どけっ」

「ごめんね、キャナレイ」

 この時マシャが、自分が邪魔になってしまったことを謝ったのでないことは、後になって分かったことだった。

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