2-4(勝負)
彼女が転がされた、ナザリも一緒にいる部屋は、決して質素な場所ではない。小さくもないし絨毯が敷きつめられており、家具まで揃っている豪奢な住居となっている。普通のネロウェン家屋と違うところは扉があることと、ご丁寧に窓へ鉄の柵がはめ込まれており、木の窓も堅く閉ざされていて部屋が異様に暗いことぐらいだろうか。
更に、すえた腐肉と鉄さびの臭いが、室内を完全な異空間にしていた。何とも言えない焦りが胸を埋める。この部屋から二度と出られないような錯覚に陥る。
正体不明の平民と小僧を相手に、大層な部屋をふんぱつしてくれたものだ──と彼女は内心で毒づいて、余計な不安を蹴散らした。
いもむしのように縛られて倒れている少女の服に手をかけたネロウェン人は、冷たい目で射るように彼女を睨む。
「マシャと言ったな。口の減らないガキだ」
その鋭い眼光は次いで、彼女の胸元に注がれた。縄は、マシャの腹から腰にかけて巻かれている。腹がぎゅっと押さえつけられてあって、ほとんどないにも関わらず胸が出ているように見えていた。
マシャはギクリとしたが、陰険男爵の手から逃れられなかった。
「!」
服が引っぱられて乱れた。つい逃げようとしてしまい、ぐいぐいと逆に胸元を広げられた。まだ色づきもしていないほどに可憐な、花弁のようなマシャの乳房が露わになった。少年を模倣していた少女が露呈した。マシャは唇を噛んだ。
泣き叫び悲鳴を上げることだけは、死んでもしたくない。それぐらいなら舌を噛む。
だが今のマシャには、辱められても死ねない理由がある。
部屋の隅にまで転がされてしまって、それでもなお気絶していて目覚めない“ピニッツ”船長を見ると、その決意はさらに強くなる。
男爵ヤハウェイは髭の先を指先で撫でながら、そんなマシャの燃える目を愉快そうに眺めた。服から手を離してマシャの胸を指先でつつく。その屈辱に耐えながら、マシャは冷笑して睨み上げた。
「あたしの口が早いのは、本当のことしか言ってないからさ。話に矛盾を感じるかい? 子供だと思って甘く見てたら、痛い目に遭うよ」
「甘く見てはいないさ」
笑みを貼りつけたままのヤハウェイは、一見すると人の良さそうな顔に見える。目が細いので笑うと一本線目になり、いかにも満面の笑みになるのだ。だがマシャは最初から、この顔が気に入らないと思っていた。笑い方がナザリと似ているからである。つまり“食えない男”ということだ。
「さきほども言ったが、お前が小姓であっても問題じゃない。お前はむしろ自分の心配をすべきだろう」
ヤハウェイはまるで劇のように大袈裟な口調で言った後、部屋を守る番人2人を室内に招き入れた。何をする気かと問うまでもなくマシャは顔を歪めた。
「まずは下の口もそれほど元気か、試してやろう」
女とばれたら、すぐこれだ。マシャはおののくよりも先に、嫌悪感でいっぱいになった。
マシャはそのような脅しの通じない顔をして、ヤハウェイに対抗した。本当に犯されたならマシャがそうした経験を持っていないだろうことが露見してしまうが、せめてその直前までは、そのような脅しが自分には無力だという顔をしていなければならない。
「やれ」
何の説明がなくても理解しているだろう男らが、何の説明もしないヤハウェイの命令で動いた。マシャは体を堅くした。
だが。
祈りが通じたのか、命令は決行されなかった。
番人の一人、大柄な方が、もう一人を制して、これを断ったのである。
「雇い主がやれと命じているのだ。女ひでりだろうに我慢をするな」
およそ爵の号を持っている者と思えない下劣な顔で、ヤハウェイは笑った。しかし黄土色の髪をした大男はヤハウェイに言ったのだった。
「まだ子供です。それに辱めは、それを屈辱に思うヤツでないと拷問にならない」
ヤハウェイはかすかに頬を振るわせた。
「ならぬかどうかは、してみなければ分かるまい?」
「……俺たちにも、それなりに自尊心があります。お許し下さい」
自尊心と聞いたヤハウェイの顔が奇妙に歪んだ。あざ笑ったのか何かを感じたのか、そこまでは分からなかった。だが彼は大男に対して、
「よかろう」
と矛を収めた。
どうやらヤハウェイの人を見る目も、さほど脆弱ではないらしい。きちんとその道の者を雇っているということか……とマシャはやり取りを盗み見ながら思った。
番人らを下がらせて、室内はすぐにまた静寂に戻った。ヤハウェイは何ごともなかったかのようにマシャをみおろす。陵辱はただの思いつきだったらしい。その顔を睨み返したまま、マシャは内心で一つの危機が回避できたことに安堵した。
この男が直接自分に手を下すことも考えられる。だが、そうする前に番人を呼んだということは、彼にはその気はないということだ。それこそ大男が言った「自尊心」を、ヤハウェイとて持ち合わせているということだろう。
男爵ともあろう者は、自分の手を汚さないに違いない。
そう思った矢先に、マシャはギクリとさせられた。
ヤハウェイがおもむろに、自分の腰から短剣を抜いたのだ。鋭い、シャンという音が部屋に響いた。
「呑みこみが悪いね、オッサン」
そう言いながらもマシャは、初めて顔をこわばらせてしまった。
その顔に気をよくしたのか、
「まだ殺さないさ」
ヤハウェイは言って、マシャの膝に手を乗せた。ズボンの上からだったが、それでも足の先までススと撫でられると、背中に悪寒が走った。足先に手が到達すると、今後は彼はマシャの靴をすいと脱がせてしまった。小さな裸足が露わになった。
「この短剣は、こう使う」
裸足になった足指に、冷たい刃先が当てられた。マシャは目をそらして、歯を食いしばった。
まだ五体のどこも、そぎ落とされた経験はない。しかし、こういう稼業をしていれば、いつかはこの日が来ることを覚悟していた。
舌を噛んで死ぬことができない今のマシャは、耐えるしかない。マシャを殺してでもディナティ王など怖くはないと豪語するヤハウェイのハッタリに呑まれたら、終わりである。本当に平気なら殺せば良いのだ。テネッサ商会を知っていることの口封じにもなる。それをしないのは、こちらの出方を窺っているからだ。
マシャがそんなことをぐるぐると考えるのは、それで気を紛らわせようとしているためだった。だが紛れきらなかった神経が、指先に走った激痛に絶叫した。かろうじて声だけは上げなかったが、体中に衝撃が走り、思わず身をよじってしまった。
「!!」
大きく見開いた目に、反射的に涙があふれて飛び散った。マシャは、自分に「痛くない」と言い聞かせた。こんなものよりも、先月オルセイに刺された腹の方がよっぽど痛かった。
マシャはそう思いつつ、ギッと睨むように指先を見た。
指はなくなっていなかった。
右足の、親指と人差し指の間から血が出ていた。ヤハウェイは一番つま先を削ぐのではなく、指の間、皮の弱い部分を切ったのだ。かなりの深さなのか、一筋の血が太く濃く甲を流れていた。
ヤハウェイは短剣についた血を腰帯の先で拭うと、それを鞘に戻した。そして空いた両手で、傷付いたマシャの親指と人差し指をちょこんとつまんだのだ。何をする気なのか──マシャは青ざめてしまった。
「ここから引きちぎったら、足は縦に裂けるだろうかね?」
変態だ。
マシャは一生懸命ヤハウェイを睨もうとしたが、どうしても目に力が込められなくなってしまった。こういうタイプの男を、マシャは知っている。……そういうタイプの男に、ほんの10歳だった昔、虐待されたことがあるから。マシャの中で、目前のヤハウェイと過去の男が重なり、強い恐怖になった。
──耐えろ!
マシャは震える唇を噛みしめて、叫びそうになるのを必死で自制した。これは勝負だ。ヤハウェイとのではない。この変態クソ男を怖いと感じる自分自身との、戦いだ。
痛がゆくて熱いつま先から気をそらし、マシャは違うことを考えようとした。
ヤハウェイサーム・フセクシェルがディナティ軍を敵に回してでも平気だという、その理由が何なのか。テネッサ商会がバックについていると言っても、それで直接的に攻撃してくる国王軍を追い払うことはできないはずだ。
ナザリのことを、ロマラール海兵団船長ナザリだと知らずに捕らえて、貿易組合に情報を流した、その背景も分からない。ナザリを手引きしてフセクシェル家に引きあわせた挙げ句に裏切りやがった商人でさえ、ナザリのことを海賊だとは知らないのだ。ナザリは誰にも自分の正体を明かさない、謎の男として暗躍する海賊なのだから。それでも、そんなナザリを捕らえるだけの理由があった……。
「言え」
ヤハウェイがマシャの指先をつまんだまま、冷たい声を出した。指先にぐっと力が込められた。背中にまで、じんと痛みが走った。
「ディナティ王は何をどこまで知っている? この男を奪回して得られる利益は何だ? 攻めてくるなら、どのぐらいの規模が来るというのだ」
「さぁね。このまま、あたしを捕らえていれば嫌でも分かるよ。明日には良いところに行けるから……!!」
口が過ぎた。ヤハウェイが、マシャの足先を開いた。新しい血が流れて落ちた。
ヤハウェイの顔は、隅に転がる男へと向けられた。男、ナザリは微動だにしていなかったし目も開けていなかったが、ヤハウェイは気配で、彼の意識が浮上したと感じたらしい。
声を高くして、ヤハウェイはマシャに言った。
「言えば楽になれる。死にたくなければ答えろ。お前の態度が、そこの男を殺すことになる」
だがマシャはここから、絶対に口を利かないと決めた。何を言ってもボロが出るかも知れないし、これ以上話すこともない。今日一日マシャが王宮に戻らなければ、明日にはディナティ王みずからが国王親衛隊を連れて、ここに攻め入ることになっている。
部隊は、キャナレイ率いる5番隊の騎馬兵が15人、出動する。
一番隊のサキエドでは、グール“オルセイ”が言うことを聞かないからだ。グール“オルセイ”はここへ攻め入った時に、マシャの臭いを辿って導く役目になっている。
生きていて欲しい。
マシャは、グール“オルセイ”がベランダから飛び下りた光景を思いだしながら、そう願った。もし王宮に帰っておらずとも、それでも良かった。どこかの山か草原ででもたくましく生きていれば、それで良い。“オルセイ”を利用するのは今回だけと決めてある。……“クリフ”と同じ末路を辿って欲しくはない。
ディナティさえ来れば、おのずと話は進展するのだ。自分はただ、ひたすらここに踏みとどまっていれば良い。明日、このクソ親父にはディナティが3倍返しにしてくれる。例えその時にナザリも自分も、死んでいたとしても──。
そんな風に思って耐えるマシャの耳に新しい情報が入れられたのは、もうすべてが寝静まったような深夜のことだった。
マシャは気絶と覚醒を3度繰り返し、拷問すら効かないらしいと知れて、そのまま転がされていた。足の先は、かなりの血が流れたものの裂けられはしなかった。ナザリもマシャの目の前でいたぶられたが、お互いに一言も喋らなかった。
暗がりの中、マシャの近くにはナザリも転がったままだ。ヤハウェイが去ってしまった後もマシャは、それでもナザリと言葉を交わさなかった。どこから誰が見ているかも分からないからだ。
その闇を裂いて入室してきた者は、またもヤハウェイだった。
「悲しい知らせが届いたよ」
と嬉しそうな顔をランプに照らして、マシャを見おろしてくる。
まさかグール“オルセイ”が……と緊張したマシャに、彼はもっと衝撃的な言葉を口にしたのだった。
「ディナティ王が亡くなったそうだ」
「……?」
声こそ堪えたが、マシャの口からひゅうと息が流れ出た。身を起こすことも忘れてマシャは、ヤハウェイの笑みに震える髭の先を凝視したまま、固まってしまった。
「うちの手先が王宮に、君のことを知らせてやろうと思って行ったらだねぇ。なんと今日の夕餉でディナティ様は毒を盛られたのだそうだ。……しかもヤフリナ国製の特別な、即効性の毒でね、王様は血反吐を吐いてむせこみ、崩れるようにして……大丈夫かね?」
ヤハウェイはマシャの様子に、にやにやと笑った。マシャはまだ呆然とした状態から抜け出せないでいた。
今までにも散々わけの分からない目に遭ってきた。神だとか聞かされたり、とんでもない光景も目にしてきた。そうした内容に比べれば、はるかに現実味のある、あり得る話だ。
だがあり得すぎて、しかも今この状況で聞かされては、まるで下手な冗談にしか聞こえなくて……。
「何てタイミングの良い嘘だろうねぇ。だが私なら、もう少し上手い嘘をつくだろうね。お前もそう思うだろう? 私にこんな愚鈍なハッタリは似合わない」
ヤハウェイは転がるマシャの頭に、ランプをかざした。扉も窓も締め切ってある中で、そのランプは異常なくらいに明るく見えた。
光の中に、傷付いて頬を腫らせている少女の顔が浮かび上がった。強がっているものの、今にも泣きそうに歪んでいる顔が……。
ヤハウェイはその顔を踏みにじろうとして、足を上げた。
「命運尽きたというところだな。すべて打ち明けて命乞いをするなら、助けてやらんでもないぞ」
だが、その高慢な口を第三者の声が閉じさせた。
マシャの隣りに横たわる名すら明かさない男が、ヤハウェイに初めて凄んだのだ。
「それとこれとは関係がなかろう。王が死んだとて国は動く。今この子供を手にかければ、お前は死ぬこと以上に後悔するかも知れんぞ。明日を楽しみにすることだ」
「何だと貴様」
かっと目を見開いたヤハウェイは足の下ろし場所を換えた。凄みどころか、男はそれまで一言も発したことがなかったのだ。言葉の内容よりも、ヤハウェイはそのことに戦慄を憶えた。
ヤハウェイの足は、苛立ち紛れというよりも恐怖を紛らすために、男の顔へと振りおろされた。堅い皮の靴に増幅されているヤハウェイの蹴りは、鋭く重い。
「抜かしおってっ」
マシャはもう何度目になるか分からない悲鳴を内心で上げたが、それでも顔には出さなかった。自分の痛みのように頬がうずいた。
「お前たちに味方はないんだぞ。今すぐに殺しても構わんというのに、なぜ何も言おうとせんのだ。お前を雇った豪商は誰だ、なぜ国が介入してくる?」
ヤハウェイは次第に声を荒くしながら、銀髪の男へ怒りをぶつけた。男の顔から流れた血が額から鼻へと一筋流れたが、それがために、そこに浮かんだ笑みには一層の迫力があった。ヤハウェイがぎくりとして足を引っこめたほどに。
「真の悪人は取り乱さないものだ」
そう言われてヤハウェイは顔を歪めた。咳払いをして、姿勢を正す。
「良かろう」
ヤハウェイは髭を撫でつけて、微笑んだ。
「明日、何が来るのか何が起こるのか。こちらも万全の体勢で出迎えるとしよう。今夜は目覚められる眠りを堪能するが良い」
そのセリフを最後に、部屋がまた暗くなった。急に灯りがなくなると何も見えなくなる。だが徐々に目が慣れてくると、ヤハウェイが来るまではずっと見えていたのと同じ景色がまた戻ってきた。
窓の隙間から細く落ちてくる、一筋の光。
マシャにはその光が小さな希望に感じられて、思わず強く祈った。
どうか言葉通りに、明日は明るい日であって欲しい、と。