1-8(覚醒)
──殺せない。
ラウリーは口元を押さえて泣き声を殺し、闇の回廊を駆けた。部屋に戻らなかったのだ。戻れなかった。このように熱い心を抱えたまま、眠れるわけがなかった。隣の部屋には、殺しそこねた男がいるというのに。
ふんわりとした、ドレスのような絹の夜着が衣ずれの音を出し、サンダルがパタパタとうるさかったが、ラウリーはもう気にしていなかった。むしろ、それらの音が泣き声を隠してくれて、ちょうど良い。だからラウリーは立ち止まらなかった。
本当に刺したかったのかと自問する。右手にはまだ、固く握りしめられている短剣がある。いっそ自分の喉にそれを突きたてたい衝動が走る。でもそうしたら、あの男が死ぬ様を見届けられない、とも思う。
憎かった。
兄の血を吸った半身、ラウリーが着ていたローブを、クリフはいとも簡単に破り捨てたのだ。自分がどんな思いで兄を悼んでいたのか、兄を刺したクリフには見えていなかったのだ。むしろ他の者と同じく、忘れろとラウリーに諫言をした。
クリフも忘れたいのだろうな、とラウリーは思う。不可抗力にしろ望んでなかったにしろ、クリフがオルセイを刺した事実は変わらない。いくら記憶が薄れても、決してなかったことにはならない。
「無駄よ」
ラウリーは呟き、ひたりと足を止めた。
長くまっすぐに伸びる回廊を走り続け、角まで来てしまった。廊下は曲がって続いている。曲がった先にも同じ景色が伸びていて、同じように柱と庭が並んでいる。
ただしこちら側の庭には、まぶしいほどの月光が落ちていた。ラウリーは目が覚めたかのように、ゆっくりと庭の木々を眺め、そこに足を差し入れた。石で四角く固められた溝の中に、透明な水が流れている。波がチラチラと光って美しかった。ラウリーは水面を見ながら、側にあったベンチに腰を下ろした。そのベンチに、つい数時間前にクリフが座っていたとは露知らず。
「私は忘れないわ」
どれだけでも、鮮明に兄の顔を思い出せる。
時には厳しかったり冷たかったりもしたが、兄はいつでも自分を守ってくれていた。家族といながら、クリフといながら、常に一かけらの心を自分に向けてくれていた。クリフのように、まったくラウリーのことを忘れてしまうことなどなかった。
クリフのように。
「う……」
ラウリーは、枯れたと思った涙がまた流れてきたのを、両手で顔を覆って押さえた。手の平に涙が溜まる。指の間から流れて、膝に落ちる。泣きやめない。気づいてしまったから。
もうクリフに対してなくしたと……薄れていたと思っていた恋慕の情が、自分の中に残っている。
自分は、こんなにもクリフが好きだったのだ。
「どうして」
ラウリーは震える声で呟いた。答はない。
どうしてクリフだったのか、などと。分かるわけもない。
好きな男がクリフでなければ。兄を刺したのが、クリフでなければ。──家に来たのが、クリフでなければ……。
ラウリーは一緒に住むことになったクリフのすべてを憶えている。偉そうな者には歯向かい、小さい子供のことはいたわるクリフ。彼の周りには常に誰かがいた。その“誰か”が一番多かったのは、もちろんオルセイだった。元々母親を亡くしていたクリフは、コマーラ家によく懐いていた。
初めてコマーラ家に来た時のクリフが別人だったかのように、彼は明るくなった。
剣士だったクリフの父親は、領主の警護をしている旅の最中で嵐に遭い、崖から落ちて死んだという。「せめて盗賊と戦ったなどだったら武勇伝になるのに」といった、葬儀の際に耳にした心ない言葉は、幼かったラウリーですら記憶に残っているのだ、クリフだってきっと忘れていないだろうと思う。
剣士の正装をした少年は口を引き結んで、精一杯大人の顔をして喪主の隣りに立っていた。まるで自分が本当の喪主だとでも言わんばかりに。
そして能面のままでクリフは、コマーラ家に来たのだ。喪主はクリフの親戚だったが、クリフを引き取ることよりも引き取れない理由ばかりを挙げ連ねるので、ジザリー=コマーラが名乗りを上げたのだった。ノーマ家に大した財産がなかったため、決着は早かった。と、ラウリーは母親から聞いている。
『父さんね、その時、そんなものよりも心の財産を失う方が怖いってそう言って、クリフを家に呼んだのよ』
ラウリーの母は、その時の様子を誇らしげに話してくれたものだった。
一緒に住むようになったクリフがいつ頃からどのように明るくなったのかの記憶は、残念ながら定かではない。気が付いたら、たくましくなった青年がいただけだった。
どんどんと筋肉が付いて、背が伸びて顔が変わっていくのを、ラウリーはずっと見ていた。勝てないことが悔しくて、クリフの中の自分があまりに軽い存在であるのが寂しくて、思考からクリフを排除しようと決めた。考えてしまうから気になるのだ。気になるから見てしまうのだ。
見ないように、気にしないように、考えないように。
そう努力している時点ですでに、こんなに考えていたというのに。
ラウリーは枯れない涙を流れるに任せたまま、空を見あげた。満月ではないが、少し欠けているがとても明るい。だから水が強く輝いているのだ。月がなければ、水は反射して光らない。
好きでなければ、こんなにも悔しくて嫌だとも思わなかっただろう。
もっと兄のことを考えて欲しくて、もっと自分の気持ちを分かって欲しくて。分かってもらえないのが悔しくてもどかしくて悲しくて……。
いつしか涙は止み、ラウリーは、ぼんやりと水の移ろいを見ていた。もうどれぐらいそうしていたのかは、まったく分からない。しかし後ろから肩を掴まれた、その手がとても温かかったので、ラウリーは自分の肩が冷えていることに気づいたのだった。
「ひゃっ!?」
思わず声が出た。
後ろから近づいてくる気配に、まったく気が付かなかった。
後ろに立った者はラウリーの跳びはねた声に慌てて、その肩から両手を放した。放した途端に、肩にかけたはずの上着が地面に落ちて、彼は「ああ」と息をつきながらそれを拾った。ラウリーは振り向き、そんな青年を凝視した。
青年は上着の土を払うと、それをもう一度そっとラウリーの肩にかけた。
「ネロウェンの夜は冷えます」
ネロウェン語である。しかも王と同じ言葉遣いの、ゆったりとした高貴な口調だ。兵らの荒っぽいものとは違う。見てすぐに、それはそうだなと思ったが。
「……あなたは?」
青年はネロウェン人の顔をしていてディナティと同じ金の髪留めをして、服装も貴族のそれだった。
「あなたは確か」
ラウリーはつい先ほどの記憶を辿った。会ったばかりだ。彼は宴の席で、王に平伏していた。
「マラナエバと言います。女神様」
「止めて下さい」
回りこんできてひざまずく彼の大袈裟な挨拶に、ラウリーは眉を寄せた。持ちあげられた手を引っこめる。マラナエバは笑みを崩さずに一礼した。
「ではコマーラ様と」
「私はラウリーです。私は女神じゃありません。それに……いえ」
魔法だって使えませんと言いかけて止めた。その単語が浮かばなかったためだ。余計なことを言わずに済んだ。誰かに愚痴を吐いてしまいたい気持ちがあるせいだ。
皆が自分に気を遣ってくれるから、誰にも当たれずに悶々としていたせいもあるのだろう。その鬱屈の爆発が……この剣だ。
ラウリーは膝に置いたままだった短剣を、腰の鞘に収めた。
「危険なものを持って、散歩をされるのですね」
「……」
ラウリーは返答を思いつかず、目をさまよわせた。
「宮殿は気持ちよくないですか?」
「いいえ。違います」
けれどそれ以上の言い訳も解説も言えない。座りこんでうつむいているラウリーを、マラナエバは膝を突いたまま見あげた。涼やかな瞳に覗きこまれて、ラウリーはうろたえて身を引いた。
宴の席で遠目に見ていた時は特に気にしていなかったのだが、マラナエバはとても整った顔をしていた。ディナティの野性的で少年らしさの残る顔とはずいぶん違う。自分が異国人なので、彼ら兄弟としての共通点が見出せないだけだろうかと思ったが、それを言うなら逆に、異国人の兄弟などなおさら同じ顔に見えるはずだろう。行軍で知り合ったネロウェン兵は最初、皆同じ顔に見えたものだ。それらの者と比べても、マラナエバの顔はどこか違うように見えた。
「そのように見つめられては、言葉を失ってしまいます」
「あ」
うっかりラウリーの方が、彼を凝視していた。ラウリーは赤くなってうつむいた。
マラナエバは、さりげなくラウリーの隣りに腰かけた。肘に膝を突いて、体を前に倒し、覗きこむように顔をラウリーに向けている。
「使者に聞きました。何やら……とても大変な戦だったのですね。ジェナルム人を連れて攻めてきたのも、ジェナルム国王ではなかったとか」
それについてラウリーが返答をためらっていると、マラナエバはラウリーの手に手を重ねた。ラウリーはびくりとして手を引きかけたが、掴まれてしまって放せなかった。
「一人で悲しみを抱えるのは、良くありません。私にも兄がいます。私はあなたの悲しみを分かります」
「あなたは私のことを知っているのですか?」
「使者から聞きました。お会いするのを、楽しみにしていました」
マラナエバは手を放して、気恥ずかしげに目をそらした。
同じ“兄を持つ身”ということで気を楽にしたラウリーは、それからマラナエバとぽつぽつ言葉を交わした。マラナエバはラウリーの言語能力に合わせて、簡単な言葉を使ってくれた。そうした細かい気遣いはディナティ王にすらないもので、ラウリーは自分の肩から力が抜けていくのを感じた。
早く元気になれと言われると、心が反発する。そんなに早く元気になれないし、記憶は薄れない。それどころか自分は少しでも──例え10年でも20年でも、その死を悼み続けていたいと思うから。
「あなたは間違っていません」
マラナエバが力強く肯定してくれたおかげで、ラウリーは余計に安心した。
皆が自分に優しいし甲斐甲斐しく面倒を看てくれてありがたいのだが、どこか微妙にラウリーを責めていた。ローブを脱いだラウリーに安堵するディナティ王やマシャの表情が、ラウリーには辛かった。どうして皆、そんなに早く切りかえられるのか。未来に前進できるのか。
それを言うとマラナエバは苦笑した。
苦笑の意味が分からなくて、ラウリーは首を傾げた。
「私に似ていると思ったからです。私も立ち止まっている。兄に反発することも、近づくこともできずに」
「あの……お兄さんは、ディナティ王様ですよね?」
「そうです」
「あなたは、王様より年上に見えますが?」
マラナエバはしばしの沈黙を挟んでから、笑みを浮かべた。
「ラウリー。あなたには分からないでしょう。私は、妾の子です」
「メカケ?」
「国王の妻でない者です」
ラウリーは言葉の意味というよりもマラナエバの表情から、悪いことを聞いたらしいと判断した。
「すみません」
「謝ることはない」
するとマラナエバは、またうつむいてしまったラウリーの顎に、一瞬だけ手を触れた。ラウリーは顔をはねあげた。
「あなたは魅力的だ」
「止めて下さい」
「嘘は言わないよ。美しい」
「わ、私なんかっ。私なんて……。宴の、あの人が。ああいう人を美しいというんです」
「ああいう人?」
「ええと、金の、美人の」
“踊り子”の単語を知らないので、ラウリーは詰まってしまった。だがマラナエバはラウリーの言いたいことを察知したらしく、「ああ」と顎を上げた。
「美もああなると、毒だ」
マラナエバは苦笑気味に呟くと、それきり、それについては口を閉ざしてしまった。彼の用意した“趣向”ではなかったのだろうかと思ったが、他にはこれといって派手な演出もなかったように思う。王の寝室へと消えていった踊り子が、やはり一番目立っていた。
だがあの女性について否定的な意見が聞けたのは初めてだったので、いくぶん気持ちが和らいだのも事実だった。ラウリーは罪悪感を感じながらも、少し明るい顔をした。
「それで良い」
マラナエバの視線は目ざとい。
「自信を持ちなさい。美しい女性の微笑みは、光だ」
赤面もののセリフに、ラウリーは内心鳥肌が立った。今まで、ここまで面と向かってこんなセリフを言われたことなどない。自分がもっと沢山のネロウェン語を理解していたら、もっと複雑多様な口説き文句が出るんだろうか、この人は。と思ってしまった。
だが負けてばかりもいられない。ラウリーは「あなたも」と返した。
「マラナエバ様も、自信を持って下さい。あなたが彼を好きなら、きっと仲良くなれます」
「マラナエバ、と。様はいりません」
マラナエバはその言葉を鼻で笑いそうになったが、紫髪の娘がこれまででもっとも熱い視線を自分に向けてくるので、表情を変えるわけに行かなくなってしまった。変えるならこっちだ──笑顔。
「好きですよ」
「なら好きだと言えば良いんですよ」
苦笑してしまった。実に甘ちゃんな、平和ボケした田舎国の女神様だ。
「協力してくれますか?」
「喜んで」
ラウリーはぐっと頷いた。ここに来て、ようやく自分の仕事ができたと感じた。ので、ラウリーはマラナエバが影で浮かべた暗い笑みには気づかなかった。
マラナエバは「では……」と思案した後、嬉しそうにラウリーを見た。
「後日あなたの部屋に、ある酒を届けます。私が手に入れた、とても高価で少ししかないものなのです。ぜひ兄王に差し上げたいと思っていました。ですが兄は、私からの贈り物だと聞くと、それを断ってしまうのです」
「ディナティ王様がマラナエバさ……マラナエバを、お嫌いだと? そうは思いませんでしたが」
「王は、嘘の笑いができます」
「そんな」
ラウリーの脳裏にすかさず、これまでに話をしてきた色々なディナティが駆けめぐった。それらのすべてが表面的なものだったとは思えない。だが自分はまだ少ししか彼のこともこの国のことも知らない。そう思うと、自然とラウリーの顔が沈んでしまった。それを見計らったように、
「大丈夫。王は、あなたには心を開いているようです」
マラナエバがラウリーの肩を軽く叩いて言った。
「酒は、ラウリーからの贈り物だと言って下さい。ロマラールのものだとか何とか言って。けれど王は、それを飲んだらすぐに私からの贈り物だと分かるでしょう」
「分かりました」
ラウリーは自分に与えられた素敵な役目にウキウキした。自分は兄と決別してしまったが、この兄弟には仲良くなってもらいたい。そう思ったのだ。
死んでしまってからの後悔は辛いから。生きているうちに、やりたいと思うことは全部やってしまった方が良い。
例え当たって砕けても、“それをした”という満足は得られるはずだ。それが新たな後悔を生むとしても。
いや。後悔はさせない。
ラウリーは力強く顔を上げた。
「任せて下さい」
「感謝します、ラウリー」
マラナエバは立ち上がり、再びラウリーの前にひざまずいて手を取った。
「好きな相手に好きと言えるよう、努力します。あなたも、」
「え?」
ラウリーの心臓が、別の意味で鳴った。だが、マラナエバの言葉はラウリーの予感したものとは違った。
「あなたにも好きと言いたい。今度お会いする時には私に言わせて下さい」
「い、いやっ、えっと、あのっ?!」
正攻法で来られて、ようやく気づいたラウリーだった。
マラナエバはそこで立ち上がり、ラウリーをその場に残して去った。
「お風邪を召されませんよう」
と言いおいて。
「今度、会う時……」
顔が上気している。ラウリーは、きっとこの格好のせいだなと思うことにした。それに異国だし、今は月明かりしかない。肌の色も珍しいし、髪の色だってこんなだ。女神などという、わけの分からないフィルターもあることだし。きっとそうだ、うん。
などとひとしきり考えつつも、どこか心が浮かれている。それに“酒”についても考えなければならない。受けとる時は人に見つからないようにしなければならないだろう、とか、ディナティ王にはどうやって飲んでもらおうか、とか。
辛いことを考えずに済むのは、ありがたいことだ。
にわかに忙しくなったラウリーは、マラナエバがこんな夜更けに、どうして計ったかのように自分の前に現れたのかということを、すっかり失念していた。