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2-2(取引)

 回廊を、初老の男と少年が歩く。

 その様子は先ほどと変わりなく見える。先に男が歩き、その後ろを少年がちょこちょことついて行く。きょとんとした表情は、少年だけでなくグールまで役者だ。

 だが男、この屋敷の執事は、振り返られないほどに緊張していた。

 少年の本当の顔を見てしまったからだ。

 先ほどの部屋でグールに押さえつけられた男は、懸命にとぼけた。

「お前は何者だ。何のことを言ってるんだ?」

 だが少年の表情は、冷ややかなまま変わらない。手が、すぐにでもグールに合図を送れるようにか、かすかに浮いて揺れている。

 子グールの重さは、まだ動けないほど重くもなかった。だが執事が動いたり叫んだりしたら、すぐに首を食いちぎるだろううなり声を上げている。人を殺さんとする鋭い眼光を、グールだけでなく少年も持っていた。それを執事は凝視してしまった。

 子供と思えない。もし見た目通りに子供なのだとしたら、どんなに凄惨な体験をしてきたのか……そんな戦慄を覚えさせられた。

「ネタは割れてるんだ。今この場で命が惜しいなら、僕をそいつの元へ連れて行け。簡単なことだ」

 有無を言わせない子供の口調に、男は頷かざるを得なかった。

 そうして2人は回廊を、屋敷の中心に向かって歩いている。

 中庭を囲む丸い通路の終点に階段があり、2階へ続いている。階段は屋敷の中を通っていて、そこですれ違う男も女も、2人を避けてくれた。その中には屋敷の護衛らしき屈強そうな男などもいたが、少年の呆けた表情は変わらない。

 階段を登ると、そこからの通路はまた外に面していた。

 片側に部屋が並び、反対側には空が見えている。屋根と腰丈のベランダに囲まれて四角く切り取られた空は若干澱んでおり、白く淡い雲がなびいている。ベランダ下には中庭が広がっていて、正面玄関も見える。マシャは脳裏で、ベランダから正門までの距離を目分量で測った。

 その部屋は、鍵付きだった。

 ヤフリナ国との行き来があると、皆、考えることが同じになるらしい。大事な部屋には鍵が付くようになる。それは逆に、今までネロウェン国の文化がどんなにおおらかであったかを忍ばせるようだ。

 ディナティ王の治めなければならないこの国は、どんどん物騒になって行く。

 小姓として、ほんの少しでも関わってしまえば、それが気になるのは当たり前だ。

 だがマシャは今、王の小姓としてでなく海兵団員として、そこに立っていた。彼女の目前に横たわる人物が、海兵団の船長だからだ。

 胸が詰まった。

 執事が部屋の番をする男を下がらせて扉を開けた時、マシャは必死で歯を食いしばって口を閉ざした。叫んでしまいそうだった。2ヶ月と離れていない者だったのに、とても懐かしく見え……そして、その顔が別人のようになっていたから。

 拷問の跡。

 まだ寒い時期だというのに、彼はボロ布のような服一枚しか身につけていない。裸足には鉄の鎖を巻きつけられていた。縄で身体を縛られていて、その隙間から見える肌がすべて赤く腫れ上がっている。

 うつむいたままの彼は気を失っているのか、ピクリとも動かない。伸びた前髪と髭が褪せた銀色で顔を覆っていて、表情が分からなかった。きちんと風呂に入れられているわけもなく、辺りには汗のような汚物のような、すえた臭いすら漂っている。これが夏なら、もっとひどい悪臭だっただろう。

 その、あまりに酷い姿に目を奪われて、マシャに隙ができてしまった。

「あっ!」

 一瞬だった。

 気が付いたらマシャは、腕を背中に締め上げられていた。グールが悲鳴を上げた。見ると、部屋の外に控えていたはずの番人がグールを取り押さえており、自分を羽交い締めにしたのは執事だった。よほど怒りが浸透しているようで、老体と思えない力でマシャは腕と首を絞められた。

 バタバタと暴れる子供に、執事がしわがれ声で高笑いした。

「しょせんガキだな、こんな方法で我らにたてつこうとは!」

「放せっ!」

 マシャは力いっぱい暴れた。

「こいつ!」

 だが男は手放さない。むしろ、どんどんと締めつける。マシャは突然グッタリと脱力した。

「?」

 執事が思わず少年の顔を覗きこんだ。当然、手が緩んだ。

「うわっ」

 一瞬の沈黙を突いてまたマシャが盛大に暴れ、足を振りあげた。

「“オルセイ”!」

 はね上げた足が、子グールを押さえつけている番人の顎を蹴飛ばした。うぎゃっと番人がのけぞり、グール“オルセイ”が自由になった。

「走れっ」

 子供の声に合わせて弾かれたように走りだしたグールを、その回廊にいた誰もが止められなかった。加速度を増す黒グールの猛進を止めようとすれば、自分が轢かれるかも知れない。回廊を歩いてきた召使いらしき女が、悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。

「飛べ!」

 跳躍──。

 その場に居合わせた者らが悲鳴を上げる中、グール“オルセイ”はマシャの叫びに合わせて手すりに飛び移り、階下に広がる庭へと空を舞った。

 空の風景とはあまりに不似合いな黒く丸い姿は、すぐに手すりの下へと消えていった。思わず、マシャを取り押さえている執事までもがポカンとしてしまったほどだった。

 だがマシャが再び暴れたために執事は我に返り、手に力を込めて叫んだ。

「門番! 衛兵を出せ、あのグールを捕らえろ!」

 内心、捕らえられるかどうかと思いつつ。

 しかしながら口の利けない動物ごときという気持ちもある。こざかしい小僧は手の中だ。初老の男はつまらない騒ぎを起こしてくれたガキを、ぐっと締め上げた。

「言え! 誰のさしがねだ!」

 こんな、どこの者が送ってきたのかも分からない子供にこちらの情報を握られているとあっては、フセクシェル家の名に傷が付く。何より自分が、どんな咎めを受けるか分からない。男爵の執事である彼は、憎しみを込めて子供を睨みつけた。

 だが、執事はふと気が付いた。

 まだ10歳すぎて間もないように見える子供が、彼がどんなに腕をねじり上げても声一つ上げていないのだ。彼は身震いした。先ほど、自分がグールに押さえられた時もこの子供は、子供と思えない目をしたではないか。

「お前……誰だ?」

 こわばった執事の問いかけに、子供は肩越しに男を見てにっと笑った。

「フセクシェル家の皆々様は、ガキの命一つと引き替えに国家を敵に回す勇気がおありかい?」

「何……?」

 思いも寄らない脅し文句に、執事が凍った。

「な、お前、何を言ってるんだ」

 彼の顔が笑いかけている。それを見てマシャも冷笑した。

「僕を殺せば国王軍が攻めて来るよって言ってんだ。さっさとこの手を放してくれよ、オッサン」

 だが狼狽した執事がそれを実行する前に、引き止める者が現れた。

「放す必要はない」

 はっきりとした快活な口調だった。

 発音も良い。滑らかで聞きやすいテノールの音とその響きは聞く者に心地よさを与える音色である。言葉の使い方、声の出し方を熟知している、洗練された者の声だ。

 マシャは不用意に首を動かさず、その者が自分の目前に立つまで動かずに待った。待つ間の執事の腕から、震えが伝わってくるように感じられた。

「だ、旦那様」

 執事の怯えた声がマシャには滑稽に思えたが、しかし顔を見せた旦那様、フセクシェル男爵には人を怯えさせるだけの何かが備わっていた。

 優しそうに見える笑みで目も口も覆っているくせに、その奥にひそむ眼光が蛇のようにマシャを刺している。

 不自然なほどに黒い髪と、ニユ神の守護を示す緑色の瞳。こんな男が『安息』などとは、合わなさすぎて笑ってしまう。毛先をピンと整えた口髭も印象的だったが、マシャはそんなところを覚えなかった。剃れば顔が変わる。それよりは直しようのない四角い顎と歪んだ耳、鋭く光る細い一重の目が、端的に彼を現している。

 至近距離にまで近づいたその男は、執事にその手を放すなと言いおいてから、マシャの頬を打った。

「子供は好きじゃなくてね。その甲高い声がどうも頭に響く」

「そりゃ悪いな。僕はオッサンのうなり声が好きじゃないんで、あいこだね」

 すかさず返ってきた毒舌に、男爵は髭の先を振るわせた。

「私はヤハウェイサーム・フセクシェルと言う。ヤハウェイと呼びたまえ。自分を殺す男の名ぐらいは知りたかろう」

 言いながら、ヤハウェイはマシャの頬をもう一度叩いた。今度は逆側である。均等に顔を赤く腫らした子供は、それでも減らず口を止めない。

「覚えておいてやるよ。墓碑に刻んでやらなきゃならないからね」

「大したガキだ。こいつを縛れ」

 ヤハウェイは顔を歪めた。

 マシャを捕らえたままの執事が声を上げた。

「旦那様、この子供めはテネッサ商会を知っております。しかも自分を殺せば国王軍が攻めてくるなどと嘘を……」

「嘘じゃないよ。僕はディナティ王様の小姓さ。男爵家にロマラール人が捕らえられてるって聞いたから、返してもらいに来たんだよ。ロマラール人の身柄は国王様が預かる。これに刃向かうなら王の勅令を退けたとして、罰せられることになるだろう」

 とうとうと述べた子供の口上に、ヤハウェイが気配を変えた。

 マシャはそうした言葉を発している間に、あれよあれよと縛られていた。男が転がっている同じ床に、そのまま放りこまれて転がされた。絨毯に放り出されたマシャは背中を打って、芋虫のようにのけぞった。ここまでぐるぐる巻きにしなくても良いのにとか何とかボヤいたが、誰も聞き入れてはくれなかった。

「僕を殺したり痛めつけたりしたら王様が攻めて来るぞっつってんのに頭悪いね、あんたら」

「ほざけ。お前が小姓などという証拠がどこにあるんだ。それより言え、どうしてお前なんかがテネッサ商会という名を知っている? 誰に頼まれてここまで来た? 吐くのはお前の方だ、命が惜しければな」

「ふぅん。じゃあ言わない。言わないから、このまま僕を一晩拘束しておけよ。明日にはディナティ王様を拝めるぜ」

 吐き捨てたマシャはしかし、内心では顔色を変えたヤハウェイを見て少しほっとした。この脅しの意味が分からない相手だと交渉の余地がなかったからだ。マシャは相手が頭の良い悪党だったことに感謝した。

 そして脅しの意味を理解したらしい悪党は、ギリと唇を噛んだのだった。

「この小僧はこのまま転がしておけ。テネッサ商会に連絡を。小僧の身元を調べる」

「テネッサに伝言を出すより、ディナティ王様に懇願した方が早いんじゃないの?」

「黙れ、小僧」

 ヤハウェイは静かな口調に激情を乗せて、マシャを足蹴にした。平手よりさらに痛烈な痛みが頬を襲ったが、それでもマシャは声を上げなかった。歯を食いしばったので、奥歯は折れなかったようだ。だが頬の内側は切ったらしい。マシャはべっと絨毯に血を吐き出した。男爵がまた顔を歪めたが、無視した。

 つまりマシャは、自らをおとりにして屋敷に侵入し、そしてヤハウェイにしらを切らせないために進んで人質になったのだ。

 ディナティが直接「ロマラール人を返せ」とここに乗りこんでも、そんな者はいないととぼけられる恐れがある。家宅捜索をしたくてもロマラール人の顔も知らない。それどころか有力な貴族に国王が言いがかりを付けたとして、政治問題にもなりかねない。

 そのためにマシャが侵入し、ナザリの所在を確かめたのだ。

 もし最悪ナザリがすでに殺されていたとしても、“小姓奪回”の名目でディナティは男爵を攻めることができる。

 そしてそのためにはマシャは、屋敷から帰れない状態にならなくてはならなかった。

 だからテネッサ商会の名を告げたのだ。

「なかなかどうして、大したガキじゃないか。フセクシェル家とテネッサ商会がつながっていることを知っているとは」

 ヤハウェイはそう言いながらマシャの側にしゃがんだ。

「するとディナティ王様もすでに、そのことをご存じなわけか? ん?」

「僕が本当に小姓なら、当然報告してあるだろうねぇ」

 撫でるようないやらしい声音に合わせて、マシャもゆっくり彼のカンに障るような言い方をしてやった。ヤハウェイがマシャの想像通りの顔色になるのを見ながら、マシャは第一段階の成功に息をついた。

 殺せば、国王軍が攻めてくる。

 だがロマラール人をこの子供に与えて放すわけにも行かない。ヤハウェイはヤハウェイで理由があって、あれを捕らえてある。

 とすれば、この小僧を捕らえたまま国王軍の到着を待ち、真偽のほどを確認するより他にない。──そういう状況をマシャは作りだしたのだ。

 国王軍などというものがハッタリならば、明日殺せば良い。

 本当に国王軍がやってきたり、連中がこの子供からテネッサ商会のことをすでに聞いてあるのだとすれば、そのように対策を打たなければならない。

 そこまで考えが巡ったのだろう、ヤハウェイは「厄介な」と舌打ちをした。

「だがお前が本当に小姓だとしても、私には支障のないことだ。──というのをハッタリと取るかね?」

 ヤハウェイは黒い髭の下に薄い微笑みを貼りつけて、マシャの胸ぐらに手を伸ばした。思わず逃げかけたが、動けないマシャの服は骨張った中年男性の手にあっさり捕まった。

 引っぱられかけたところで男爵は「ああそうだ」と戸口に立って一部始終を見守る番人と執事に向きなおった。

「うっかりこのガキを入れたあげくにこの囚人を見せた阿呆な男を、首にしておけ」

「は」

「は」

「は?」

 それぞれの男がめいめいの声を上げ、疑問形をくっつけた初老の執事は、番人二人にガシッと腕を取られた。慌てて執事は暴れた。

「だ、旦那様?! いや、あの、も、申し訳ありません、この子供があまりにも、」

「阿呆の言い訳は無駄口だ。舌を切り取って焼いて食いでもすれば、少しはお前も役に立つか」

 おぞましい例えにマシャですら、つい顔を歪めてしまった。自分に向きなおったヤハウェイにそれを見られ、慌てて表情を作ったが遅かった。

「さて」

 それこそ、この男は自分を切り刻んで焼いて食べるぐらいのことはしでかすのではないか──。マシャが戦慄を必死に隠そうとする中、しわがれた哀れな声が引きずられ遠ざかっていった。

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