1-5(喧噪)
「ラウリー!」
まっさきに部屋へ飛びこんだクリフは、異様な光景に足を止めた。
確かに窓は開いている。と、何やら呑気な思考に捕らわれた。なぜなら嵐のような暴風が部屋の中を荒らしており、いたるところに食器やら家具やらが飛んでいたからだ。さすがに重いものは飛んでいないようだが、それでも目が開けていられないほどの風には体がさらわれそうなほどである。
ベッドも浮いてはいない。
だが、そこに寝ていたはずの者が、そこに浮いていた。
「オル……セイ?」
硬い声で呟いたクリフに、直立不動で中空に浮遊しているオルセイは見向きもしない。その視線の先にはラウリーと、そして黒いマントをたなびかせる翠髪の者がいた。男か女か分からないほどの美貌に、クリフは思わず目が点になってしまった。
「オルセイ! クリフ、どうしたの?! きゃっ」
母親がクリフを押しのけて部屋へ入ろうとして、風に押しもどされた。「母さんっ」とクリフがこれを支えた。父親もその後ろから室内を見て、声を上げた。
「何だ、何がどうなっているんだ?! ラウリー!」
呼ばれても、ラウリーもクリフらに振り向かなかった。だがそれは自失している風ではなく、ラウリーも、目前の光景におののき泣いているためだった。
身を起こし、不自然に地面から足を離して寝間着の裾をはためかせているオルセイ。薄い綿の服一枚にも関わらず、彼は寒さを感じていないかのように堂々と胸を張って、皆を見おろしているのだ。目が開いているのだ。
それはクリフが見慣れたかつての友人の目をしていなかった。
クリフは足をふんばって風に負けないように歩き、黒い男の側にへたり込んでいるラウリーに近づいた。ラウリーは小さく丸くなって組んだ手を口に当て、葉の震えを止めるのに必死になっていた。
「兄さん」
小さな呟きがクリフの耳に届いた。
「ラウリー! 何なんだ、これは」
肩を揺さぶられ、ゆるゆるとラウリーが首を振った。彼女の紫髪が風にあおられ、踊り狂っている。彼女の目尻からの涙も一滴、風に舞った。
「わた、私のせいで……。私の祈りが、兄さんを、」
「お前のせいではない」
囁くように紡がれた言葉がラウリーの懺悔を遮り、次いでその声は叫びに変わった。
「ダナ!」
天から降りたかのような澄んだ声が紡ぎ出した言葉は、あまりにも不可解で、ラウリーも涙を止め、全員が黒い男を凝視した。しゃがみこんだラウリーとクリフ、戸口に貼りついた母親と、父親。
男は嵐をものともしていないように、そこに立ちオルセイをだけ見つめていた。深い輝きをたたえた切れ長の瞳には何の感情も見出せない。だがクリフとラウリーは間近からその目を見て、ほんのわずかだけ彼が眉をひそめていることに気付いたのだった。
宙に浮いたオルセイはゆっくりと両手を広げ、よく見知ったその顔に、まったく見知らぬ表情を浮かべて笑った。母親はそれを見て、扉に体を預けるようにしてよろめき、言った。
「あなた、誰……?」
呆然と。
母親には、自分の息子が息子でないことが分かったのだ。
オルセイの周囲に、新たな風が舞い起こった。窓から差しこむ光も、急に暗くなった。男が放出し続けてオルセイを包んでいた“オーラ”が、風に散って消えた。男が初めて、かすかに表情を変えた。
「おい、ダナって何だよ!」
「クリフ!」
ラウリーの制止も聞かず、クリフが男に詰め寄ろうとする。
しかしその時、
「クリフ!」
「クリフ?!」
悲鳴のような母親らの声が次々に上がった。詰め寄ろうとして立ち上がったクリフを、突風が襲ったのだ。
「邪魔だ」
目覚めたオルセイが、初めて口を開いた。その声は兄のものだったが、その言葉は別人だった。風に吹き飛ばされたクリフの体はいとも簡単に宙に舞い、戸口近くにまで投げ出されて壁に激突した。「ぐ……!」
まだ体調が万全でなかったこともあって受け身も何もできず、クリフは床に落ちた。母親が悲鳴を上げながらクリフにすがりついた。父親がヨロヨロと室内に入ろうとしたが、吹き荒れる風に阻まれて膝を折った。ベッドすらも揺れ、布団が浮き上がり、家具が揺れ小物が風に踊る。それらから身をかわすのが精一杯で、ラウリーも誰も、立ち上がることなどできない。
しかしそんな中で、男だけが立っている。
「魔道士か」
オルセイは手を広げ、風を起こしながらフンと鼻で笑った。呼ばれた男──魔道士の方は、顔色も変えず片手をオルセイに向けてかざした。
その言葉を聞いてふと思いを巡らせたのは、クリフだった。クリフは痛む肩を押さえながら、やっぱりあいつは魔道士だったのかと思った。
ラウリーは殆どそう思っているかのような素振りだったが、確証はなかったし、クリフは自分で見たわけでもなかったし、雪山で殺されかけてもいる。助けてくれたが、それならばなぜギリギリまで放っておかれたのかも分からない。吹雪はたまたまかも知れないが、しかし、誰にも姿を見せないはずの魔道士が里に降りてきて、しかもオルセイを救おうとしている。それはただの親切でなく、何か理由があると思う方が自然だ。
クリフはその理由が、別人と化しているオルセイの状態と関係しているのではないかと思った。少なくともオルセイでないオルセイは、男を躊躇なく「魔道士」と呼んだ。
宙に浮いたままのオルセイと手をかざした魔道士との間に、ひときわ大きい風が巻き起こった。バチバチと音がして、無数の火花が散った。何らかの、見えない攻防が繰り広げられているらしい。
風が刃物のようにうなりを上げ、辺りを切り裂いた。家具に傷がつき、ベッドが引き裂かれ、魔道士の頬をかすめた。血が飛ぶ。オルセイも負傷した。寝着がぼろ布のように舞い散り、やはり血が舞った。
「魔道士様!」
「オルセイ!」
負傷にひるんで風が弱まった隙を狙って、4人が走った。ラウリーが魔道士の前に走り出て、クリフはオルセイの浮いている足にしがみつき、引っ張って下ろそうとした。続けて、母親と父親も続く。
だがすぐに見えない力が、3人をはねのけた。
いやクリフだけは、かろうじてオルセイの足を掴んでいた。
強い力がクリフの頬や肩などを打ちつけているようだったが、顔を歪めながら、それでもクリフはオルセイを足にしがみついていた。しきりに何かわめいているが、風にさらわれ言葉をなしていなかった。
母親らは悲鳴を上げ、床に叩きつけられた。まだ起きたばかりだった父親は頭を打ち、混沌状態に陥った。
「お父さん!」
叫びながらもラウリーは背後にオルセイをかばい、黒い男の前に立ちはだかって叫んだ。
「魔道士様! どうして、どうしてこんなことに……!」
「どきなさい、ラウリー」
魔道士は無表情を崩さない。しかし声は静かだったが、その途端に足元から湧き起こる強い風が魔道士を包み、魔道士やラウリーらの髪を吹き上げた。ラウリーは目を開けていられなくなった。立っていることさえやっとだ。
背中に強い魔力を感じた。
兄オルセイが発するものだ。
ラウリーの背筋に、ぞくりと冷気が這い上がった。彼女は咄嗟に「怖い」と思っていた。兄が怖い。兄が、敵意ある魔力を向けてきている。
しかしコマーラ家はおろか村の者だってほとんど魔法のことなど知らず、学んでいたのはラウリーだけだ。兄だってクリフだって、そんな怪しげなものと笑って魔法に見向きもしなかった人間なのである。そんな兄が、こんな強い力を発することなどできない。まして、こんなにもすべてを憎む暗い殺気を放つことなど、オルセイは、しない。
そうラウリーが感じ思った時間は、一秒もなかっただろう。
魔道士がどきなさいと言った次の瞬間には、閉じた目の中を突き刺すほどの光が塊となって、部屋を覆い尽くしていた。
「!!!」
ラウリーの視界が潰れた。すべてが光になった。
聞こえず、見えない。自分の叫びすら聞こえない。
おそらく自分は今、悲鳴を上げている。
喉がひりついている。
体中がきしんでいる。
自分が消えそうだ。
そんな、何も聞こえないはずの耳に、誰かが何かを叫んだように聞こえた。
沢山の、何かの音が聞こえた気がした。
何かが見えた気がした。
いや、すべては五感を超えて、心に響いてきたものだったのかも知れない。
ありえない光景が目前に広がった──ように思えた。
紫の髪がなびいた。
オルセイの髪ではない。彼は黒い髪をしている。
しかし自分の髪でもない。自分の髪は自分で見えない。ましてあんな遠くに。
白く発光する空間の中にボンヤリと、紫髪の者がたたずんでいる。いや視界いっぱいを埋めるほど近くに見えるのか。いやそう見えるだけで本当は遠いのか……距離ということすら念頭から消えるほど、その景色はラウリーの脳裏を埋めつくした。
だがそれは、すぐに消えた。
消えかける紫の者の後ろ姿を見て、ラウリーは『ダナ』と思った。
ああ、そうだ。
死の神、ダナ。
ラウリーとオルセイの生まれ月の守護神。
ダナ神は神話の中で、紫の髪をしている。
紫の瞳をしている。
映像のダナは爛々と輝く瞳で、ラウリーを射抜いた。ように思えた。
錯覚だったのかと思うほどにあっさり、それは消えてしまった。
兄が見せた瞳にも似ていた。
ラウリーはふと魔道士の目にも、あのダナ神が見えていたのだろうかと思った。
そんなとりとめのない走馬燈のような思考と映像が頭を巡り──気付けば、ラウリーは床に倒れていた。
「大丈夫か」
天から声が降ってきた。
一瞬、自分は死んだのかとラウリーは思った。
神の使いが自分に来てしまった。と、そう思ってから、その声がさきほどの魔道士であることに気が付いて、ラウリーはまぶたを押し開けたのだった。
さきほどの暗さとは違う健康的な光が、辺りを取り巻いている。その中から翠髪の男が自分を覗きこんでいた。ラウリーは目を開けたものの、やっぱり神の使いかと思いなおしてため息をつきそうになった。
魔道士の、この世のものではないほどに美しい顔と、翠の瞳。翠の髪。それを“これは夢なのだ”と思うか“夢ではないのだ”と思うのか。
ラウリーは額に手を当てた。少なくとも手の平の感触は夢ではない。夢でないなら、そこに兄やクリフがいるはずだ。父や母が、いるはずだ。
ラウリーは、ゆっくり身を起こした。
その様子を見て魔道士は立ち上がり、室内を見回した。
ラウリーも同じように目を動かす。
「父さん! 母さん!」
突っ伏してうめいている父親と母親がいた。
しかし。
荒れた室内をどう見渡してみても、そこにオルセイとクリフの姿はなかった。