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2-3(浅薄)

「マシャのいない王宮は、灯が消えたようになるな」

 というのは、ディナティ王が言ったセリフではない。そんな、誰かにあらぬ噂を立てられそうな戯れ事など口にできない。

 左大将アナカダがラウリーに言ったものだった。食事の席でふいに話しかけられた紫髪の娘は、この思慮深い男の意図が読み取れず、「本当に」と曖昧に笑うしかなかった。

「アナカダ」

 それがアナカダの遠回しな嫌味であると気付いたディナティが、これを制した。

「ラウリーがあの小姓のようにやかましくては、私が困る」

 と笑い話にして、その場を和ませる。それに気が付いたラウリーは、もう一度微笑んだ。女神らしく。

 列席の大臣諸侯らに向けて微笑むことには、だいぶ慣れた。彫刻を顔に貼りつけているように硬い笑みではあるが、沈んでいるよりは幾分ディナティの役に立つ。

 ラウリーとクリフがお偉方の集まる夕食会に出席させられることは、しばしばあった。

 この王宮で世話になっている以上、戦争に貢献した2人は象徴としてばかりでなく、功労者として皆の前に姿を見せる必要があるのだ。ディナティ自身はそのようにラウリーたちを利用することに不快感を示したが、周りが黙っていなかった。

『すまぬ。王のために』

 そう言って頭を下げてくる者はアナカダ左大将であったり、親衛隊長らであったりした。

 ラウリーたちとて数日も過ごしていると、王宮内での少年王が微妙な立場らしいことが分かってくる。自分たちが同席することで王の面目が立つなら、そのぐらいわけもない。

 ラウリーは常に真正面から顔をそらしていたが、向かいに座るクリフは気にしていないようだった。むしろ見せつけでもするかのように元気である。

 絨毯と食事にさえぎられたわずかな距離は、どちらにとっても、とても遠い。

 向かい合わせに座るラウリーとクリフの間にはどこまでも食物が並んでおり、またげるかどうかという幅である。縦に並べられたそれに連なるようにして、クリフの両側にもラウリーの両脇にも、何人もの男らが座している。その絨毯の終点にいて皆に体を向けるのがディナティ王だ。十数人ほどが座している。

 だが、いつもの食事に比べれば少ない方だった。初日に大宴会がおこなわれた大広間にこの人数では、かえって質素に見えた。比較的、内輪の食事会であると言って良いだろう。クリフもラウリーも王座に近いし、ディナティの隣りに左大将アナカダもあぐらを掻いている。

「うむ……旅の疲れも癒えましたか。今日は幾分、顔色も良いようですな」

 アナカダが杯を手にしたまま、再度ラウリーに声をかけた。今度は皮肉じゃないらしい。ラウリーは小さく、ありがとうございますと返した。

「お貸しした魔法書が、気晴らしになりましたかな?」

「いえ、あの。あ。何でもありません」

 ラウリーが言いよどんだので、またアナカダとの間に気まずい空気ができてしまった。

 ラウリーは、アナカダから本を借りていた。古代語をロマラールの言葉で書き直してある本のようなのだと言って、アナカダが退屈するラウリーのために持ってきてくれたのである。

 ラウリーは、クリフのように兵らの訓練に参加していない。体が本調子じゃないし、クリフが参加しているから会いたくないという理由もあったが、何をする気も起きないのだ。クリフだって弱っているだろうに精力的に体を動かしているが、ラウリーにはそんな元気はない。

 だから、せっかくの本だったが、ラウリーは表紙を開くことすらしていなかった。

 救いたかった肝心の人に通用しなかった自分の力を、いくら鍛錬したところで無駄だと思うから。もしこの本が本物で、ここに書いてある綴りをすべて自分のものにしたとしても、それで自分がリンや“あの人”になれるとは思えない。

 無力な自分に、生きていても良いほどの価値が見出せない。

 それでも今日のラウリーはアナカダの言ったとおり、生気のある顔をしていた。価値のある“仕事”を手にしているからだ。

「お気遣い、感謝します」

 ラウリーは中途半端な顔の左大将に、礼を尽くして微笑んだ。ほどよく酒の入った席は、そんな2人のやり取りを気にせずに談笑している。ラウリーもその輪に入って、首を動かした。出しゃばった行動や発言は、どこにも必要がない。ただ皆の顔を見渡せば良いだけなのだと、ラウリーは覚えた。

 その動かした視線の先、末席に王弟マラナエバがいる。ラウリーは王や両隣の者と言葉を交わしつつ、時々マラナエバを見た。

 ラウリーはマラナエバからの使いに、今日“仕事”をしてくれと頼まれて、酒を預かった。マシャが不在のため、ロマラールの酒かどうかを分かる者がおらず、ディナティ王に飲んでもらいやすい日なのだ。それを意識するたびに、ラウリーの目がそちらへ向いてしまう。クリフを見たくないがゆえに目をそらすので、そうなってしまうという話もあるが。皆の前で険しい顔にはなりたくない。

 だがマラナエバの方は、一度もラウリーに振り向かない。マラナエバとは「次」と言われておきながら結局、最初の夜以降、会っていなかった。今もまるで他人である。

 けれどもラウリーは腹を立てることなく、これを『この計画のためにわざと知らないふりをしているのだ』と思った。この酒がマラナエバからのものだと分かったら、元も子もない。

 ラウリーは悪戯を成功させんとする子供の笑みを、胸の内に浮かべた。

「いやぁ英雄殿は無口でいらっしゃる。もっと大っぴらに、武勇伝の一つもお聞かせ下れば良いものを」

 ラウリーの隣りに座る男が突然そんなことを言ったので、ラウリーはびくりと肩を竦めてしまった。いかにも政治向きらしい、でっぷりとした体躯の中年男性が、向かいのクリフに酒瓶を差し出している。クリフは苦笑して杯を出すだけだ。彼が何と言ったのか、クリフは分かっていない。けれどラウリーは、それについて口を挟まなかった。

 食事の席は(えん)たけなわである。ラウリーは、自分の側に置いておいた壺と杯を手にして、席を立った。

「王様」

「?」

 ラウリーは、初日の宴ほどではないにしろやはり豪奢であるドレスを汚れないように扱いながら、ディナティの側に膝を突いた。

「珍しいお酒をお飲みになりませんか?」

 ラウリーがそう言うと、周囲からは嘲笑が上がった。

「女神様、国王様がお口になさるものに今さら“珍しい”などとは存在しませんでしょう」

「そうそう。大陸の向こうから渡ってきたというなら分からんでもないが、ロマラール国では」

 国交のないことが余計に、彼らの中でロマラールの田舎具合を増幅させているらしい。王都に行けばそれなりの文化だってあるのだが、実際に山娘であるラウリーには何も反論できない。

 大臣連中の中でも特に、王を失脚させたい腹を持っている者たちである。ロマラールの賓客に良い印象を持っていないのも原因だった。ここぞとばかりに叩かれたラウリーは、思ってもみなかった揶揄にうろたえた。

「あの……これはロマラールでも滅多に手に入らないお酒で、たまたま見つけた方が私に下さって、でも少ししかないから国王様にお飲み頂きたいと思って……」

 ラウリーは赤くなって、もごもごと喋った。聞きとりにくい上にネロウェン語だったので、クリフにはラウリーが何と言ったのかがさっぱり分からなかった。分かれば不審に思ったかも知れないが、この時それを聞き咎める者は誰もいなかった。

「頂こう」

 ディナティがラウリーに微笑んだ。

「ロマラールの酒は初めて口にする。私の見聞きが足らぬものなど、世にごまんとあるからな」

 かなり露骨にディナティがラウリーをかばったので、列席の男らは口を閉じた。今はまだ彼が権力者である。それ以上の口出しは許されない。

 ラウリーはほっとしてディナティに杯を渡し、そこに酒を注いだ。アナカダが「お毒味を」と言いかけたが、王はこれを制した。これ以上、大臣や将位の目前で客人に恥をかかせるわけに行かないからだ。

 アナカダは妙なものを持ちだしてきたラウリーをジロリと睨んだが、ラウリーの方は“仕事”が成功したことに安堵していたので、気付いていなかった。

 ディナティは注がれた液体の香りを確かめた。

「……?」

 特に変わった匂いはない。いつも飲んでいるものと変わりなく思える。だが先ほどからの酒宴で自分の鼻が利いていないのかも知れない。

 怪訝に思いつつも彼は、皆が見つめる中、酒をすべて喉に流しこんだ。最後の一口を口に含んだまま舌で転がし味わってみたが、特に珍しさは感じない。ラウリーはそれを神妙な面持ちで見つめている。末席のマラナエバだけが、こっそりと微笑んだ。

 それを飲みこんだディナティは、

「ロマラールの酒とは、」

 と話しかけたところで突然、目をひんむいた。

「?!」

 ディナティは皆に背を向けて、つい今しがた飲んだそれを「がはっ」と吐き出した。吐き出されたそれには血が混じっていた。そして激しく咳きこみ始めたのだ。

「王様?!」

「ディナティ王!」

 皆が驚き、慌てふためいた。

 ラウリーもわけが分からず真っ青になり、ディナティの背を抱いた。が、そんなラウリーを騒然と立ち上がったアナカダが「どけ!」と突きとばした。

「止めろ、アナカダ!」

 体を折って咳をしながらも、ディナティはアナカダを咎めた。アナカダが我に返り、動きを止める。どんな状況にあっても冷静であれという教えは、ディナティが先代から継いだ言葉ではない。アナカダが言ったものだ。

 ディナティは叫んだ途端に、また吐いた。石床の上に点々と血が落ちた。大量ではないが、それでもかなりの量だ。

「水を!」

 アナカダが、すぐに用意された水をディナティの口にあてがった。

 クリフもディナティの側に走り寄っており、呆然と立ちすくむラウリーの腕を掴んでいた。クリフがラウリーに掴みかかったので、他の者はラウリーに近付けなくなった。

「お前、ディナティに何を飲ませたんだ!?」

 ラウリーは青い顔をしたまま、ゆるゆると首を振った。クリフが支えていなければ、そのままくずおれていただろう。彼女の足には、まったく力が入っていなかった。

 何と答えて良いのか、言葉どころか涙すら出て来ない。何が起こったのか、まったく理解できないのだ。

 誰かが「毒だ!」と叫んだ。その言葉が、ラウリーの耳にわんわんと響いた。言葉が脳に浸透せず、意味をなさない。クリフに揺らされ、皆に何かを叫ばれている。皆が自分を憎しみの顔で見ており、非難している。そんな中で一つの言葉だけが、ようやくラウリーの胸に辿り着いた。

 毒。

「そ、そうだ……マラナエバ……。私、私はマラナエバ様から、あの……」

 取り乱しながらもラウリーは、自分を問いつめる顔の中から知っている者を探した。

 いた!

 クリフの向こうにマラナエバの姿が見えた。彼は他の者と違って、ラウリーを言及していなかった。左大将の横に座り、必死の形相でディナティだけに集中して介抱していた。

「マラナエバ様!」

 ラウリーの悲鳴に、皆がザッとマラナエバに注目した。だがマラナエバは気付いておらず、皆の沈黙を耳にしてから顔を上げたのだった。ラウリーはよろけながらもクリフの腕に掴まり、一歩踏みだしてマラナエバを睨んだ。

「あ、あなたは……。あなたは私に、何を与えたんですかっ!?」

 ラウリーを困った顔で一瞥したマラナエバは、

「私が? あなたに? 何を?」

 はっきり言った。周囲がどよめいた。

「王弟殿下、あなたは女神様に、」

 と誰かが言った言葉を途中でさえぎって、マラナエバが発言した。

「多忙な女神様のお顔を拝見することすら、今日が初めてでございますれば」

 マラナエバは困惑した、泣きそうな表情を示した。

 誰かが「確かに」とこれを肯定した。誰もマラナエバとラウリーが会ったところを見ていないし、行動もまるで違うのだ。

「それにマラナエバ様が犯人ならば、わざわざこの場に居合わせたりなどするまい」

 そう言ったのはマラナエバではなかった。他の者だ。その言葉には説得力があった。

「皆様のご洞察に感謝します」

 大臣連中にお辞儀するマラナエバが、ちらりとだけラウリーを見た。

「とんだ濡れ衣を」

 そこには軽蔑と満足、両方の感情が読み取れる笑みが浮かんでいた。そしてそれは一瞬で消え、マラナエバはその後、ラウリーを二度と見なかった。ラウリーは愕然としたが、すでに何もかも遅かった。

 計られた。

 少し考えれば、すぐに分かったはずではないか。そう思ったが、考えなかったのも分からなかったのも、自分の責任だ。確かめもせずに自分がこの手で、ディナティ王に毒を盛った。

 少年王は水を飲み、吐き、咳をしていたが、とうとう突っ伏して気を失ってしまった。皆が口々に王の名を呼んでいる。誰かが、亡くなったのかと叫んだ。その者を別の誰かが諫める。わらわらと主治医や侍女らも寄ってきて、ディナティを寝かせて持ち上げるための板が持ち込まれた。

 ラウリーは思わずロマラール語で叫んでいた。

「ま、待って、お願いっ」

 クリフの手を突き放し、ラウリーはディナティの胸に倒れ込むようにしてしゃがみ、両手を当てた。彼の胸と腹に手をかざした時、ラウリーの口から自然に、誰も知らない言葉が紡がれていた。誰も知らない、古代の言葉。魔法だ。

 かつて憶えた唯一の魔法は、ラウリーの周囲に異質な空気の壁を作った。そこが薄く緑色に取り囲まれているのが見えた人間は、何人もいないだろう。実際に見えていたのはクリフとマラナエバぐらいのものかも知れない。

 けれど、皆が娘の所業に目を見張った。ラウリーが高らかに紡ぎ上げる言葉には神秘性があり、聞く者を魅了したのだ。ラウリーは、それが治癒の魔法かどうかも知らずに詠唱していた。これ一つしか知らないのだ。兄を救うはずだった言葉しか。

 ラウリーは祈る思いでディナティを見つめる。息はある。が、目を覚ます気配も呼吸が楽になる様子も感じられない。やはり言葉を正しく使わないと、力は働かないのだ。

「魔女だ!」

 叫んだのはマラナエバだった。

「こやつ、兄王を殺す気だ。おかしなモヤが見えるぞっ」

 見えていなかった者でもそう言い切られると「そういえば、そんなようなものが」という気分になる。マラナエバがラウリーを魔女呼ばわりしたと同時に、ラウリーは取り押さえられてしまった。

「待ってお願い、放して!」

 ラウリーが暴れる。暴れながら彼女は、この魔法が効かないならどうすれば良いのだと考えた。

「アナカダ様」

 自分を掴んでいる人間の一人、左大将アナカダに振り向く。

「あの本を取りに行かせて下さい。私にやらせて下さい。ディナティ王様を助けます」

「世迷い言を。王を殺そうとしたくせに」

 叩きつけられた言葉に、ラウリーの胸が詰まった。嗚咽が洩れたが、かろうじて泣かずに済んだ。

 ラウリーは腕を引っぱられ髪を引っぱられて、王から遠ざけられた。紫の髪が何本も抜けた。周囲で騒ぐ者たちの誰が何を言っているのか、今のラウリーには聞こえていなかった。彼女は精一杯の抵抗をしながら、声を上げた。

「お願いします、私に魔法を使わせて! 王様を助けたいんです。私を救って!」

 彼女のつたないネロウェン語が分かる者たちは、その最後の言葉を「文法を間違えたらしい」と思っただけだった。

 だがラウリーは間違えておらず、自分で言った自分の心に驚愕した。

 王を救うことで、自分が救われたいのだ。

 何の役にも立たない愚かな自分を、自分が救ってやりたいのだ。

 もっと広い視野を持っていれば、王をこんな目に遭わせずに済んだのに。

「お願い!」

 ラウリーは後悔を降りきって嘆願した。今できることをしなければ、もっと後悔する。

 左大将アナカダがラウリーの退室を命じようとした時、

「待って下さい」

 と彼に膝を突いた者がいた。

 クリフが、アナカダに土下座していた。

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